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生きてりゃいいことはある

躁鬱を手なづけながら、ケニアで暮らしていたら、起きた人生の展開

ぼくのなかでも数少ない、新しい動画がアップされたら必ずチェックするYouTuberでありプロポーカープレイヤーのじぇいそるさんがケニアにやってきた。

一切の面識もなかったのに、ぼくが去年末に書いた、この長い長いnote(6.5万字くらいある)を読んで、ぼくという人間に興味を持ってくれたというのだ。

「そんなことある?」って思うくらいに嬉しかった。自分が前々からファンとして画面の向こう側に見ていた人が、わざわざラスベガスから、遠い遠いアフリカ大陸まで会いにきてくれるなんて。晴天の霹靂へきれき以外のなにものでもない。

上記のnoteに詳述したように、鬱に見舞われ、ケニアに居場所を求め、ポーカーに活動の光明を見出し、また文章を書けるようになった。とくに力を入れたというか、時間をかけて書いた「世界を相対化する技術」を自分が憧れの目で見続けてきた人が読んでくれた、それだけでも嬉しいのに、自分に興味を持ってケニアまで会いにきてくれるなんて。

「お会いしにケニアに行ってもいいですか?」とDMをもらって、二つ返事で「ぜひ」とお答えしてから、ほんの数週間後には、じぇいそるさんは奥さんのコスさんと連れ立ってケニアに本当にやってきた。感服する行動力である。

空港に迎えに上がると、出会いの瞬間から、ふたりはGoProを持ちながらYouTubeの撮影を行なっており、ぼくは面を食らったのだけれど、これからお二人と過ごせる一週間を思うと、胸が高鳴った。

このnoteでは、お二人と過ごした思い出をテキストに残しておきつつ、今回の邂逅を通じて思い至った、人生に展開を作る方法、言い換えるなら「自己達成予言」や「引き寄せの法則」などの考え方に、自分なりの体験・考え方をアップデートしたので最後に付記したい。

じぇいそるさん・コスさんと過ごしたケニアでの一週間

早朝に二人を空港へ向かいに行き、自宅へ戻る帰路はあり得ないほどの大渋滞。ナイロビの渋滞は本当にタチが悪く、車での移動はしばしばまったく動けぬ沼にハマる。

けれど、車内でたくさんのお話を交わすことができた。

自宅に戻り、ちょっとした買い物を済ませ、ランチを食べるべく日本食レストランへ向かった。じぇいそるさんから渡航にあたっていくつかの事前質問をいただいていたのだけれど、その最初の方に「ケニアでも日本食は食べれますか、日本食レストランはありますか?」との質問があったのには、少し笑った。

食事を終えてから、カジノでポーカーテーブルが立つまでの間に、近くのカフェに行き、簡単な対談を収録した。まあ、ぼくはそんなに喋るのが得意ではないので、内容はあまり期待しないでほしい。

初日から早速、カジノへ行き、じぇいそるさん・コスさんと同卓するという、普段からお二人の動画を視聴している身からすると胸熱な展開に。一通りケニアのポーカーを体験してもらってから、ぼくが居候としてお世話になっている河野家の皆さんも一堂に会して、ナイロビの寿司店へ。とても、あたたかい時間を過ごすことができた。

翌日以降も、ナイロビにある他の日本食を案内したり、カジノでポーカーをしたり、慌ただしくも充実した日々を過ごした。夜には、じぇいそるさん夫妻、河野家の皆さんで何時間も語り込んだ。その過程で、仲がぐんぐんと深まっていき、完全なるファミリーといえるまで関係性が育まれたと思っている。おふたりの表裏のなさ、だれにでも分け隔てなくフランクに接せられるコミュニケーションに背筋が伸びた。見習っていきたい。

