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「好きなことで生きる」は可能か

パラダイムの外側で

「好きなことだけして生きていけないものだろうか」

ポーカーと、文筆と、農業と。

最近、けっこう真面目にそんなことを考えながら暮らしている。

だから、つぎのNobodySurfの岡田さんのツイートが、めちゃくちゃみずみずしくリアルに、ぼくの目をとらえた。

日常の外を一歩出ると、自分の“当たり前”がことごとく覆され、新しい景色が広がることがある。新しい本を読んだり、初めて行く国を旅したりすることで、そのことに気づけることもあるけれど、一番は新しい場所(必ずしも異国である必要はないと思うけど)に根を張って、暮らしてみることだと思う。

この前、「ケニアで中国人マダムの性奴隷になった話」というnoteに書いた福建の人々の暮らしぶりなんかはその一例に過ぎないだろう。世界にはぼくらの知らないギャング集団が世界のあちこちでファミリービジネスをしているし、ぼくらの知らない野菜を育てている農家がいるし、人を殺したり、騙したりして暮らしている人もいる。世界には知らない仕事が溢れかえっているのだ。

二ヶ月くらい前、これまでの人生を振り返り、産まれてから現在に至るまでを、ちょっとした物語調で一気呵成いっきかせいにnoteに書き殴った。その過程で思い知ったのは、徹頭徹尾「ぼくたちは見えるものしか見えないし、聞こえるものしか聞こえない」という事実である。

だから、ちょっとでもその自分の無知のヴェールに風が吹いたとき、想像力の扉を誰かがノックしてくれたとき、見えない明日や未来でも、自分の意志を尊重して、行動に移すことができることを忘れないでいたい。

長編noteの最終部では、ケニアで一年間暮らすなかで育まれた「パラダイムの外側で生きていきたい」という現在の心境について記した。

パラダイムとはなにか。辞書通りに引くなら「ある時代のものの見方・考え方を支配する認識の枠組み」を意味するだろう。

そう、ぼくらはいやがおうにも、産まれ落ちた瞬間から、あらゆる“枠組み”の内側に打ちつけられる。

むしろ、自分から“枠組み”を探し、見つけ出した“枠組み”に自分を当てはめることに悦びすら感じる。正解などない人生のなかで、“正解っぽさ”の手触りを求めて、周りの目を気にしながら、収まるべき“枠組み”に安住する。

保育園、小学校、中学校、高校、大学。就職、転職、独立、起業。進学、MBA、研究。フリーランス、アルバイト。フリーター、ニート、引きこもり。結婚、離婚、再婚。子供、教育、介護。

たぶん、ぼくらがいま生きる時代のパラダイムを形成するのは、上記で列挙したような単語群が主を占めるのではないかと思う。

これらの単語の一つひとつは何世代にもわたる時代を超えて、歴史的社会的に、ひとつずつ制度化、社会規範化されてきたものだ。

「農耕と結婚」にせよ「教育と戦争」にせよ。ぼくらが所与の枠組みとして自明に考えているアレコレも、時代の要請があって、歴史的に構築されてきた人工物にすぎない。

きっと、その始原は狩猟から農耕への文明的展開とかに行き着くと思うのだけれど、まあここでその歴史を追うことは本意ではないので止める。

お金がなくても“青空文庫”を読める

最近読んだ高橋祥子さんの『生命科学的思考』で、生命の基本原則は「個体として生き残り、種が繁栄するために行動する」と述べられていた。

前項で列挙したような社会を構成する“枠組み”たちを、人類がどんな意図で組み立て、改良し、継続してきたのだろう。ドーキンスの「文化的遺伝子」を敷衍するなら、ソフト/ハードの社会的構成物も、あるいはテクノロジー(テクニウムと言った方がいいのか)もある種の“進化”を志向しているのかもしれない。

だんだんと小難しい話になってきてしまったけれど、ぼくが言いたいのはもっとシンプルなことだ。そうそう、はじめに書いたあの一文のことだ。

「好きなことだけして生きていけないものだろうか」

簡単なことではない予感だけはしている。

けっきょく、無人島で自給自足でもしないかぎり、なにかとお金がかかる。資本主義は世界をほとんど覆い尽くしているから、その外側に行くのは容易ではないし、外側はたぶん(というか絶対に)不便な世界だろう。あらゆる文明の利器が通じぬ場所だと思う。

ぼくは日本で生まれ育ち、途中アメリカに留学をして、いまはなぜかケニアで暮らしているけれど、基本的にどっぷりと資本主義に浸かりながら生きてきた。いまさら無人島で暮らせないし、原始的なサバイバル能力は皆無で、数日で死ぬだろう。たぶん、絶対に。

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まあ、なので、なんらかの形で生きるために金を稼ぐ必要はありそうだ。一方で、金銭欲や物欲が1mmもないから、手段が目的化してしまう、つまり金のために金に飼い慣らされることもなさそうだ。あくまでも、とりあえず生きていくのに不足がないくらいのお金があればそれでいい。実際、いまもほとんどお金はないが、とりあえずはどうにか生きていけるだろう、と思って生きている。

