万年テレパシー状態に移行する【異種間コミュニケーションと全一性】

この記事は全生物との異種間コミュニケーション(アニマル・コミュニケーション)、テレパシーについて、そしてその元にある「全一性」への理解を深めるためのものだ。
まずはプロローグとして、私の感じていた「最近のエネルギー変化」から。

カレンダー上は連休だったこの期間、私にはエネルギー的「Conversion」が起きていた。
いつものごとく、この英語表現は「私が内から受信した表現(インスピレーション)そのまま」を書いているのだが、コンヴァージョンって、私の日常の語彙にはないよ……どういう意味だっけ、と思って調べると「(形や性質などの)転換、変化、改装、改造」
コンピューター用語としては「変換」の意味で、宗教的には「回心」という意味もあるそうだ。

私が今回受け取った感覚はコンピューター用語的な味わいに近く、翻訳するならこんな感じだった。
私という個人を「データ」と捉えると、そこに元々あるコードに、ぎゅっと圧をかけてすみずみまで一斉変換している状態。
このことを外向きに説明すると、こうなる。
今ある世界を「消す、なくす」のではなく、その元にあるデータの読み取り方(=知覚)を変換している。

つまり、そうすると私は違う世界を経験するようになるわけだ。
知覚する者にとっては「世界が変わった」ように見えるかもしれないのだが、実際には本人の「データの読み取り方」が変わった結果だ。

さて、このConversionが起こっているのは自分でとても納得できることで、私は日々、より一層霊的な次元に重心を移していることを実感していた。
大局的に見て、これを時代の流れと呼ぶこともできるが、個人個人がそこに見出す動機や目的はそれぞれ異なるだろう。

私の場合は「異種間コミュニケーション(アニマルコミュニケーションとも呼ばれる、人間以外の生物とコミュニケートすること)の精度を上げるために、テレパシーを重視する姿勢」がはっきりした推進力になっていた。

5月に◆「半人半霊は全霊へ」という記事を書いたが、そのときは生物への思いと霊的次元へ重心を移すこととがこのように繋がっているとは、今ほど自覚していなかった。
一見、生物への関心は「形ある、この世界(物理的地球)」への興味のようでもある。物理世界にしっかり足をつけていく方向というかね。

でも、私にはそうではないのだった。
足をつける「地」とは霊的基盤だということだ。

あらゆる生命を本当に見つめることは、人間を霊的真理へ導いてしまう。
別の形態をとる自己が、自然と、源の「ひとつの私」を思い出させるのだ。

周辺の生物ニュースとヒヨ先生(ヒヨドリ)

ここで、私の周辺の生物たちの、この連休のニュースをば。

まずは、前回◆「虫って私の何なのか【夢の中での訓練と恐れの根源】」で取り上げたクモ、チャスジハエトリさん。
あの記事に書いたときの私が見かけたのは成体だったのだが、なんと今度はほやほやの小さなご幼体が私の部屋を歩いていた。
せ、生命の営み、おめでとー。
(クモさんに対してはまだテンションが低め。)
※追記……一年後、私のクモに対する心情の変化はこの記事に◆「クモへの今年の心情と、全生物に新たに実用したい夢」

前回の記事では、夢の中で連日虫と対峙する「訓練」の話をし、そこで私が見ていた「虫の姿に象徴させている恐れ」についての洞察を述べたが、どうやらその内容は的を射ていたようだ。あれ以来、虫を恐れる夢をいっぺんも見ていない。
思いがけない方向から人類の恐れの根っこを見つめることになったのだが、その記事の「虫への反応に象徴されるもの。人々に嫌われがちな虫の種と、自然界の役割からわかること【人間の恐れの根本】」のセクションで語った気づきは、虫への恐れを持たない人にも応用できる。他のあらゆる形を取り得る根源的恐れを解消するのに役立つはずだ。

