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No.12 変にかしこまる位なら、狂ってる方が良いんちゃう。 「笑い」「体験」「父親」「恋愛ドラマ」について/百年法/ムーンライト/フォレスト・ガンプ

*雑念日記(大学生の)
ー 「笑い」について/「体験」について/「父親」について/恋愛ドラマ
*今週の読書
ー 百年法
*今週の映画
ー ムーンライト/フォレスト・ガンプ
*その他、、、
では、どうぞ ( ´ ▽ ` )ノ


雑念日記(大学生の)

♦前回の日記でも書いた通り、岡田斗司夫氏に相も変わらずハマっているのだが、気になる言葉があった。


笑いは攻撃の裏返し

もともと、僕は笑うという事に抵抗があった。もちろん、一口に笑うと言っても色んな笑いがあるんだけど、また笑うことはストレスの解消に効果的ではあるんだけど、笑いに対して嫌悪感を抱いている自分が必ずいる。

「笑う」というのは衝突を避ける行為であると考えることができる一方で、何でもかんでも笑っておけば相手に面と向かって接することを回避できると言い換えることもできる。つまり、目の前にあるものから目を逸らして共通の良いこととされている「笑い」を介在することで、面倒なことから逃げられる。果たしてこれが良いのか悪いのかは、その時の状況に依存するのだが、こういう意味で「いっつも笑っていたり、別に面白くないやろ。という所で笑っていたり、笑ってごまかす」ような人に出会うと拒否反応を無意識のうちに下してしまっている自分がいるのである。

天国には多分笑いなんかなくて、微笑み程度。
逆に地獄は笑いに満ち溢れている

そう。笑いは非常に鋭利なものだと感じる。鋭利である分、危険なものに手を出したくなる感覚で多用してしまうのだけど、しんどくなってしまう時もある。「微笑み程度」が一番良いのかもしれない。中庸。また、笑うことに慣れてしまっていると本当に笑いたいときに大笑いできなくなるので、それも怖いところ。と言っても、大笑いすることなんかほとんどないんだけどね。。


♦教授の方とお話をしたんだけど、いっつも誰かと話して思うのは「なんであの時、こう言わなかったんやろ。。」ということ。後になって冷静に考えてみると、色々な考えが浮かんでくるんだけど、話しているときにはそれらは思い浮かばない。なんなんやろ。

研究室にお伺いしたけれど、やっぱり緊張しましたね。心の中ではリラックスした状態で話したいと思っていたけれどアウェー感がすごかった。研究室の様相は本当に人によって様々で、そこに訪れるということはある意味教授の心の奥底に入っていく感じに近い。

入っていくと、自分というものを見失いそうになる。


5~10分の短編動画やわずか1分ほどで終わるショートムービーなどは情報であり、2時間かけて見ないといけない映画は体験を与えてくれる。という言葉は、なるほどと思いました。これからのキーワードは「体験」の予感。「体験」は時間をかけてじっくりと行わないといけなくて、そこに他の不純物が入り込んでしまうと、簡単に壊れてしまう。だからこそ、環境をしっかり統制して、その体験に没頭できるような「アイディア」を模索していきたい。


人のことを判断しようとするときに、その人について観察して判断するというのは結構難しいんだけど、その人がどのようなスタンド(JOJO)を持っているのか?を考えてみると、易しくなるかもしれないと思った。


♦良いことが起こったら、悪いことも起こるのか。神様がいるとするならば、やっぱりプラスとマイナスの均衡を保てるように調整をしているんだろうか。という事を感じた。

以前から会いたいと思っていた人と、約3か月ぶりに会えたという良いことがあったは良いものの、2週間前くらいから使い始めている英単語帳を無くしてしまうという悪いことが現在進行形で起こっている。まじで、どうしたらよいのだろう。

