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【夢日記】<上①>鳴かず飛ばず
【はしがき】
「上・中・下」の三部作の長編になるのが予想されるのに加えて、その3つを更に「①・②」と細分化しないと書き切れないかもしれない、そんな夢を見た。
ボリューミーだった。コメダ珈琲のフードメニューの比じゃないぐらいには、ボリューミーだった。
本当は、「コメダ珈琲の~」とか、笑わせたいのか良く分からぬ例えボケをかまさず、即座に本題に移らないといけないぐらいには、ボリューミーだった。
ココ最近、「ポエム」と題して、人様にお見せするには不適格と思われる文章を晒してしまう精神状態が、そのまま夢となってあらわれたのかもしれない。そんな内容だったし、そんなボリュームだった。
良い機会なので、じっくりと向き合ってみたい。
誰のためでもなく、僕自身のために。
なお、タイトルの「鳴かず飛ばず」に関しては、今回は内容を端的にまとめるのが困難だと感じ、仮に一単語を当てるとすれば、これが最も相応しいであろうと判断し、そう銘打つことにした。
高校生の頃の夢を見た。
僕は、同級生の男女から、「イジリ」なのか「イジメ」なのか、どこに境界線を引くべきか難しい類いの、からかいを受けていた。
からかいの内容は、”ほっぺたをひたすら触られる”、というものだった。
どうやら、僕のほっぺたは、他の人と比べてモチモチしているらしく、つまんで伸ばすと、ビョーンってなったり、逆に押してみると、プニューってなったりするようで、それが面白いらしかった。
「イジリ」と「イジメ」の境界線が曖昧な理由としては、
1.人によって嫌悪感の度合いが異なる
2.頻度によって嫌悪感の度合いが異なる
3.触り方によって嫌悪感の度合いが異なる
ざっと、こんな感じだろうか。
具体例を一つ挙げておく。
「人によって異なる」というのは、自分が日頃から好いていない男子に触られると、ちょっと触られただけでも、どう触られたとしても、一瞬でイラッとしてしまうのに対して、密かに恋心を寄せている女子に触られたら、嫌悪感よりもむしろ、性欲的なナニカが刺激されて、”もっと触って欲しい”、なんて気持ちが芽生えないこともない。
ゆえに「何をされるのか」よりも「誰に触られるのか」という点において異なる。大体、そんな意味と思ってもらえれば差し支えないだろう。
小中高の頃は、現実世界の僕自身、同じような「からかい」を受けていた。
今振り返ると、嫌な感じが、無いわけでは無かったが、でもだからと言って、それで学校に行くのが億劫になっていたわけでもない、まぁ「イタズラ」の範疇だったのかな、と思われる。
「イジリとイジメの境界線」って書いたけど、これはホントに難しい。曲がりなりにも、教育者を志望していた時期もあった僕としては、ウーンと悩まされることが多いテーマだったように記憶している。
特に、僕が良く用いる表現で言うならば、「善意の悪行」について、悩まされることが多かった。
これは、学校生活に限らず、コミュニティ全般に言えることだが、”良かれと思って”、あるいは、”悪気は無く”、行なったことが、相手にとっては、”耐え難い苦痛”、だったりすることが、往々にしてある。
その場合、当然、「善意・悪意」を問わず、行為を止めて然るべきだとは思うのだけれども、僕は、善意の悪行を、厳しく裁くことが、どうしても苦手なのだ。
耐え難い苦痛を受けた当人(被害者)からすれば、僕の対応を見て、”罪が軽い”、と感じて、僕への信用信頼を失わさせることに繋がるかもしれない。
けれど、だからと言って、耐え難い苦痛を浴びせた当人(加害者)もまた、”相手が悲しむことは本意では無かった”、と沈痛な面持ちになっていたら、僕としては、もう十分裁きを受けたのではないか、とも思えてくるのだ。
ゆえに、仲裁に入りはすれど、お互いの行き違いを確認するだけにとどめるケースが、ままあった。この場合、被害者の立場からすると、「加害者は不問に処する」と思われたりもするわけだ。
いわゆる「ジレンマ状態」に陥った結果、どっちつかずの対応に終始して、自分を含めた関係者全ての方に、わだかまりを残すことになってしまうのが常なのである。
