何もしないを見守る春【あなたの価値】

ここ数日の間で急に自分の意識の置き方が変わった。
2021年に入ってから私は新たに短編の創作を始めて、そちらに継続的に意識を向けるようにしていたのだが、それがある日すっと静かに移行した。

この変化は、「積極的に……しよう」という自分の内部を押す気持ちをゼロにしたらどうなるかという実験みたいなものを私が続けていた結果で、実験というか「そういう『押し』はゼロでいい」とおのずと思うようになったのでその通りに暮らしていたのだ。

自分の真ん中にい続けた結果

水準器ってあるでしょう。水平かどうかを見るために洗濯機についているのを見たことがあるのでは。円の中に十字の目盛りが描かれており、内部には液体がたまっていて、気泡がどこに位置しているかを見る。円の中心に気泡があれば水平。

ちょうどその水準器のようなイメージで、自分の意識を無理に何かに向ける(押す動きをする)代わりに、中心に位置させ続けているとどうなるか。真ん中にい続けるとどうなるか。これを私は実行していた。
(☆「真ん中」の感覚の描写を含む作品は◆「安らぎクラブへの招待」
何の圧もかけない、自分を押さない。ただただ自分の真ん中に照準を合わせ続ける。

真ん中にいるということは、踏ん張って何かをするということがなくなり、「おのずと」という動き以外が存在しなくなることだ。
これまでは、そうしていても「書く」ことが私の内からやりたいこととして湧き上がっていたのだが、今はそれが鳴りをひそめている。この記事のような例外はあるが。

一方で、「外」に向かっているのではなく「内」で続けたい作業、意識内で確立し深めたい作業は消えてなくなっていない。

平たく言えば、意識の中の作業は続けるが、外に現れるアクションとしては「ひとりでに」起こるものだけを受け入れる。何ひとつ、力ずくで無理には起こさない。
かつて私が開催していた講座で、こうお話ししたことがあった。
本来の自分自身であるとき、Make it happen ではなく、Let it happen なんだと。
この違いは、Makeは何かを自分で「起こそう」とすること、Letは「それが起こることを許可する、そうなるのを受け入れる」ということだ。

何もしない、は行動をしないの意味じゃない

自分が自分であるとき、気づいたらそうしていたという動きがある。
それは後で振り返っても、あのときそう動かなかったら自分が自分ではなくなると思える類のもので、本来の自己と整合しているのだ。

ではそれ以外の動きはというと、偽の自分。自分が学んで身につけた観念、恐れから「自分を守る」ためにすることや、したくないけれどそうすべきだと思ってすることなどだ。

そうした「恐れのシリーズ」にどれだけコミットしないか、自分のエネルギーを注がないかということが大切で、これこそがあなたに違いをもたらす「意思決定」なのだ。

私たちのすべての動きの根本に、この選択がある。
本来の自己として生きるか?
学習し「作った」偽の自己として生きるか?

だから、私が「何もしない」というとき、それは行動や活動することを否定するという意味ではない。
本来の自己と整合した動き・ひとりでに起こること以外は「何もしない」という決意のことだ。

とても簡単なことのようだけど、私たちは実にたびたび、容易に自分以外の者になろうとする。
そして、自分の為したその選択を「外から」もたらされた何らかの理由で「そうさせられている」のだと思い込んでしまう。
しかし、これは偉大なる幻想だ。

そんな風に自分を騙して、自分を不幸に、無力にしていく考えから、あなたは自ら離れなければならない。

あなたがあなたでいるだけで、どんな力があるのかを理解しているだろうか

私たちの不幸の源は、こう考えるようになったことだ。

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