やったぁぁっーーー😆😆😆という上機嫌はわずか5分くらいしか続かなかったのである。たった、5分。。。

とにもかくにもめちゃめちゃ焦っているnowの状況。確か、あそこに置きっぱなしにしてしまったかも、という見当はついている。そこにあることを切望する。

やはり自費で購入するものはその価値の重みが違ってくる。自費と言っても肉体労働によって生み出されたもののことなんだけど。この価値観が将来、かなりの額を稼げるようになって、肉体労働では到底追いつけないくらいのお給料を運よく貰えたときに、どうなってしまうんだろうと思う。。

その後、無事英単語帳は見つかったのであった。。😊


マクロな視点で見た「父親」という存在について


以下、記事内で気になった個所をピックアップ。

切断と言いましたが、もっと正確には「断念」かもしれない。「喪失」よりも「断念」が大事なんじゃないか。喪失というとまだ何か失ったものへの郷愁とか、それを回復するといったことが可能性が残されているような感じになる。しかし、そんなものはもう無いのではないか。だから断念する必要がある。

先ほどまでの議論とはやや矛盾するかもしれませんが、男性問題をどこまで考えても、僕らのようなおじさん世代の古い感性はもはや変わりようがないのではないか、という気持ちが正直ある。男性特権やジェンダーの問題について考えていくと、自分たちのダメさに向き合うしかなくて、無限に反省するしかない。そうすると結局、男はそもそもこの世界に生まれてこないほうがいいという反出生主義とか、人類なんて滅びた方がいいんだというSF的な結論(最近で言えば暗黒啓蒙や思弁的実在論のような思想)へと飛びついてしまいかねなくなる。そうすれば、男性問題を考えなくてすむわけですね。

そういう罠に陥らないために、むしろ自分たちの感性的な古さや未成熟さを受け入れて、一度断念する。中高年男性が変わることはもう不可能なんだと。しかしそれでも、大人として、やるべきことはあるのではないか。自分たちの感性がどうしようもなく古くて、滅びていくべき存在だとしても、この世界や次世代に対して果たすべき責任がある。宮崎駿のいう「折り返し点」とは、そういう意味だったのではないか?――と、やや強引な形で『もののけ姫』を読み解いてみたのが、今回の僕の本なんだと思います。


「父親」という存在の変遷。父親と言っても家族の中でのとかそういうミクロな意味合いじゃなくてマクロな意味合いで。その社会における父親像が社会情勢を判断する1つの材料となり得る。今の時代は、父親像が絶え間なく変わっていくような、それでいて何が正しいか判断ができないようなスライムみたいな存在になっている。という事は、社会は不安定と捉えれるのか?


モノ以外でいかに人の幸せを実現できるか。モノだとしてもいかにその許容された範囲内で収めることができるのか

全く異なった性質を持っている人よりも、似通っている人の方が、自分との相違点が目についてしまい、拒絶しようとしてしまう。


♦人には色々なタイプがいるという事を改めて思い知る。そして、考えていることや、話す話題、口調、など人さまざま過ぎて、「一体僕はどのようなヒトとして生きたいのか?」という主軸をしっかりと持っていないと恐ろしいと寒気がした。


久しぶりの恋愛ドラマ。🥰

弱視。その中でも、ぼんやりとしか外の世界を見ることができない弱視を持った中で暮らしている女の子(杉咲花さん)と恋愛ドラマの中でひと際輝くキャラクターである喧嘩上等だが根は純粋なヤンキー(杉野さん)。2人の出会い方は置いておいて、まったりとした世界観で好きな類のドラマです。。

目がオレ様。視覚の重要性

→視覚って大切だよね。視覚に依存しすぎている感も否めないけど。人を判断する時とかも意識しなくても視覚情報が1つの判断基準になってしまうもん。


人の目はそう簡単には変わらない

→そうなんよね。目って交換もできないし、そこから見る世界もサングラスとかの外的なフィルターをつけないかぎりは一様、不変なんだよね。だからこそ、脳でどのように情報を集めようとするのかが大切になってくるんじゃないかな。人の悪いばかりを見ようとすると当然そちらに注意が向くし、逆に良いところばかりを見ることもできる。目から入ってくる情報は常に変わらないからこそ、僕たちがどのような情報を受け取りたいのかを選択して、吟味することが僕たちに与えられた視覚に関する唯一の権利なんじゃないかな


