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精神がゆるやかに死にゆくとき

金を稼ぐために生きているわけではない。けれど、生きていく上で、最低限の金というものはかかる。

自分が真に情熱を注げるもので、成長実感を伴うもので、生活費を稼ぐ手段で、たしかに毎日ポーカーをやっている。

けれど「このままでいいのか?」という気持ちもなくはない。いま自分は31歳である。精神的にも肉体的にも、人生においては充実期であることは疑いようがない。あり得たかもしれない潜在的な能力を秘蔵してしまっているのではないか、その機を逸してしまっているのではないか。惰性に寝転んではいないか。

やはり人はいつか咲くかもしれない、花の種を蒔き続けないと、精神は緩やかに死んでいくように思う。

労働・仕事・活動

アーレントは『人間の条件』のなかで、「労働」「仕事」「活動」を区別する。

ここで、べつにアーレントの区分や定義を仔細に検討したり、拝んだりしたいわけでもない。

個々の人間が等しく持つもっとも貴重なリソースである“時間”をなに(what)に、継続的に投下し、そこからなに(what)を引き出すのか。この二重のwhatに自覚的に生きることが、労働にせよ仕事にせよ活動にせよ、を通貫し、現存在を照射し出すのではないか。

そんな前置きをした上で、ぼくはざっくりとした戦略を持ちながら生きている。戦略なんて肩肘張った考え自体が、人生を窮屈なものにするのかもしれないけれど。

その概略については上記のnoteに書いた通りで、いまはその配分であったり、位置づけを整理しようとしているところだ。

遊んで、書いて、挑戦する

ポーカーは生活費を稼ぐ手段であると同時に、死ぬまで探求を続けられるだけの奥行きがある研究ですらある。実践での経験を積むのはもちろん、座学での勉強も欠かせない。ポーカーは大人が真剣に打ち込める究極の遊びだと思う。

ぼくはもともと商業系のライターを長年続けてきたけれど、ケニアに来てから、スッパリと一切の仕事をしなくなった。ちょこちょことnoteを書いているだけだ。私的な文章を書き溜めていく活動は引き続きやるとして、また影武者的にライター活動をゆるりと始めてもいいかなと思い始めている。

ライター活動を収入源の複数化につなげたいというよりも、社会との接点の回路を持っておきたい、といった感じか。ライターの醍醐味は執筆よりも、取材にこそある。結論として、最上質のインプットは本ではなく人にある。

ポーカー、執筆に加えて、三本目の矢となる活動も開始したい。以前は「農業」と書いたが、ケニアでラーメン屋をやってみることも別のオプションだ。結局のところ「新しい活動」「投資的な種まき」が大切なのであって、活動自体はなんだって構わない。

職に就くのではなく、活動を束ねていく

新しい動きを投げ込むから、新しい場所へ行き、新しい人に出会い、新しいアイデアを得ることができる。つまり、人生を転がすことができる。

停滞こそが怖い。小さくてもいいからチャレンジをしていない状態が続くなら、精神はゆるやかにゆるやかに退廃してしまう。

なので、ぼくの生き方は「職に就く」というより、「活動を束ねる」という感じだ。

それぞれの活動で小銭を稼ぎ、収入源を分散化することで、まず生きていくには困らないくらいの生活費は捻出する。それぞれの活動は精神を正気で保つためにデザインされている。ポーカーは情熱や探究心を、執筆は思考と想像を養うために、第三の矢は挑戦と投資を。

実験をぐるぐると続けていきたい。

ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。