これまでの人生のこと、結婚について、ポーカーにまつわる話や、現在の日本のポーカー業界に対する見解ーーじぇいそるさんは、ぼくのどんな質問にも気さくに答えてくださった。ときには自分の人生を顧みる深い示唆のあるお話もあったし、腹を抱えて笑うような話まで、密度の濃い会話をたくさんさせていただいた。ぼくの財産となる時間だった。

とくに「精神がゆるやかに死にゆくとき」というnoteに書いた、問題意識は現在に至るまで抱えているもので、日本では最初期からポーカープレイヤーとしてのキャリアを始められたじぇいそるさんにお話をうかがえる機会はまたとない貴重な時間だった。

金を稼ぐために生きているわけではない。けれど、生きていく上で、最低限の金というものはかかる。

自分が真に情熱を注げるもので、成長実感を伴うもので、生活費を稼ぐ手段で、たしかに毎日ポーカーをやっている。

けれど「このままでいいのか?」という気持ちもなくはない。いま自分は31歳である。精神的にも肉体的にも、人生においては充実期であることは疑いようがない。あり得たかもしれない潜在的な能力を秘蔵してしまっているのではないか、その機を逸してしまっているのではないか。惰性に寝転んではいないか。

やはり人はいつか咲くかもしれない、花の種を蒔き続けないと、精神は緩やかに死んでいくように思う。

マサイマラ・サファリ、そしてコスさんの誕生日祝い

三日目は、誇張抜きにして乗合バスとしか言いようのないほどの、小さくて頼りないプロペラ機に揺られて、マサイマラのサファリへ向かった。

サファリのシーズンとしてはやや外れていたので、そこまでは期待をしていなかったけれど、ぼくたちの期待を遥かに超える数の動物に巡り合うことができた。ゾウ、キリン、ヒョウ、チーター、シマウマ、バッファロー、ハイエナ、ガゼル、見たこともない種類の鳥たち…。

なかでも、サファリ二日目に木陰に群れをなしていたライオンの大群に出くわした際は、興奮がピークに達した。

サファリを終えて、夕方、マサイ族の住む村へ向かった。村に向かうまでの道中で雨が降り始め、悪路がぬかるみ、スムーズに移動するのが難しくなった。それでもなんとか村に到着。

するとすぐに、ぼくらへの歓迎の意を示すダンスと歌が始まる。村の入り口をくぐると、なぜだかは定かではないが、木を全力で擦って火起こしのパフォーマンス。小雨が降っていたので、一向に火がつかないシュールな情景に、顔を合わせて笑った。

その後、マサイ族の家の中に案内してもらい、簡単に暮らしぶりや文化についての説明を聞いて、その返礼としてしっかりとお土産をつかまされた。いつもであれば、お土産の類はどれほどの押し売りにあっても強硬に断るタイプなのだけれど、その日はなぜか最初から「まあいっか」と思えたので、謎のネックレスを買った。

ちなみに、案内をしてくれた男性に面白い話を聞いた。彼にはふたり奥さんがいる。最初の奥さまは、牛約10頭と引き換えに迎えた嫁さん。二人目の奥様は、ライオンを狩ったことの報奨として与えられた奥さんだという。「おー、さすがマサイだな」と感心しながら聞いていたけれど、後から別の場所でマサイ族の文化について聞くと「ライオンの狩りはもう数百年前から行われていない」との、考えてみれば当たり前の、悲しい事実を教えてもらうのであった。

家から出てきたぼくの首につけられたネックレスをみて、外で待っていたじぇいそるさんは爆笑していた。その勢いで、お土産を買うのは断っていたのに、じぇいそるさんも謎の金のブレスレットを購入していた。

サファリを終えてナイロビに「さあ帰ろうか」と思ったものの、飛行機が一向にやってこない。待てど暮らせどやってこない。空港というより、草原を軽く耕して、そこに小屋を置いただけの場所のベンチでぼくらはただただ飛行機を待ち続けた。