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唐突な可愛い画像っ!!😳
集中力高めるには良いらしいっすよ~


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今週の読書

♦百年法

やっとこさ読み終えた。あんまり時間を取ることができずにスキマ時間にちょこちょこ読み進めていた。

これは色々な視点を与えてくれる本でした。遺伝的な技術や医療技術が発達していき、労働人口が減少していく現在の日本を、一ひねりした視点からとらえることができる。そして、フィクションだよなと思いながら読み進めていくも、最終的には現実世界にも通ずる流れになっていき、この先私たちの世代は後世のためにどのように行動するべきなのか?と考えるきっかけを与えてくれる。

政治の分野の話がメインにはなってくるのだが、それをサンドイッチするように個々人の日常生活や労働の様子が詳細に描かれており、それがより一層本作を味わい深いモノに仕立て上げている。政治に携わる人たちの思惑と日々を生きることに必死の一般市民。当然、両者は同じ人間だけれど考えていることや優先事項が異なってくる。その両者の軋轢をどのようにして埋め合わせるのか?というのがやはり問題になってくるのだが、そこには人間らしさがキーとなってくる。

立場上、政治に携わる者の方が一般市民より少し上のように感じられるのだが、通常そのような場合は(グループワークでできる人とそうでない人の場面にも言えるのだが)、できる方がそうでない人に歩み寄る姿勢というのが非常に大切になってくる。それをせずに、「なんでこんなこともできないんだ。。」「イチイチ関わってると無駄だし、放置しておこう。。」という姿勢を取ってしまうのが集団のことを考えるとするならば悪手だろう。

と、小説上のフィクションをさも現実に適用可能かのように述べているんだが、やっぱりフィクションには一種の憧れを抱いてしまうのは致し方ない。。色んな思惑や欲が渦巻く現実世界ばかりに直面してしまうと、身が持たない🤣 フィクションによって得られる純粋さや奇抜さは稀にリアルにおいても役に立つことがあるので、やはり止められない。


以下、気になった文章や表現をピックアップ!!

死あるからこそ、生は輝く。死の喪失は、生の喪失にほかならない。
用を足したあと、手洗い場の蛇口をひねったが、風も出てこなかった。
今夜は酒池肉林で歓待してやろうと思ったのに。
駐車場から通りに出て、加速する。さすがは韓国製。乗り心地はスムーズだ。
大衆というものは、小さな噓よりも、大きな嘘に騙される。なぜなら、小さな嘘は自分たちでも吐くが、大きな嘘は怖くて吐けないからだ。
「諸君、私はこう思う。大きな責任をともなう決断を迫られたときは、感情論や精神論、希望的観測を可能な限り排して臨むのが、正当な対し方だと」
「そうなってからあわてても遅い。だが、残念なことに、人が危機に備えることの必要性を納得するのは、たいてい、危機に吞み込まれてしまった後なのです」
国力がいかに衰退しても、電気・通信・水道・道路・鉄道網のメンテナンスだけは怠ってはならない。ライフラインと物流は、国を動かす両輪である。この二つが機能するかぎり、国が死ぬことはない。宗教や思想、主義、哲学、生き甲斐、人生観、価値観、そういった精神的なものは国民一人一人に任せておけばよい。国政を預かる者の責務は、国民が人間らしい生活を営むための物理的基盤を整えることに尽きる。なぜなら、それができるのは国家だけだからだ。最終的にその目的が達成されるのであれば、そのプロセスにおいて、どのような悪評も恐れてはならないと。

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今週の映画

♦ムーンライト

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まず一言。この終わり方は一体どういう事なのか。。もし映画館で見ていたら、非常に腰が重かっただろう。。

というのも、まず本作は主人公シャロンの恐らく小学生・青年期・大人と3つの時期を横断して進む3部構成になっているのだが、その間に何が起こったのかスクリーン上では描写されずに、それでいて結構重要じゃんっ!という事があっさりと裏で起こっている。例えば、小学生時代に面倒を見ていてもらった男性の死や少年院に送られた後の経過など。