それから、以前と変わらず、私は周囲の野鳥の様子にも胸躍らせている。
5月中旬から6月初旬頃には家の周りで繁殖期のムクドリの活気がものすごく、「ムクドリ王国」になっていたと綴ったのだが(◆「時の連続性という錯覚をほぐし、時を素材として扱う」に掲載)、鳥時計は巡り、今度はムクドリは控えめになり、ヒヨドリの活動が目立つようになった。

ヒヨドリの繁殖期は5月から9月頃と言われ、冬期の印象と違って、この時期のヒヨドリの鳴き声は澄んでいて美しい。
うちの周りで今、朝一番に鳴く鳥はヒヨドリで、毎朝高らかに澄み渡った声を聴かせてくれる。
(……と、これを書いた日にはカラスの方が鳴き始めが早くなってきたかもしれないのを確認。少なくともこの1ヶ月ほどは、ヒヨドリが一番だったのだが。)
大体日の出とともに鳴いているようで、先月は4時少し前、最近は4時少し後に鳴いている。

この鳴き声の主はオスで(これはアニマルコミュニケーションではなく野鳥の知識から察したこと)、毎朝、自分が元気であることを周りに知らせて、つがいのメスや雛たち、巣を守る役割があるのだろう。力強く、何度も何度も同じ歌を繰り返す。

朝の時間にさえずり(メスへのアピール)が入ることもあるが、私が聞いているヒヨの鳴き声は、前述の内容で、すでに伴侶がいるオスだろうと感じている。夕方にも同じように鳴くが、夕方は周囲のほかの鳥ももっと騒がしいので朝ほど目立たない。
最近は、朝の歌の合間に家族との鳴き合い(会話)も入るようになった。

ちなみに、こうした野鳥の姿を私は目視することができていない。
周囲は住宅なので、双眼鏡など使うのも気が引けるし、窓から遠くにいる鳥のシルエットが見えれば凝視、見えなければただ耳を澄ませている。

けれども、昼間に直接外で鳥の姿を観察できると、鳴き声についても簡単に理解しやすい。あ、こういう意味ね、こういうときにこう鳴くのね、と鳥の様子を見ながら即納得できる。
自然環境下で野生生物の活動を観察し続けることが、物理的方法としては、彼らを理解するための早道なんだなとつくづく思う。

☆生物への知識と、先入観を持たないアニマルコミュニケーションとのバランスなど、異種間コミュニケーションに大切な基盤についてはこちら↓
「動物と仲良くするためには【アニマル・コミュニケーションの基盤】」

その毎朝声を聴かせてくれるヒヨドリだが、先日の早朝には、どさっと大雨が降った。近年「ゲリラ豪雨」と呼ばれるようになった雨の勢いで、家の中でベッドに横になっていても激しさを体感できるほど。
ちょうど、いつものヒヨが鳴いている途中にそれが起こったので、私は心配になった。雨の日も毎日鳴いているのは知っていたが、これほどの雨の中、どこにとまっているのか、大丈夫なのか……。

けれども、ヒヨはたくましく鳴いた。
雨に声がかき消されるのをものともせず、大きな声でいつも通りに、いつも通りの時間、歌い続けた。フレーズもいつもと同じ。決してやめない。

降る雨の音があまりに大きく重なりすぎているために、私の耳には切れ切れに聞こえてくるヒヨの声。

私は感動してしまった。
そりゃあ、野生生物なんだから、天候に左右されてばかりもいられない。
それはわかっていたつもりだが……。

いつも野生生物からは教わりっぱなしだ。言葉にならない感動や、気づきがある。理屈じゃなく、頭で考えて何か思うのでなく、彼らの生き方そのものから、虚を衝かれるようにハッと気づくこと、押し寄せるものがあるのだ。

