地理旅#5「インド編④~違和感を抱いて生きる」
マザー・ベイビー・スクール
今回の旅の目的はもう一つ。それは、ヴァラナシ郊外にあるマザー・ベイビー・スクール(以下、MBS)への訪問。
MBSは、僕がインドを目指すキッカケになった雑誌『旅学』の編集長・池田伸氏と、旅好きには広く知られている高橋歩氏が、恵まれない子どもたちのために作ったフリースクール。2007年、彼らはヴァラナシで1人のインド人と出逢った。彼の「自分の村に学校を作りたい」という想いに共感し、日本の支援者たちと共にレンガを積んで、自分たちの手で建設した学校とのことらしい。
日本からアポを取った僕らは、現地スタッフであるタクミさん、マリイさん、ミワさんに案内してもらいMBSを訪れた。優しくて、タフで、想いがあって、とても素敵な3人・・・。
授業内容は、国語(ヒンディー語)、英語、算数、保健体育、家庭科、図工・・・まさに、生きていくために必要な学び。現在では、これらに加えてITや国際理解の授業もあるという。
客観的な数字として、国際貧困ラインである1日1.9ドル以下で生活する人々が、2015年現在インドには1億5,000万人いると言われている。そして、実に6,000万人の子どもたちが未だに義務教育を受けられる環境にない。15~18歳の女子に限っては40%が就学できていないというデータもある。
学校に行けない、行かなくなってしまう理由として、家計のために働く、家事をする、妹や弟の世話、教育は不要という親の考え、結婚(児童婚)など、多くの構造的な課題が横たわっている。
そんな中で、MBSの意義は計り知れない。スタッフの地道な努力が実り、2015年には卒業資格を出せる私立小学校として、インド政府公認になったとのことである。
僕は、算数と英語の授業を見学させてもらった。生きるために学んでいる子どもたちがいた。学ぶことに飢えているように見えた。
この日の午後、スタッフの皆さんの粋な計らいで、子どもたちに授業をさせてもらうことに。どんな授業にしようか…彼らにとって、記憶に残るものは何だろうか。考えた末に、「世界地図を描こう!」というテーマに決めた。インドと日本との関わりを感じてもらいたかった。
黒板に世界の略地図を描き始める。突然のゲストティーチャーにちょっぴり緊張している様子。でも、真剣な眼差しで、お絵描きの要領で、張り切って世界地図を描く子どもたち。
僕は日本とインドの位置を示したくらいで、何かを教えたワケではない。でも、彼らは自分たちで色んなことを発見して盛り上がっている。シャルク君は、照れながら世界地図をこちらに向けて「いつか日本に行ってみたい!」と混じりけのない笑顔で話してくれた。
ダンシング・オン・ザ・ストリート
インド最終日の昼下がり。
突然のスコールに襲われ、ヒンドゥー寺院で雨宿りしていると、どこからともなく数人の子どもたちがやってきた。雨に打たれながら、じっと僕らを見つめている。
僕はコミュニケーションを図ろうと、何を思ったか阿波踊りを舞う。すると、子どもたちも真似してゲラゲラ笑いながら踊っている。
短時間でピタリとスコールが収まったので、僕は子どもたちに近寄り、ダンス・レッスンの続きをしながらじゃれ合っていた。
すると、ふと背後から大人の声がした。
「彼らは親もいないし、住む場所もないんだ。マニーをやってくれ!」
はぁーん。子どもをダシにして、物乞いしようっていうアレか。最終日だったし、残っていた小銭をあげても良かったわけなんだが、そもそも、彼らは本当に「ストリート・チルドレン」なのか・・・?
いや、仮にそうだとしても、子どもたちに現金を与えたところで、それは本当に彼らのためになるのだろうか。「物乞い」を正当化して、自立心を奪うだけなのではないか。いやいや、ここで何かを分け与えてしまったら、たくさんのインド人に寄ってたかられて、逃げられなくなるのではないか。
でも、何も差し出さなさずに薄情者と思われるのも嫌だし、かと言って現金でないにせよ、何かをプレゼントして感謝されるのも違う。別に、僕は偉くもなんともない。たまたま、日本に生まれ、物見遊山的にある種"偉そうに"街を歩いて、彼らに出逢っただけなのだ。
どう足掻いても利己的に考えている自分がいて、嫌になった。
『レンタル・チャイルド』という本がある。手足を切断され、失明させられ、その姿を「売り」として物乞いさせられているインドの子どもたちが描かれた、衝撃のルポタージュである。
ときに、子どもの腕を切り落とすのは、実の親なのだ。
これは悲劇だ。決してあっていいことではない。でも、僕たちは、その親を「悪だ!」と糾弾する資格があるのだろうか。
どれくらいの時間が流れたのか分からない。多分、ほんの一瞬だったんだろう。
僕はカバンの中を漁って、手持ちのボールペンとスナック菓子を子どもたちに差し出した。笑顔は崩さなかったが、どうしようもない気持ち悪さが身体を駆け巡った。
もうこれは幸いと言っていいだろう。彼らは、真っ直ぐな瞳で微笑みながら僕を見つめていたし、一緒に身振り手振りを交えてダンスをしていた。でも、あのとき、どう彼らと接するべきだったのか。未だに僕には分からない。
違和感を抱いて生きる
成田空港に到着し、帰りの京成線のプラットフォームに降り立った。「白線の内側にお下がりください」というアナウンスが耳に入った。僕は、成熟した、便利で過保護な社会に生きている。頭を使わなくても、何もかもが提供される。受け身でも生きていける。
帰国しても、クラクションとスパイスと、そして子どもたちの笑顔が脳裏に染みついていた。「生きている」感覚を忘れて、元通りの日常に溶け込むことを恐れながら。
インドで出逢った子どもたちのために何ができる訳でもないし、すべてを「自分事」にすることはできない。一方で、笑顔を交わした彼らの存在を「他人事」とも言い切れない。その世界に触れたものの使命として、違和感を抱いて生きていくのだ。
一方、僕は微力だけど、無力じゃない。そう信じて、もっと世界を、教室に届けなければ。インドの旅は、敬愛する英雄、マハトマ・ガンディーの言葉で締め括りたい。
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