観客はストーリーの展開についていけずに、置いていかれるような感覚に陥る。しかも、ものすごいスピード感で。ここまで露骨に置いていかれる作品があるだろうか?これは、何なのかと考えたとき、自分の過去を振り返ってみると「そういえば、小学生から中学生、高校生、そして今へと続く時間の過ぎ方ってこんな感じで一瞬の出来事のように感じるな🤔🤔」ということ。

とすると、映画のラストで意味ありげに登場する小学生の頃の主人公シャロンの描写が意味するものは、本作は子供の視点から描かれているという事と考えられる。


同年に公開されていた「ラ・ラ・ランド」では視聴後にスッキリとまではいかないが、音楽も爽快だったし映像もカラフルで楽しかったなぁ~という余韻が残ったんだけど、本作に関してはその真逆。音楽もどこか乗り切れずにじっとりとした感じで、映像は決してカラフルではない。むしろ、青と赤を際立たせるためにその他の色をできるだけ、地味に描いているかのよう。

しかし、そんな2つの作品において類似していると感じたのが、社会と自身の間の溝や問題を描いているのではなくて、今自分がいる小さなコミュニティ内での溝や問題を描いているという点。



この映画レビューを見てみるのが良いかもね。



主人公のシャロンから見る視点がぼやけていたり、シャロン以外の周囲の描写がぼやけていたり、と彼の心の中が霧で覆われているかのように鬱々としていることが印象的でした。


♦フォレスト・ガンプ/一期一会

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この映画は、子供のころの純粋な僕を引き出してくれた作品でした。主人公のフォレストは知能指数が低いという事ながら、別にそんな事気にせずにただ目の前にあることに全力で取り組んで、周りの人たちを大切にして、モノも大切にして、感謝の気持ちを忘れずに、その日その時を生きる。スクリーンの向こうにいたのは、僕が子供のころに見ていたような戦隊シリーズのヒーローのような人間であり、僕が子供のころに憧れていた人間。

心が浄化されました。でも、多分時間がたつにつれて、このキレイな心はまた荒んだ、汚れたものへと変わっていってしまうので、初心に戻りたいとき・自分にとって本当の幸せは何なのかを見失ってしまったときにまた、戻ってきたい作品。

そして、この作品の好きな所は、悪役に見えるキャラクターたちが物語の後半で更生して、素晴らしい人生を歩み始めるところ。その素晴らしい人生におぼれて逆戻りしてしまうことなく、日々を噛み締めて生きていくところ。これは今を生きる大人たちを勇気づけてくれる。もちろん、僕も。当然変わり始める時は、今まで慣れ親しんでいた・甘えていた周囲との関係を切り離さなければいけず孤独に苛まれてしまう時間がある。そこでひと踏ん張りすることによって、過去には到底見えなかったような世界の見え方ができるようになる。

ただ、ヒロイン役のジェニーの行動にはやはり疑問が残る。急にどこかに行ってしまっては、またフォレストの前に現れ、そしてまた急に消え、またフォレストの前に現れ、、とイマイチこれらの行動の裏にある意図がわからない。フォレストが聖人のように優しかったから、彼女の意味不明さがあまり目立たなかったものの、冷静になって考えると「ん~~」という感じ。もちろん彼女の生い立ちが彼女が取る行動に影響を与えているし、人との付き合い方において大切な言語化できないニュアンスを子供のころに築けなかった弊害があるのは予想できるんだけど。。

作中でジェニーがフォレストに対して「本当の愛をわかっていない」のようなセリフを言うんだけど、これは凄いブーメラン発言ではないか。本当の愛をわかっていないのはジェニーの方で、分かっていないからこそ危ない人と付き合ってしまったり、良くない方へ流れてしまっていたのではないか??


アメリカの歴史をちょこちょこ学んでいることもあって、ウォーターゲート事件やKKK、ベトナム戦争の流れが出てきたことはびっくりした。それによって、「あれ?この作品ってノンフィクションなん??」と思ってしまった😅😅

「人生はチョコレートの箱のよう。食べてみるまではわからない」

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ではでは~また来週に😊


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