「本だけ読んで暮らしたいな」なんて思ったことがある人は、ぼくだけではないはずだ。実際にいまケニアで、本ばかり読んで、とくだん他になにをするわけでもなく生きているけれど、本を読むにはお金がかかる。ケニアの通貨“ケニアシリング”でサクッと日本の本を買えるはずもなく、Amazonを通じてKindleの本をダウンロードする度に、ぼくの貴重なわずかばかりの日本円は順調に減っていく。まあ、すべての日本円がなくなってしまった暁には、本を読むために小銭を稼ぐか、青空文庫を読むしかなくなる。けど、青空文庫さえあれば、とりあえず読書に困ることはないだろう。

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好きなように生きることを、だれも否定できない

ここまでを整理すると、好きなことで生きていくにしても、資本主義世界で生きるのか、無人島へ行くのか、その分岐を選びとる必要がある。で、ぼくはどこかで自給自足的な生活をしたいわけでもないので、とりあえず資本主義の世界に身を置きながら方策を考える必要がありそうだ。

「お金」のつぎに問題になりそうなのが、広い意味での世間体というやつだろう。家族や友人、もっと言えば社会からの見え方の問題。この点に関しては、「世界を相対化する技術」で詳述したように、一度ぼくはガチ鬱気味になり、仮想的に“死んで”いるので、わりとどうでもいいと考えてしまっている。まあ、そんなことを言えるのも、守るべき家族がいない独り身だからなのかもしれないけど。

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後ろためさがあるとすれば、両親に対してくらいだろうか。そもそもここに至るまでに心労をかけてしまっただろうし、いい歳をしてケニアでふらついている息子を安心して見られるわけもないだろう。けれど、ぼくはそもそも家族とはかなり異色の世界を歩いてきた。職人家系のなかで大学まで行く人はいなかったなか、大学院まで進学しているし、自分で会社を経営していたり、それも放り捨てて、アフリカでぶらついていたり。

考えてみれば、進路とか生き方に関しては、何ひとつ親から言われたことはない。幸い、ぼくは次男だし、兄もすでに子供が三人もいるから、ぼくへの放任主義がこのまま続いてくれたらと思う。と、いうかどう考えても親は「ぼくが好きなように生きること」を最初から最後まで肯定をしてくれていると思うので、ぼくもぼくなりに、中途半端にいやいや生きるよりも、自分なりの道を見つけて生きていたい、と強く思っている。だからこそ、他人からどう思われようが、いま必死で、どうにか道を拓いていこうともがいている最中だ。

で、あとは何か足かせはあるだろうか。このまま道が見つからずに、パートナーに巡り合うこともなく、子供の顔を見ることなく、ひとりで孤独死するとかだろうか。まあ、そんな先のことを今から憂いていても仕方がない。まず動けるうちに、動くことが先決だろう。未来はどうしたってついてくるから。

べつに、いまからコンビニ店員になることも、また新たに会社を始めて挑戦することも、ポーカープレイヤーになることも、小説家になることも、なんだってできると思う。この”なんだって”の可能性を気づき、認め、どうやって生きていくのか、を決め切ることだけが重要なのだと思う。

ポーカーと、文筆と、農業と

じゃあ、いまやりたいことはなにか。

いくつかあるけれど、まずはポーカーは死ぬまでやめないんじゃないかと思う。一生をかけても「極めた」とは言えないほどの奥深さがこのゲームにはある。運だけでもスキルだけでもない、胆力とロジックだけでもない、複合的な“経験値”がものをいうゲームだ。

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いまはお休みをしているけれど、またキャッシュゲームをベースに生きていくのも一つのオプションだと思っている。ただ、毎日ポーカーを打ち続けるのもそれなりに精神をすり減らす作業ではあるので、ほかのオプションだって必要だろう、と考えを改めているのが現状だ。

『LIFE SHIFT』で提唱される“ポートフォリオワーカー”ではなくとも、社会常識的に規定された生き方を逸脱して、どうにか生きようと考えているのであれば、目の前の一つの選択肢にオールインするよりも、好きなことを束として持った上で、それぞれに適度に、タイミングを見計らいながら生きるのもまた一つの策ではないかと思う。

いまいまは大してお金を持っていないので、かなり先の話にはなってしまうかもしれないけど、ある程度バンクロール(手持ち資金)に余裕ができたら、世界中を旅しながらトーナメントにも参加したい。ポーカーありきで旅をするのも、また新たな発見がありそうだ。

あとは、文筆だ。物を書くのは昔から好きなので、お金にならなくとも、今後も文章を書き続けるだろう。文章を書き続けるのは、自分の現在地の確認にもなるし、言語化することで、深層の目指す先をあぶり出す針路になったりもする。いまは小説を書こうと企んでいるので、自分の想像力や、物語的な経験の束と向き合っている最中だ。

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もう一つが、ちょっとした思いつきに過ぎないけれど、農業をやってみたいという気持ちがある。絶対に農業じゃなきゃ嫌というわけではなく、なんらかの身体性のある肉体労働をしたい、という気持ちが芽生えた。機械的な単純作業よりも、なにかを月日をかけて生産したい。

あくまでもぼんやりとした空想にすぎない段階だけれど、半年間ポーカーをやって、半年間農業をやる、といったシーズナルな生き方だって決して不可能じゃないだろう。ポーカーをやる場所も農業をやる場所も、その都度、移動すればいい。文筆に関しては、世界のどこにいても文章は書くことができる。きっと、移動は想像力の補助線になる。移動を続けることで、出会い(人はもちろん、また新たな仕事や遊びの)がきっとある。

意思と選択だけが、自分自身の物語になる。

ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。