僕としては、中立的立場から公正公平に物事を俯瞰することを心掛けているつもりなのだが、それを理想に置いた言動が「八方美人」だと厳しく非難されれば、甘んじて受け止めるしかない。
実際問題、『嫌われる勇気』というベストセラー本を熟読し、理屈の上では理解出来たとしても、やはり、嫌われることを、本能的に恐怖する自分が居ることは疑いようのない事実であって、八方美人と厳しく断ずる僕への評価もまた、的を射ていると言えるのだから。
ほっぺたを触られている僕は、みんなが飽きてくるまで、されるがままの状態になっていることが、ほとんどだった。
前述したように、一口に「ほっぺたを触られる」とは言っても、不特定多数の人物に触られるというのは、別にほっぺたに限らず、決して、気持ちの良いものではなかった。
僕自身、物理的にも精神的にも、パーソナルスペースが広めの人間だと自覚しているのもあって、”そろそろ触るのやめて欲しいな”、といった感情が良く湧いて来たものだが、制止するほどの嫌悪感ではないと思い直し、静止したままで居ることの方が、圧倒的に多かった。
こういう観点においても、”嫌われたくない本能”、みたいなのが働いていたと言えるのかもしれない。
今の僕であれば、また違った対応を取ることが出来たかもしれないが、少なくとも、高校生の頃の僕は、『嫌われる勇気』という本を手に取ることも無ければ、そんな考え方があること自体、知っていなかったのだから、ある意味、当然と言えば当然だ。
人によっては、知識として学んだことは無くとも、行動に移せる場合もあったりするが、僕の場合、”言うは易く行うは難し”、だとか、”「知ってる」と「出来る」は全くの別物だ”、などといった言葉が口をついて出る性分なので、”良く知らないけど出来た”、なんてことは、僕に限れば、100%と言い切って良いぐらい、有り得ないことなのである。
しかし、Yに触られている時だけは、例外だった。
自分で言っておきながら、ちょっと気持ちが悪い表現だと思うのだけれども、”至福のひと時”、と言っても過言ではないぐらい、僕のほっぺたを触ってくれて嬉しいと感じる子が居た。それがYだ。
Yもまた、僕のほっぺたをプニプニして遊ぶのが好きらしかった。「男の子にはもったいない」だの「私のほっぺたと交換して欲しいぐらい」だのと呟きながら、押したり伸ばしたり、つまんだりひねったりしていた。
「ひねる」というのは、力加減によっては、多少の痛みが伴うのもあって、それこそ人によっては、一瞬でストレスメーターが爆上がりしたりもするのだけれど、Yからひねられるのは、むしろ、良かった。
痛みが伴うと言っても、所詮は「多少」なのだ。例えるならば、動物の「甘噛み」みたいなものだ。つまり、受け取り方によっては、”愛情表現”、と思えないこともない。
僕は、自身の性癖を「S」だとか「M」だとか認識した覚えが無い、いわゆる「ノーマル」だと自覚しているのだが、自分が好いている人から浴びせられる、”いたぶり”、であれば、性的快楽を増幅させるファクターに成り得る、つまり、「M寄りのノーマル」と言えるのかもしれない。
そう考えると、もし仮に「私をいたぶって欲しい」と懇願されたら、相手にとっては「ご褒美」だと頭では分かっていても、大切なカラダに傷を付けていることに罪悪感を覚えてしまうタイプだと思う。とてもじゃないが「嗜虐心」を満たせるような人間ではないのだ。
実際、これまで経験してきた性行為の中で「髪の毛を引っ張りながら乱暴な感じで後ろから突いて欲しい(バックの体位を指す)」とリクエストを受けたことがあるのだけれども、僕は、丁重にお断りしたことがある。
そもそも、僕は、アダルト作品のカテゴリーでいうところの「SM・ハード系・鬼畜」といった内容が得意ではない。むしろ苦手だ。より具体的に言えば「イラマチオ・スパンキング」などといった行為は、見ているだけで痛々しい気持ちになる。自分がやるなんてもってのほかだ。
それらを踏まえても、やはり、前述した、M寄りのノーマル、あるいは、Sの素質を有していない結果論的なM、ということになるのであろう。
~「上②」へ続く~
※「上②」
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