私にとってヒヨドリは「ヒヨ先生」。
他の野鳥だって、他の生物だってそうだ。

☆ヒヨドリの鳴き方、後日の関連記事はこちら☆
「鳥のおと(音)、セミのおと(音)」

朝のさえずりと言えば、もう少し遅くなってから鳴き始めるシジュウカラも面白い。姿を認めることができた日があって、私は窓から鳴いている様子を見ていたのだが、シジュウカラは鳴きながら周囲を見回して体の向きを変えたり、羽を震わせて羽づくろいしてみたりと、美しくさえずりながらも同時に色々なことをしている。軽々と鳴きながらそうしている姿はまるで、歌のプロだ(でも、幼鳥の時には練習したんだろうね)。

こうした「観察」だけでも十分楽しいことは間違いないが、ここでそろそろテレパシーの話に移ろう。

テレパシーの基盤と、常時テレパシーに気づける状態

私は今、「万年テレパシー状態」を実現することを目標にしている。
常時テレパシーに気づける意識状態になるということだ。
なぜなら、私たちは平常時「テレパシーに鋭敏に気づける状態にない」。

私たち人間は普段、表層上の「分離」を可能にしている意識状態にあって、そうしているからこそ「個人」という概念をリアルに体験できている。

しかし、アニマルコミュニケーションもそうだが、テレパシーを実用する際には分離の概念は消失する。
このことを説明するとき、多くの人にとっては「ありとあらゆる存在が繋がっているネットワーク」を想像することがわかりやすいだろう。私たちも、その一部なのであると。
でも、シンプルに言うと、個別の存在が繋がっているネットワークがあるというより、すべてが「同じひとつ」である(ひとつしかない)と理解する方が正確なのだ。

異種間コミュニケーションを本当の意味で実現するには、この認識が必須だなぁと私は最近、今まで以上に実感するようになった。
これを自覚し、基盤とした上でテレパシーに気づける意識状態、エネルギーのあり方を保つということは、まさに霊的次元に焦点を移す、自己の比重をそちらに移すことだと言える。

「全生物のコミュニケーションリンクへの感受性を取り戻す【テレパシー的存在として】」で伝えた通り、人間の家族の一員として暮らしている動物たちと比べても、虫たちのような野生生物の思いを受け取るにはより微細なエネルギーの動きに気づく必要がある。
物理的現象にのみフォーカスしていると、エネルギーの動きは「声なき声」「見えないもの」かもしれないが、別の次元ではそれははっきりしている。
(この点で、「遠隔」でのテレパシーコミュニケーションの方がやりやすいこともある。物理的姿や行動に惑わされることがないからだ。)

想念が「リアル」である次元に自分の波長を合わせれば、テレパシーによるコミュニケーションはまったく明確なものなのだが、そこに波長を合わせていなければ感受することができず、「ない」も同然だということだ。

精霊の概念と、全一性が根底にあるテレパシーコミュニケーション

ところで、あなたは「精霊」という概念をどう解釈しているだろうか。
全一性を理解する際に、「精霊」の概念は良いステップとなる。

様々な文化の伝承の中で、植物や動物、その文化に身近な生き物たちの精霊の存在が語られていることがある。
精霊が何を指すかは文化によって、あるいは人々の解釈によって違ってくるが、精霊と呼ばれるものの一部は、生物の「スピリット」を指している。

精神世界で言うところの「ハイヤーセルフ」と呼ばれる概念を思い浮かべてもらってもいいが、たとえば蜂だったら、個々に見える一匹一匹の蜂というよりコロニーとしての蜂、あるいは種としての蜂の「スピリット」を指すのが「蜂の精霊」だ。「元型(アーキタイプ)」のように捉えることもある。

「動物と仲良くするためには【アニマル・コミュニケーションの基盤】」の中で、種の単位の意識については説明したが、それを踏まえた上で以下のような疑問が湧くかもしれない。

……分類はどうなるの? スピリットはどこで区切られるの? と。
(人間が生物学上分類し、名づけた種の違いは適用されるのか、など)

これに対する回答は、テレパシーの真髄を伝えることになる。

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