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読書から呼応へ。

先日「SNS断ち」を実践した記事を書いた後、自分の中で思うところがあった。
その断片を残してみようと思う。


◇ ◇ ◇


自宅から一歩も出ずに過ごすと決めた休日の朝。
スマホの電源を切ってカバンの奥深くにしまい込み、物理的にスマホを触らない環境を作って、日中を過ごしてみた。

積読本を消化して、長めにお風呂に浸かって、ごはんを作る時にいつもより丁寧に野菜を刻んで、noteを書いて。
(noteを書くのに使っているノートパソコンはnote以外のアカウントにはログインしていないので、SNSを眺める事は出来ない状態)

そんな中で気付いた事がある。
小学生の頃や中学生の頃といったずっと昔の出来事が、不意に脳裏に過る事が増えた、ように感じている。



わたしのあの頃には良い思い出があまり無い。
転校生という異物として悪意をぶつけられた小学生の頃も。
自分がマイノリティである事を自覚したはいいものの、友人に理解を求めるという愚行に出た結果爪弾きにされた中学生の頃も。

今でも当時のことを意識して思い出そうとすると、嫌な思い出ばかりが我先にと押し寄せ、自らの愚かさへの憤りで身体が燃え上がるような感覚が生じてのたうち回りたくなる。
創作への熱量になりそうだという意味では無駄ではないが、決して愉快ではない感情。

もちろん楽しかった事もあったけれど、それを思い出そうとすると、それこそのたうち回るほどの動揺がワンセットでついて来る。
そんなのは率直に言って耐え難い事だ。

だからいつの頃からか、無意識のうちに、すべてまとめて封印してしまったんだと思う。
いま振り返ってみても、社会人になってからの出来事なら、楽しかった事もつらかった事も含めていろいろな場面を思い出せる。
それと比べると学生時代、特に小学生の頃と中学生の頃の出来事はとても曖昧だ。
単なる時間経過で片付けられるものだろうか。
(社会人になってからの鮮明さに関しては、ブログやツイッターといった文字での記録を始めた事も影響がありそうだけれど)



でも先日、ずっと忘れていた出来事をふと思い出した瞬間があった。

中学生の頃、美術の時間に彫刻刀で木を彫っていたら、熱中し過ぎて左手を危ない位置に置いてしまい、人差し指を突き刺して結構な量の出血があった。
病院にかからず保健室での処置だけで事なきを得た、一連の出来事。

どうして急にこんな事を思い出すんだろうと不思議だったけれどそれはそれとして、不意に思い出したその唐突さがなんだか興味深かった。
バレー部に所属していたから人差し指の怪我は結構重大な事件のはずなのに、その後指が治るまでの部活をどう過ごしていたかは全く思い出せないという事実も含めて。



思い出を頭の中でこねくり回して、文章にしてみた。
書き進めるうちに他の思い出も記憶から引きずり出されてきたから、それも混ぜて書いた。
掌編というかたちで書きあがったものを前にした時、わたしに出来るのは0から1を生み出す事ではないんだなと感じた。
それなら創作って何なんだろう。
そんな疑問が湧いた。


◇ ◇ ◇


「創作」の定義を確認してみた。

・ 新しいものをつくり出すこと。
・ 文学・絵画などの芸術を独創的につくり出すこと。また、その作品。


noteにあげている読書感想文、エッセイ的な記事、そして小説。
これら全てがすでにあるものを受けて自分が感じたことや、自分の体験といったものをもとにして文章化したものだ。

思えば最初に書き始めた時からそうだった。
認めるのは悔しいけれど、何もないところから完全なるオリジナルの作品を生み出す、という事はわたしには出来そうにない事を、自分が一番よく分かっている。
(実際、いま自分が生きているこの時代以外の小説は書けない。ファンタジー作品を書ける人のことを心から尊敬している)