「YouTubeの企画で『マサイ族とポーカーやってみた』なんてやったら面白いかもですね」「たしかに。『オールイン』とか言って、村中の牛を引っ張ってきたりなんかして」と談笑。4時間ほどしてようやく飛行機が到着し、ナイロビへ戻った。

じぇいそる夫妻はPCR検査を済ませて、最後の晩餐兼コスさんの誕生日会でナイロビでは有数の高級レストランへ足を運んだ。シンガポールと見まごうような高層ビルに入ったこのレストランの内装は瀟洒で、料理もジャパニーズ・フュージョンで美味い。ナイロビではありえないくらい価格帯の高いお店なのだけれど…じぇいそるさん、ご馳走様でした。

ナイロビでみんなでコスさんの誕生日を祝えたのは、ぼくらにとっても忘れられない思い出になった。

「引き寄せの法則」のシンプルな原理

お二人がケニアに滞在された一週間は、一瞬のように過ぎ去った。

深夜の便でラスベガスに帰るお二人を空港まで見送り、自宅へ戻ったぼくは泥のように眠った。翌日は疲労というよりも、ふたりがいなくなってしまった寂しさで、一日なにもやる気が起きず、ポーカーも休んで、ソファでゴロゴロしていた。

自分の大好きな人が、ある日突然わざわざケニアへやってきて、一緒にポーカーをやって、たくさん語って、サファリ行って、マサイ族とジャンプして、ただただ最高の時間だった。あとは、ぼくのファミリーである河野家の皆さんとじぇいそるさん夫妻がこうして巡り合い、強くてあたたかな関係性を結べたことが、個人的には一番嬉しいことであった。

ぼくとしても、河野家としても、じぇいそるさん夫妻が遠いケニアの地まで会いにきてくださったことは、間違いなく今年を彩る大きなハイライトになった。

思えば、このちょっとした奇跡も、ぼくが書いた一つの文章がきっかけになっていると思うと感慨深いものがある。

少なくとも、ぼくの実体験からいえることとして、世にいう「自己達成予言」や「引き寄せの法則」は一つの真理である。そして、その原理原則はしごくシンプルなものだ。自分は「こんなことがしたい」「こんな人に出会いたい」と、あらゆる場所、あらゆるタイミングで言葉にし続けるのだ。

だれしも衝動、想い、感情を持っている。それを内にため込まず、繰り返し繰り返し、言葉に変換して、外への発信を続けること。言葉になった願いは振動するし、熱はいつか炎になるし、届く場所には届く。言葉に換えるとは、種をまくことだ。種なくして花が咲くことは決してない。

そういえば、三年前くらいに、こんなnoteを書いた。

すると、まさかまさかのミスユニバース・ジャパンの方と出会い、なぜか進路相談を受けるなどの展開が訪れた。願いは口にすること、自分から胸襟を開くことが、まだ見ぬ人生の新しい展開を招くコツだったりする。

ぼくの思考の原点にある一冊はやはり、学生の頃に読んだ『思考は現実化』するにあるのだと思う。

「世界を相対化する技術」では「人・本・旅」によってしか、人は変われないと書いた。ただ、その人・本・旅に介在するのは、触媒するのは、そのすべてを表象するのは「言葉」に他ならない。

言葉によって世界を記述し、言葉によって人とコミュニケーションを取り、言葉によって考えて行動をする。そう、言葉が自分の現実を作り出していく源なのだ。

と、じぇいそるさんがケニアまで足を運んでくれたこと、そこで新しい関係性を結べたことで、これまでの人生を振り返ったり、これからの人生を考える一つのきっかけになった。

✳︎

最後に、宣伝というわけでもないのですが、じぇいそるさんの著書『職業プロポーカープレイヤー カジノを「職場」にする生き方』を紹介しておきます。

この本を読んで「希望」と「絶望」のどちらをより多く見出すかは、あなた次第。ただ、キャッシュプロのリアルな生活スタイル・思考が垣間見える、シンプルに読み物としても面白い本なのでオススメです。


ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。