世界はそもそもフィルターバブル仮説
広い海に浮かぶ無数の泡。ぼくらの頭のなかの宇宙
『水中の哲学者たち』という本を読んでいたら、自分があたためていたアイデアに着火し、発想が広がったのでメモをとっておきたい。
著者はおそらくぼくと同い年くらいの哲学者の方。小学生から高校生までの若い人々と「哲学対話」という活動をされている。子供たちは純真かつ真っ直ぐに、正解のない問いに、どこまでも本質的な視点を投げかけていく。
哲学対話を通じて、浮かび上がってくる子供たちの曇りなく世界を見つめる眼差し。著者の何気ない日常や知人との会話を通じて、表出する“たわいのない哲学”。
あくまでも個人的な感覚に過ぎないけれど、読み進めるなかで感じる心地よさや、紙背に漂うあたたかな視点は、どこか『断片的なものの社会学』を思い起こさせた。
なぜ自分は自分で、あなたはあなたで、彼は彼で、彼女は彼女なのか。同じ言語をしゃべったり、なんとなくの社会規範は共有しているようでも、ぼくらひとりひとりの頭のなかには、まったく異なる宇宙が広がっている。
広い海、無数に広がる泡。視点をひとつスライドさせるだけで、立ち現れる世界の像が変わる。景色は一様ではないのだ。
「世界を相対化する技術」のなかで、世界の新しい見方は「人・本・旅」との出会いを通じて更新され、変容すると述べた。
けれど、人生を変える触媒になり得る「人・本・旅」との新しい出会いを、どういう感覚で、姿勢で、マインドで受容するのかは、どこまでいっても当人次第である。つまり、各々が有する、世界へ投げかける「なぜ(why)」の感度、角度、深度によって、その出会いの質は天啓にもなれば無為にもなる。
哲学が届く人、届かない人。そもそも、そんなこと考えたくもない人
「みんな違って、みんないい」ーー。まあ、それはそうだろう。
苫野一徳さんの『子どもの頃から哲学者』は、苫野さんが躁鬱と戦いながら、自身が哲学者になるまでの半生を綴った一冊だ。章ごとにコンパクトにまとめられた偉人たちの哲学が平易でかつ本質的に解説される。高校生や大学生が読めば、受け取れるインスピレーションも多いだろう。
「“すべて”を語り合える友人がいない」というnoteでも触れたように、新しいことを知れば知るほど、ぼくらは孤独になる。小難しい領域について考えを巡らせたり、分厚い本を読むたびごとに、理屈っぽくなる。その過程で、あるコミュニティとノリが合わなくなり、勝手に疎外感を覚えるようになる。
一方で、自分が抱える分かりあえないことへの絶望や、「なんでこんなことも分からないんだ」といった独善的な蔑みを、“諦念”で抑え込むこともないのではないか、とも述べた。“分かり合えない”は絶望でも、“分かり合う過程”は希望なのである。
「知らぬが仏」は圧倒的に正しい。だけれども…
「知らぬが仏」は含蓄の深い、ある側面における真理に光を当てた言葉だ。
「世界を相対化する技術」においても、「マイルドヤンキーの幸福論を誰が否定できる?」の項で、下記のような考察をした。
なにかを知ることで、自分のなかに芽生えるのが「比較」だ。上には上がいることを知り、自分の小ささを知ることになる。もちろん、その現実を知ることで、世界に対して謙虚になる契機になることもある。ポジティブな意味で、「足るを知る」こともあるだろう。けれど、人によっては妬みや僻みの感情を覚えたり、終わりのないラットレースに巻き込まれ、目の前の幸福を知らず知らずのうちに手放してしまうことすらあるかもしれない。
前回のnote「『死』について真正面から考えてみたいときに読む五冊の本」でも触れたように、死を目前にした人が語る人生の教訓は、人の幸せに金や物質は関係がなく、むしろ人との関係性や愛、感謝を伝えられたかどうかなど、身近でシンプルな物事にこそ宿ることを教えてくれる。
『まとまらない言葉を生きる』を読んだ際には、こんなことを感じた。
僕らはどこまでも言葉の内側で生きている。自らが発する言葉、浴びせられる言葉、その無限の総体が社会そのものであったり、自意識を再帰的に構成していく。この本は、見て見ぬフリをしている(したい)社会のあれこれに、言葉を持ってして正面から向かっていく冒険の書である。
存在を肯定するための言葉と哲学
「自分で、自分を知るということ」というnoteにも書いたことだけれど、鬱からケニアで再起動し、読書とポーカーにいそしむ毎日を過ごしている。
その過程で、またこうして文章も書くようになった。
「世界を相対化する技術」を皮切りに、習慣・アイデンティティ・プリンシプル、そして現在はまた「言葉」そのものに思考の照準が移り変わってきた。その変遷は、noteのタイトルをさらってもらうだけでも窺えると思う。
で、ぼくがなぜわざわざ「知らぬが仏」の教えを無視して、プリンシプルなんてものの所在や内実について考えを巡らせなければならないのか。
それは結局のところ、自分の存在や人生を肯定するための言葉、もっといえば哲学を探しているからなのだろう。
たとえば、ぼくがnoteを書く。一部の仲の良い友達が読んでくれる一方で、一部の仲の良い友達は読んでくれない。毎回のように一部の知らない人が読んでくれる一方で、もちろん読んでくれない人もいる。刺さる人には刺さるし、耳を塞いでいる人にはなに一つ届かない。
それでもぼくは読むこと、書くことを止めないだろう。
と、「生きてりゃいいことはある」にも書いた通り、思考を言語化し、発信し続けることで出会いを呼び込み、人生は転がっていくことを知っているから。
パレートの法則、種の保存、需要と供給
と「人生に“PRINCIPLE”はあるか」にも書いた通り、そもそも世界で、人の役割は分かれている。
多くの哲学者は発狂して死ぬかもしれないが、それでも命をかけて存在論や時間論、多くの謎多き答えのないビッグクエスションに挑んでいく。使命を授かったのなら、考えざるを得ないのだ。一方、誰かが米を育てなくては、世界は回らない。それぞれがそれぞれの持ち場で、人生をなんらかの役割でコミットさせていく。
『利己的な遺伝子』からは生物学的な種の保存を目指す進化論的な視点が得られるし、『現代経済学の直観的方法』からはミクロ経済学の核をなす、需要と供給の観点からの人間の役割分化の視点が得られる。
どんな分野の読書をするにせよ、自分が抱えている問題意識に根ざす仮説や問いを持っていれば、そこに光を当てる新しい考え方が必ずといっていいほど得られるはずだ(とりわけ、古典と呼ばれる一冊からは)。
これもすでに「世界を相対化する技術」で既述したことにはなるが、
人生は後戻りできないから、知ってから動くでは遅い。むしろ、動くから知れる世界がある。飛び込んだ新しい世界には、観たことのない景色、出会ったことない人たち、自分の狭い常識が塗り替えられる感覚がある。で、誰もが抱える将来への漠然とした不安は、こうした世界の更新を繰り返すしか消せない。
だいたい、そのようなことが「世界を相対化する技術」の要旨だ。その過程で、惑うことがある。なぜ、自分はこれほど哲学に興味があるのに、他の人にはないんだろう、とか。このnoteの序盤で触れたようなことだ。
けれど、いま生きているすべての人は一回目の人生を送っている。
世界はそもそもがフィルターバブルで構成されているのだ。人も泡、言葉も泡、価値観も泡、哲学も泡、趣味も泡。泡と泡が弾けて、ひとつの水になることもある。
世界は無数の分けられない泡の集合体として、大海を形成している。
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