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旅情奪回 第21回:コーラとジーコ。

サッカーの世界的な祭典、FIFAワールドカップが白熱している。日本代表も、夢与える劇的勝利で見事グループリーグを突破し、いよいよ本戦はこのあと、強豪国・クロアチアとの対戦を控えている。

なんとなく距離を置いていたサッカーに、私がもう一度興味をもつようになったのは、それこそ今となっては遠い記憶のように感じる2002年の、日韓共催FIFAワールドカップで、イタリア代表だったアレッサンドロ・デル・ピエロ選手のプレーを目にしてからだ。

サッカー大国で育った私はブラジルのサッカーしか知らず、Jリーグも欧州リーグも興味のないまま、長いこと情報がアップデートされていなかった。ブラジル以外の国がサッカーに血道をあげるなどということを、想像だにしなかったのだ。お膝元にいすぎて、かえって大海を知らず、というわけだ。サッカーってそんなにメジャーなスポーツだったっけ、と思うほど、2002年の日本国内はサッカーに熱狂していた。それで、なんとなく雑誌など買って眺めていたが、確か『number』という雑誌の特集で取り上げられていたアレッサンドロ・デル・ピエロのインタビューをきっかけに、彼のプレーを追いかけることとなり、いつしかサッカー熱を取り戻していた。

といって、戦術やらプレースタイルを熱心に分析して、毎シーズン、目を皿のようにしてサッカーの試合を見こなす、ということは相変わらずない。ただ、生活の一部にサッカーのある人生が戻った、ということだ。サッカーは単にスポーツではなく、私の幼少期の記憶を構成する大切なピースなのだ。

私がペレに抱っこされたという話は以前にも書いたが、そこでも触れたように、私がブラジルに住んでいた当時、ペレはすでに現役を引退していた。あの頃流行りの開襟シャツを着て、洒落たアクセサリーを煌めかせながら、誰彼となく愛想よく笑顔をふりまく雲上の紳士。逆光の中で、偉ぶったところのない大スターが放っていた眩しい画(え)は、今も忘れることができない。

ペレは、しかし言わば「別格」だったのだ。彼がサッカーをしていようと、引退していようと関係ない。ペレはペレ以外でなく、もはやジャンルで分類することのできないブラジル人の誇り、皆の愛すべき宝石だったのだ。
一方、神様の去ったピッチでは新しいヒーローが躍動していた。誰あろうジーコ、その人だ。

今ではもう口にされることもないだろうこの表現、つまり“白いペレ”と呼ばれたジーコが、カールの強い長髪を激しく振り乱しながらゴールを決め、全身でジャンプしながら天を衝くようなガッツポーズを決める姿に、私も弟も陶酔した。ジーコは若く、野心的でエネルギッシュな、ニューヒーローだった。私は、もともとDoutor(先生)と呼ばれたソクラテスのファンだったが、いつしかジーコがナンバーワンになっていた。

ブラジルの子どもたちは、呼吸をするのと同じようにサッカーをする。それは、もはや当たり前の身体表現であり、コミュニケーションツールなのだ。日本人である私も例にもれない。誰が“校庭のジーコ”かを競ったものだ。サッカーは私たちにとって、途切れることのない「日用の連続」の中心だった。
当時、娯楽らしい娯楽は何もなかった。あるのは、映画と海水浴くらいなもので、あとはひたすらサッカーに興じた。それでも、サッカーに関する娯楽というのはないわけでもなかった。つまり、サッカー選手の写真のついたカードを、スイミングスクールの帰りに、母にヴェンダ(キオスクのような小さな店)で買ってもらうのが楽しみだった。そして、ある夏、このサッカーカードを超えるアレがやってきた。

たびたび書くように、娯楽がないのである。だから、雨でも降ってサッカーができない日は、集めておいたタンピーニャ(瓶の蓋)を選手に見立てて、みんなで“おはじきサッカー”をするのだ。そんな遊び方に目をつけたのだろうか、いつからか、コカ・コーラのタンピーニャの裏に、少し厚手のビニールでコーティングされたサッカー選手の顔写真が貼り付けられるようになったのだ。そして、蓋の裏に大当たりのマークが出ると、フェルト生地で作られた、大判の“おはじきサッカー”用のマットがもらえる、というのだ。

私も弟も友達も、狙うのはみな、大当たりかジーコの二択だった。とにかく何本コーラを飲んでも、一向に当たりもジーコも出ない。コカ・コーラは、国によって少しずつ味が違うというが、ブラジルのコーラは少し甘ったるく設定されていたのだと、後年日本でコーラを飲んで知った。
ブラジルでは、コーラを料理に使うのが当たり前で、肉のコーラ煮は定番料理だった。コーラは、ブラジルのありとあらゆる生活にあったが、とにかくジーコが出てこない。あの頃母はよく「コーラを飲むと骨が溶ける」と言って私たちを脅かしていたが、それでもあらゆるチャンスをコーラ購入に結びつける労を厭わなかった。
人生であんなにコーラを飲んだは、1999年の夏、ミレニアムを待つ世界が『スター・ウォーズ EP1 ファントム・メナス』の公開に湧く中、ペプシ社が企画したミニフィギュアのついたキャップをコレクションする大キャンペーンのときくらいだ。

そうやって何本のコカ・コーラを空けたかもう覚えていないが、とうとうジーコも大当たりも出なかった。仲間たちとの間で、本当はどちらも入っていなんじゃないか、という陰謀めいた噂がまことしやかに話題にされた。今でも、もしかしたら最初から入っていなかったんじゃないか、と思ったりするが、そんなはずはない。

その、私たちには手の届かなかった(ペレの腕には届いたのに!)ジーコが日本にやってきて、やがて日本代表監督としてワールドカップの指揮を執る日が来るなんて、サッカーから離れて日本で暮らす私には想像すらしなかった出来事だ。同時に、監督を退いた今もなお、ジーコが日本を愛し、日本のサッカーファンたちがジーコを愛しているということが嬉しい。

私にとってジーコの思い出は、いつもコーラの味がする。(了)

Photo by Stefan Schweihofer,Pixabay


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