Ⅱ章 彼女の場合②
私は、人の幸せを認めることが出来ない。無論、祝福することも耐えられない。その眩しさは私の心に強い劣等感を抱かせる。
理由は簡単。私には手に入らないから。
だから幸せな男女を観ると妬ましく思う。幸福の光に包まれた二人の世界に影を堕としたくなる。彼女達だけの世界に闇があることを自分だけ知りたい。そうすれば、私だけが邪な人間ではないと思えるから。
―――—それが例え、自分の後輩であっても……。
「舞衣さん、聴きました?」
「なに?」
休憩室のテーブルを挟んで藤崎が話しかけてきた。
「商品開発部の豊崎さん。彼氏さんと別れたみたいですよ」
「……そうなんだ。真面目そうだし、付き合って長いって話だったから……。てっきりもうすぐ結婚なのかと思ってたけど意外だね」
藤崎は周囲を伺いながら、私に寄って漏らした。
「なんでも彼氏さん。ウチの会社の人と浮気してたって噂なんですよ」
「えぇ……。まさか。豊崎さん、プライベートは見せないイメージだけど」
「そうなんですよねぇ……。だから噂なんですけど」
「いちいち噂なんて信じてたら疲れるよ」
私の努める会社は、海外の文房具の輸入販売店だ。大手の企業のように自社開発することはないが、代わりに洒落たデザインや変わった機能を持った海外のボールペンや万年筆などを商材に独自の販路を拡大している。
規模こそ、大手には及ばないが、それでも販売店は年々増加、全国展開している雑貨屋にも出回っている。
私のいる部署は、主に販売店舗からの受注書に基づいて、倉庫への発注依頼をすることがメインだ。
後輩の話を聴き流しつつ、携帯の画面に眼を配る。今しがた話をしていた豊崎かなえの元カレから連絡が入っていたのを確認する。
昨年末の忘年会で豊崎の気分が悪くなり、その時に店まで駆け付けたカレにさり気なく連絡先を渡した。そのあとは、いつもの通り簡単に話が運んだ。
カレの仕事の愚痴を聴き、彼女への不満を聴き、キャリアへの不安を聴く。
そうして吐き出させる代わりに空になったグラスへ偽りの慈愛を注ぎ込む。
それが罠とも知らず、彼らは次々と心を開いていく。
そこで私は囁く。
「彼女に言えないことは私に吐き出してもいいよ」
「辛いよね。私もそういうことあるからわかる」
「彼女に対しての不満って付き合い長いと余計に言えないよね」
「私なら受け止めてあげるなぁ」
「たまには違う人と気分転換するのも良いいんじゃない?」
「彼女の知らない秘密。ひとつくらい作らない?」
「私は彼女と関係ないからバレないから問題ないよ」
「男ならひとつやふたつ秘密があっても甲斐性の内だって」
「彼女が出来ないことしてあげる」
「今日だけは好きにしていいよ」
常套手段だ。
そうして彼らは悪びれもなく私の身体の上で一生懸命に腰を振る。
そこに肉体的な意味での快楽は、私には存在しない。
あるのはただ、自分と同じところまで堕ちていく男たちの苦悶の表情と幸せを踏みつぶしている精神的な優越感。
理想は相手の部屋が良い。
愛する二人の愛の巣を穢している感覚を堪能出来る。
この男は後日、愛する女を抱くのだと思うとそれだけで高揚を隠せない。
何食わぬ顔で愛を語るのだろう。私を汚したこのベッドで。
豊崎かなえが別れたという話は、社内の誰よりも早く知っていた。
彼女の元カレが顛末を説明してくれたから。そして、あろうことか私と付き合いたいと言ってきた。当然、私は断った。
私の希望は、「つまみ食い」であって、幸せを「作ること」ではない。
藤崎の彼氏にしても同様だった。バスケの実業団チームに所属する彼にとって、一般人の彼女との営みは満足できるものではなかった。
「あの子に出来ない分、今日は好きなだけ吐き出しなよ。スポーツマンとのセックスがどんなものか、私も知りたいし」
彼には浮気とは思わせないように振る舞った。物は言いよう。
その結果が前日の惨状になるわけだが、それでも献身的に私を支えようとしてくれる藤崎を観て、私は嗤った(わらった)。
二重の意味で裏切られたことを彼女はまだ知らない。
「藤崎。今日もお弁当なのね」
「えぇ。彼の分も作りましたよ」
「ほんと嬉しそうに言うね……。幸せそうでなにより」
「あ、飯島さんだ」
え?、と言って後ろを振り向くと同期の飯島がこちらへ歩いている。
「舞衣。今日ちゃんと時間空けといてよ」
「はいはい。わかってますよー」
