薄らいでいくことと存在のよろこび、コミュニケーションの姿勢の変化

旧人格の好みや関心が軒並薄らいでいって、これは再誕生というよりはリセットだ。無になっていく感じなのだが、それは充実した無。虚ではなく実。
現象として・形としての何かがその充実を提供するのではなく、自身の内が、何もなくとも充実している。これを「存在の充実」と呼ぼうか。

前回記事◆「何もしないを見守る春【あなたの価値】」を書いて以降もそこで述べた通りの意味での「何もしない」は続き、そうするうちに現象面では自分の日常に、感動したり驚いたりするような出来事があった。
それらのどれもが、表層の自分は「知らなかった」つもりでも、今の自分になんとフィットしているのだろうと納得することばかりで、ますます「現実」という意識の投射劇場(の、いわばスクリーン)への信頼が深まったのだ。自分の内から生まれている現実であるという確かさ。

それにしても、私に今あるこの「薄らいでいく感」は予測しなかった。
これまで築いてきた私という人格がもう不必要なのかもしれない。かといって、それを「手放そう!」としているわけではないし、これから別な自分になりたいという願望を抱いているわけでもないし、何かを切り離す痛みのようなものを感じてもいない。むしろ穏やかなよろこびに浸っている。

ひたすら、自分の内の実在――人が創造主とか神とか森羅万象の源と呼ぶもの――との繋がり、一体感、同じものであることへの確かな安らぎが強まっている。
結果として、私の現実に見える色々な物事は、すべてオール・ライトなのだと感じている。

見ている自己と夢の中の自己

今でも夢の中の自己、つまり「自分自身を、この現実・人生の登場人物だと思っている自己」の部分は過去の経験から誤った解釈をし、それに沿った反応をして一時的に動揺することはある。しかし、夢を「見ている自己」こそが実体で「私」だという自覚が強固なので、そうした一時的な反応は、執着しなければ短時間で霧散してしまう。

幻想にちょっと揺らぎかけても、幻想に入り込む熱が生じないのだ。
幻想にあえて意味を持たせる熱意がないのは、幻想に没入して「リアル」と信じるほどには錯覚していないためだ。
幻想の中で何かがつかめる、違いを生むことができると考えるからこそ、人は苦しくても幻想にはまるし、その発想の中で取り組む。

幻想をどければ、実在が現れる。
実在は目に見えるものではないが、目に見える形としてこの世界で「表す」ことはできる。

言葉にすることへの思い入れの変化

こうなっていくと少々自分の性質が変わったなぁと思うのは、「言葉にする必要性」もまた、薄らいだことだ。
人間関係の中で言葉でやりとりすることは今でもしているし、こうして記事を書いている程度に言語表現を好んでいることは変わりないが、それにしても以前よりはずっと、言葉にすることへの思い入れがなくなった。

たとえばかつては私は、自分がわかり合いたいと思う相手との「話し合い」がけっこう好きだった。いや、好きというより、その方法に執着していたことがあったと思う。
ところが今は、話し合ってもいいけれど、なくてもいいという中立な気持ちで、なぜかといえば、内では確かなコミュニケーションが起きていることを知っているからだ。

すると、言葉の説明よりも「感じてもらうこと」の方に重きを置きたいし、そちらの方がもっと多くを伝えられると理解するようになった。
決して言葉にすることの意義を軽んじるわけではなく、臨機応変に言葉を用いるとしてもだ。

ここでさらに意外な変化が現われたのが、私がまだ未練を持ってなんとか形にしたがっていた活動、人間以外の生き物たちとテレパシーでコミュニケートする「アニマルコミュニケーション」に関してだ。

これは人間関係にも共通する話なのだが、私自身のあり方がこうも変化してしまっていたことを自分でも気づいておらず、驚いた出来事があった。

わかってもいい、わからなくてもいい、が開くコミュニケーションの扉

先日、アニマルコミュニケーションについて友人から話題が出たときのこと。その友人はアニマルコミュニケーションというコンセプト自体になじみがなかったので、かつて私が紹介というか簡単に説明したことがあったのだった。
アニマルコミュニケーションという物事の内容についてでなく、しばらく前に私がそういう話をしていた、という事実についての話題が出たとき、私は素で「あれっ、私そんなこと言ってたっけ?」と思ってしまった。
それほど、アニマルコミュニケーションという概念が私の意識から消えていたのだ。言い換えれば「こだわり」が消えていた。

元々、アニマルコミュニケーションという「名称や型」にくくらなくてもいい、ラベル付けしなくてもいいという気持ちはあったが、この世界では何かを理解するときに名称や型が必要になるから、そうしてコンセプトが広がっていく側面はあるから、仕方ないよなと受け入れていた。

それに私はそのコンセプトが好きで熱心に取り組んでいたのではなかったか。つい最近まで、記事で取り上げたりしていたはずだ。

けれども今の私は、「コミュニケート」に関してだいぶ異なる思いがある。
人間以外の生き物たちに対してだけでなく、あらゆるコミュニケーションについてだ。
前回記事で「Make it happen」ではなく「Let it happen」が自然だという話をしたが、それと同様に「わかっても、わからなくてもいい」という「目盛りはゼロ」の姿勢でいることが、今の私のコミュニケーションのナチュラルな状態になっている。

これは「意欲がない」とか「どうでもいい」ということとは違う。
私が今知っている最大限の愛をもって感じているこの状態がどんなものなのかを、以下のように言い表そう。

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