強化合宿のような日々と音楽の天使

言語化できない体験の日々を過ごし続けている。言語化できない理由は複数あるのだが、実際、これを「表現する」としたら私は何をするんだろう? ということも、自分でさっぱりわからない。
そもそも、私が生きてこれを体験すること自体がもう表現として十分完結してしまってるような状況なのかもしれない。

現実の密度が変わってしまったような、避けようがないものが一気に出てきてるような、といって、かつて味わったことのあるカオス的な、疲労を伴う無秩序な感覚ではなく、ただ目の前にやってくるものを思考をはさまず体験していくある意味一貫したステディな感覚。


なので私はこれを「強化合宿のような日々」と、この記事では呼んでみた。
実感としては楽しいことの方が多いけど、
「まじか……この期に及んでこれを見なければならないのか」
と、げんなりするような自己内の端切れも続々出てきてるからだ。
自分の内の貯蔵庫、どうなってるの? それって処理済みじゃなかったの? ここでまだ注意を引いてくるの? と、その部分に関しては吐きそう。避けたい。終わりにしたい。
けれどもこの根っこをここで引き抜かねば、うっすら隠れて存在してるそれらにこれからも知らずに翻弄されるのか……と理解すれば、「ここにあるよ」とお知らせしてもらってるラッキーシチュエーション! 基礎練強化、スペシャル合宿ありがとう!!!

……と、そのときばかりはそうやって自分を鼓舞しないと乗り越えられないものが出てきてるというのが正直なところだ。
現実の、自分の内との全体的な「一致感」を自覚していて、それをシンクロニシティーといえば聞こえがいいが、ポジティブな方だけでなくネガティブな方もきれいに現実表現がなぞってくれている。よくまぁ、こんなにも正確に、私の見たくない側の記憶もシンクロで今現実にしてくれましたよね、と拍手したくなるくらい正確に、だ。

こういうとき乗り越えるための自己内の基盤を私はだいぶ盤石にしてきたと思うのだが、なんというか「人間・女性」の私という普段のパーソナリティーのままではとても無理だと感じることはけっこうある。そのパーソナリティーが身につけてきた力量では、まったく対処できないのだ。
なんならそのパーソナリティーこそが傷ついてしまってる張本人であるので、一体どうすればそこを助けることができるのかが同じ世界内ではわからない。
すると自己の内なる力、叡知の存在が何よりも頼りではあるが、すでに痛んでしまってるものを自らそこへ「受け渡す」までの段階すらも、踏めないことが時折ある。

そういうとき、私の中で「かけ橋」「緊急治療」「魔法の膏薬」になってくれるものがある。それに同調することによって、私は痛い場所から移動し、心の「Sore(痛み)」を他者の芸術表現とひとつにして眺めることができる。場合によっては楽しむように味わうことも可能だ。
また、それのおかげで私のパーソナリティーの中の「モード」をチェンジすることもできる。それとは、

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