自分の手を離れていく人生

いつからか、自分の人生への所有感がなくなってきた。「自分の人生は自分が創造している」――以前から記事等で伝えているこの点は認識した上で、だ。
この感覚は年々大きくなっており、否定することができない。まるで人生がとっくに自分の手を離れて、私はその独自の展開を見守っているだけのようなのだ。

では、いつ頃までは自分の人生への所有感があったのか?
言い換えれば「これは私自身の人生である」という納得、ポジティブ・ネガティブなフィーリング双方を含むある種の親しみを、いつ頃まで持っていたのだろうか。
さかのぼると、それがいつまであったのかはあやしい。確実な切り替えの時というのはなかったように思う。ただ、感覚的なもので、振り返ると「ある頃までは確かにこれが私の人生なんだというなじみのようなものがあった」とは言えるのだ。動物風に表現すれば、人生のすみずみに自分のにおい付けがなされていたようなものだ。

しかし今は言葉にするなら「これは誰の人生なんだろう」と不思議に眺めている距離があり、体験している私を認めつつも、私は観客である。
ああ、こんなことが起こるんだ? という様々な展開に静かに驚くし、自分で思い描く先のヴィジョンがあるようで、ない。
それまで付いていたはずだった自分のにおいは、この人生からはすでに感じられずに、もっと透明な、特定のにおいを持たないものの意図で進んでいる人生を眺めている感覚なのだ。

これは誰の人生なのだろうか?
――単純なようで、この問いには深い回答が待っている。
私が今こんな風に感じていることも、この問いへの答えに関わっているのがわかる。

なぜなら、徐々にではあるが、私の生きる姿勢はこの問いの答えと一致する様に重心を移していたからだ。

その姿勢を言葉にするならば、

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