諦めを抱くと同時に「新しいもの」や「独創的」という言葉に対しても思うところがある。
自分だけの経験をもとにつくり上げた作品は、やはり唯一無二の「作品」と呼んでも良いのではないか。
むしろそれを唯一無二と呼ぶことが許されないなら、まったくのゼロから1を創造できる人がこの世にどれほど残るというのか。


◇ ◇ ◇


最近はショウペンハウエル『読書について 他二篇』(岩波文庫)を再読している。
寝しなに少しずつのペースで。

読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けて行けば、仮借することなく他人の思想が我々の頭脳に流れこんでくる。ところが少しの隙もないほど完結した体系とはいかなくても、常にまとまった思想を自分で生み出そうとする思索にとって、これほど有害なものはない。

※『読書について 他二篇』11ページより。

本をたくさん読んでばかりいるな、と感じると無性に会いたくなるショウペンハウエルの言葉だ。



確かに流れ込んでくるがまま、濁流に呑み込まれるなら間違いなく有害だろう。
でもインプットを手掛かりとした思索に重きを置く事で、読書体験は呼応となる。それが本のいいところで、そのために重要なのがアウトプットだ。

初読でいきなり突き刺さり、強い感銘を受けること。
最初は理解できなくとも時を経て再び出会いなおし、得られなかった高揚を実感できること。
同じ意見に繰り返し触れ、歳を重ねようともやはり頷けると実感したり、逆に考え方の変化を思い知ったりもすること。
そして、他者の視点によって新しい解釈を得ること。

それらが積み重なり地層を成すことで、唯一無二となる自分自身の思索が形成されていく。



…と考えると、やはり読書感想文や、自分の経験から着想を得て文章にしたエッセイや小説も、胸を張って「創作」と呼んでも許されるのではないか。
だってそういった経験を重ねる事で唯一無二たり得る、そんな自分自身から出力された言葉なのだから。

能動的に読む事で「思索」や「創作」へと続いていく。
それが本だ。
だから読書が好きだと思う。
ショウペンハウエル先生がなんと言おうとも。



それにしても。
今この時代に読むと、上記引用箇所の「読書」は「SNS」に置き換える方がしっくりくる。
膨大な量の「他人の視点」「他人の思想」に溢れ、スルスルと快適なスクロールを繰り返す事でそれらをいくらでも浴び続けられるシステム。
ユーザーがそういう使い方をするよう設計されているものに「自らの思索」が入り込む余地など生まれ得るのか、という話だ。

気の利いた意見をリツイートしたり、他人がTiKTokやYouTubeに投稿した動画を転載する事で、自らは出力せずとも発信した気になって満足し自己顕示欲も満たせてしまう。
(前者はわりと陥りがちなので自戒も込めて、そして後者はわたしはしないけれどツイッターで頻繁に見かけるので書いた)

結局は転載ではないアウトプットに重きを置くことが重要なんだろう。
そこに自覚的であるために、わたしにはnoteが向いているみたいだ。


◇ ◇ ◇


ポルノグラフィティの新藤晴一さんがnoteを始められた事をきっかけに、ずっと放置していたこの場所で、もう一度書いてみようと思った。

この記事は昨日から書き始めたのだけど、考えながら書いたせいで一日では仕上がらず、今日になってようやくここまでたどり着いた。

でも結果的には、先月投稿した140字小説のうち一作が佳作に選出されたという嬉しいお知らせをいただくタイミングと重なった事が有り難かった。
おかげで辿り着けた「創作」への信念が補強されたのだから。

加えて、note再始動のきっかけをくれた晴一さんの記事から、ちょうど一年後となる今日という日に書き上げて投稿する事が出来そうだ。
巡り合わせとしては満足している。

考える事もそれを言葉として出力する事も楽しいばかりではない。実際に書き上げたものと頭の中にある理想とがあまりにもかけ離れていて悶絶することだってある。
それでも自分なりに続けて、築き上げてきた結果が今のこの場所だ。

これからも「創作」を続けて行きたい。
そんな所信表明をもってこの記事を終わりにする。