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自分と向き合うこと No.425

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2022年3月2日 「DAYONE日記」No.425
本ブログは、何か新しいことを始めるきっかけになることを書いていきます。365日、1日も欠かさず発信します。プロフィールは以下の通りです。
https://note.com/104007rm/n/nbb31358271e4
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本日は、毎日読んでいる森信三さんの「森信三一日一語」の中で、とにかく学びになる言葉を見つけたので、ご紹介します。

それは何か?
以下の通りです。

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人間は、退職して初めて
肩書の有難さがわかるだが
この点を率直に言う人は
ほとんどない。

それというのも
それが言えるということは
既に肩書を超えた世界に
生きていなければ
出来ぬことだからである

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と言う言葉です。

この言葉を聞くと、自らの会社で働いていることを考えるのです。

それは、今、自分という人間は、会社という看板があるから、今の仕事があり、とかく営業しなくても、外部や周りからの信頼があるのです。

つまり、ある意味、会社の看板で生きているのです。

でも、それがない世界はどうなるのか?

つまり、肩書の何もない「井上亮平」では、どうなのかということです。それは、自分という人間に対して、どれだけの人が信頼し、必要としてくれるのかということです。

そして、いきなり肩書のない世界に直面するのが、会社勤めの人であれば、退職してからだということです。

また、その有難さについて言及できる人も少ない。
なぜなら、そんな人は、肩書のない世界に出て、活躍されているからです。

それは、どんな人か?

それは、「職業=人間の名前」という存在です。
つまり、一般的に「会社名(肩書)+人間の名前」ですが、「人間の名前+会社名(肩書)」だということです。

つまり、自分という存在があって、たまたまこんな役割、こんな職業していますという存在です。

師事している平成進化論の鮒谷さんも、同じことをおっしゃていました。それは、ある時期から、「職業・鮒谷」と発信していたそうです。

この領域にたどり着くつける人は、既に会社・組織からあの種の同調圧力や摩擦から解放され、自由に生きているのです。

それは、自分がブランド化され、社会でそれが確立されている人だということです。

自分という人間の存在をもって、自由に生きることができる境地ではないかと思えます。

そんな世界を知らずして、歳を重ねていくのか、「人生常にこれから」という強い気持ちでその世界を目指すのか、はたまた、何もしないのか、それは、個人それぞれの価値基準です。

でも、明らかに自分という存在で生きていける世界があるとすれば、それは素晴らしいことに思えるのです。

そして、その世界に辿り着くというのは、ある意味で自分の人生に対して人間の存在意義を見出した人ではないかと思えるのです。

それは、精神的自由、経済的自由、空間的自由という様々な自由を手に入れらた人ではないかと思えます。

そして、「自分は自分以外の何者にもなれない」と理解したうえで、自己開発され続けた人(続けている人)だと言えるのです。

いつまでも、他人の芝を見ていても前に進まない。
いかに、自分という人間と向き合い、自分という存在と深く・長く対話するか、そのプロセスの中で、自分という人間の役割を見つけることにできるようにも思えます。

最近、私自身ずっと頭の中で、「自分は自分以外の何者にもなれない」という言葉が回っています。

とにかく他人を羨んでも意味がない。自分の良いところ、資源に目を向けようという自己暗示に近いかも知れません。

自分の人生について、誰かがその意味を見出してはくれないのです。他人が教えてくれるわけではないのです。

だから、自分で見出す以外に方法はないのです。
だこら、覚悟を決めて自分と向き合うことが、とにかく大事であり、それが自分を心豊かになる方向に向いていえると信じています。

そして、その先に自分という存在意義を見出せる自由な世界があると思っています。それは、肩書がなくても、人なら必要とされ、認められ、自分の心が常に満たされた世界ではないかと想像します。

それに向けて、日々取り組んでいく。
とにかく自分と向き合い、前に進めていく。

朝から非常に力をもらった感覚でした。

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