飯島早紀子は、私の同期で人事総務課に在籍している。元々は営業部で業績も悪くなかったが、本人たっての希望で人事総務課へ移動になった。
私とは入社当初からの合コン仲間であり、移動の理由も結局のところは、合コンの予定を組みやすくするためだった。
「相変わらず、飯島さんと男漁りですか……?」
「悪い?たまにヤルことヤッてないと忘れちゃうじゃん?」
「この前、シタんじゃないですか?」
「それはそれ。これはこれ。楽しみ方が違うんだなー、これが」
「全然わかりませんよ、それ。」
「まぁ……。ひょっとしたら白馬の王子様に出会えるかもしれないじゃん?しかもイケメン要素も追加した感じの」
「この前言ってたような白馬の王子様ですか?いるんですか、そんな人」「案外いたりして」
またまた、と言う彼女を尻目に私は席を立ち、携帯に着ていた連絡先の設定をブロックにする。
就職を機に地元の神奈川から大阪へと移住してもう5年……。
最初は、何人かと付き合ってみたが上手くいかなかった。そのうち、こちらで出会った友人たちが見せる睦まじい姿が嫌になって「つまみ食い」と合コンを繰り返すようになった。
初めて「つまみ食い」をした時は苦かった。罪悪感もあったから。
今では痛みよりも優越感の方が遥かに勝ってしまう。
我ながら安い人間だと思う。でも相手の女に対して悪いとは思わない。
安い女の誘いに乗るような軟弱な相手に惚れた自分を責めて欲しい。
あなたが努力して築き上げた幸せは、その程度の脆いものだったのだ。
そんなことを思いながら、昼食を眺める。
「つまみ食い」のあとのサンドイッチは、いつも味がしない。
私は基本的に昼食はコンビニのサンドイッチと決めている。
胃に軽く、吸収しやすく、何より早く済ませることが出来るから。
ゆっくりと休憩時間を過ごすことを優先したい。だから味の有無はあまり気にしていないが、それでもいつも「つまみ食い」のあとは味がしない。
―――—その瞬間だけ、自分にはまだ人としての罪悪感があるのだと思う。
この日の「夜」は、私が上だった。
仕事終わりに早紀子と店で合流すると、既に会は始まっていた。
そこでお互いに好みの人間を把握したら、互いにフォローしながら相手との距離を詰め、一次会が終わったあとに各自で二次会を開いた。
今夜の好みは、細身の眼鏡を掛けた優しい感じの男だった。社会人になって二年目でまだ会社勤めに慣れていない、自信の無さが見て取れた。
そんな彼を一方的に責め立てる。今日は出会ってすぐに決まった。
ゆっくりと腰を前後に深く落として、横で悶絶する相手の顔を見下ろす。
ナカで埋もれたままのそれを、私は時々締め上げる。その度に恥ずかしそうに反応する彼の表情を観ながら、今度は円を描くように腰をかき回す。
私の中で抱きしめた彼の一部は、潮流に呑まれながら亀頭が膣壁を刺激した。ほんのひと時の程よい快感を共有しながら溶け合って果てた。
ストレスを発散させるには良い夜だった。
後腐れのないインスタントな関係。ホテルを出たら、さようなら。
そういう日々は落ち着く。何も考えなくて良い。相手のことも自分のことも仕事のことも今後のことも深く考える必要がない。楽だった。
先に起きた私は、シャワーを浴びてから着替え、ホテル代の半分より気持ちちょっと多めの額をテーブルに置いた。
まだ横になっている青年の寝顔を一度眺めて、荷物を持って外に出た。
「頑張れよ、少年。社会はまだまだこれからだ」
なんか一人前の大人になった気がする。
実際、私生活は御覧の有り様で、仕事も支障きたしまくりで、正直言って将来のことなんて何も考えていない。それでも今は達観した気持ちでいる。
今日は生憎仕事がない。時間も朝6時半。土曜は朝早く起きると何か得した気分になる。幸い、今日は予定がない。どこか出かけよう。まずは、腹ごしらえだ。
大阪の空は澄んでいて好きだ。時の流れを空が街を照らして教えてくれる。過ぎゆく時間の分だけ違う表情を魅せる。今は朝焼けが覆っている。
暗闇の下が段々と青く、淡い橙に、そして白みがかった赤黄色へと重なっていく。
この風景を眺めるだけでもこの街へ来てよかった。
きっかけがどんなに散々なものだったとしても、こうして生きている。
「とりあえず、吉野家行こう」
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