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人生に“PRINCIPLE”はあるか

世界を相対化するために

ある者は畑を耕し、ある者はコードを書き、ある者は哲学を探求する。またある者は、毎日ポーカーに明け暮れる。生き方はなんだっていい。一度きりの人生で、自分の意思で、実感を持って世界にコミットしているのかどうかが重要なのだと思う。

じゃあ自分はどんな角度から、どんな物差しを持って、世界のどこで、ある物事にコミットしながら生を燃やしていくのか。

ジョブズに言われるまでもなく、人生はconnecting the dotsに過ぎない。自分の人生の舵を自らで握り、その針路を自分で決め、どんな速度で進んでいくのか。

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点と点の連なりにいち早く気づいたり、自分が船長として、点の針路を主体的にデザインするのかで、到達点の高さや、たどり着く島は変わるのだと思う。まったく意図しなかった未知の大陸へたどり着くためには。

セネカが『人生の短さ』で繰り返し述べるのは「寿命が人生の長さをそのまま意味することはない」ということだ。人は自分の意思で人生を生きているようでいて、実際のところはそうではない。社会や他人に操られ、自我を見失っている隙に、するりするりと、人生は濁流で過ぎ去り、失われてしまう。自分の人生の舵取りをできる期間は限られている。

では、産まれ落ちてから、社会に組み込まれながらも自我を獲得し、人生の舵を握り始めるにはどうすればいいのか。ぼくが思うに、煎じ詰めれば、その方策の第一歩としては先月書いたnote「世界を相対化する技術」の表題そのもの、“世界を相対化すること”に他ならないと思う。

世界を相対化するためには、人・本・旅を通じ、自分が知っていた世界にはさらにその外側があることを知り、自分はどう生きたいのかを再策定しながら、アクションを繰り返していくことだと思う。

で、三十路を過ぎてから気づいた、思う、キーワードになるのが「習慣」「アイデンティティ」そして「プリンシプル」だ。

「習慣」「アイデンティティ」「プリンシプル」

We are what we repeatedly do. Excellence, therefore is not an act but a habit. (繰り返し行うことが、人間の本質であり、 美徳は、行為に表われず、習慣に現われる)

習慣に関して、アリストテレスはこんなことを言った。日常は連続的に過ぎ去っていくから、気づいたら明日になっているし、気づいたら来年になっている。気づいたら三十路を過ぎ、気づいたら還暦を迎えていることだろう。

ときに相対的で、ときに絶対的に、流れていく時間。ぼくらの力でコントロールできるのはせいぜい日常くらいのもので、日常を形づくるのは、普段の何気ない所作だ。所作のなかでも、自分のアイデンティティの写鏡うつしかがみとなり、明日の、未来の自分を形成するのが“習慣”に他ならない。

まず「ありたい姿」を描くからこそ、最小単位の習慣が日常に埋め込まれていく。

たとえば何気なく始めた物を書く習慣、外国語を学ぶ習慣、ジムで身体を動かす習慣。毎日、ほんの少しの時間でも構わないから、十年間続けたとしよう。一日単位で見れば、なんの意味もなさにように見える習慣でも、十年続けたなら、間違いなくぼくを、あなたを、別のどこか遠くの場所へ連れて行ってくれるはずだ。

アイデンティティと分かちがたくセットになった習慣は強固だ。ありたい姿=現在と未来のアイデンティティと連結した習慣を繰り返すことで、そのアイデンティティは自己強化的に磨かれていく。ときに、自己習慣は明日自分がいる場所やキャリアパスさえも規定する。それくらい、人の“その人らしさ”を照射しょうしゃする力を持っている。

じゃあ、「プリンシプル」とは何か。アイデンティティよりもう一段下のレイヤー、もっと深く根っこにある、最奥にある、ぼくらの核心部に横たわるのが“プリンシプル”なのではないかと思っている。

アイデンティティのさらに向こうの、最奥にあるプリンシプル

時代は揺り戻しを繰り返しながら、弁証法的に変化を続ける。だけれど、ぼくらは一度きりの生のど真ん中にいるわけで、時代が繰り返すことも、書物を通してしか知り得ない。たとえば、株式市場ひとつをとっても、歴史的にバブルを繰り返しつつも、市場全体としては右肩上がりを続けてきた。

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人・本・旅を通じて、絶えず世界や自分を相対化したとしても、社会の流れに方向づけられてしまう側面は必ずある。資本主義下に生きていたら、お金に価値を覚えるのは当然だろうし、ときにその欲望が行き過ぎて、目的と手段が逆転して、人生の中身がないがしろにされてしまうことがあるかもしれない。テクノロジーも同様に、一度スマートフォンの便利さを覚えた人が、おいそれとスマホなしの生活に戻ることはできないだろう。情報を追っているつもりでも、情報に追われているのが関の山だ。

時代は変わる、社会も変わる、自分も変わる。すべては連動しながら。じゃあ、変わらないものは何か。もしかしたら、それが自分だけが持つ“プリンシプル”なのではないか?という仮説を最近持っている。

「プリンシプル」とは“原理原則”のことだ。最近読んだ『PRINCIPLES(プリンシプルズ) 人生と仕事の原則』は世界最大のヘッジファンドであるブリッジウォーターズ・アソシエイツを一代で気づいたレイ・ダリオが自身の人生を振り返りながら、成功に至る仕事や人生にまつわるプリンシプルをまとめた重厚なルールブックだ。いくつもの金言に溢れて一冊で、一読をおすすめできる。

同じことが何度も何度も繰り返し起こるのを見て、現実とは見事な永久運動機関だとみるようになった。原因が結果となり、それが原因となり新たな結果を招き……と続く。現実とは、完全ではないにしろ、私たちが対応するよう与えられるものだと思うようになった。そうして、問題やフラストレーションを、文句を言うのではなく、生産的かつ効果的に取り扱えるようになっていく。私が遭遇した事象は、私の人格と創造性を試すものだったと思うようになった。(上掲書より)

ぼくらは人・本・旅を通じて、自分という存在を反芻しながら、人生の意味を模索しながら、未来に向けての暮らしを営んでいく。その旅路の途中、アイデンティティを絶えず更新しながら、自己は変容し続ける。だけれど、アイデンティティの向こう側、その奥にあって下支えするもの。社会規範や常識にさえ左右されない、自分だけのブレない価値判断基準、それが“プリンシプル”に他ならない。

孤絶と対峙することで、プリンシプルは芽生える

じゃあ、プリンシプルはどんな瞬間に芽生えるんだろう。

もちろん、人は十人十色の人生を歩むわけだから、その人ならではの日常、出会い、別れを繰り返しながら、いつかの走馬灯は描かれていく。ときには天啓のような場面さえあるだろう。けれど、ぼくは“孤独”にこそプリンシプルを打ち立てる、涵養かんようするための、時間が詰まっているのではないかと考えている。

昨年に書いたnote「“孤独”はいつか強さを与えてくれる」のなかでも、このことには触れている。

仕事柄、あらゆる業界のトップランナーの人にお話を伺う機会がある。

「なぜ今の場所にたどり着いたのか」ーー。

皆さん口を揃えておっしゃることがある。数ヶ月、数年、己とだけ向き合い続けた”孤絶”の時間があった、と。
孤独をどこまで引き受けられるかが、別軸の成長分を創出できることは間違いない。ある時点でまとまった時間の閉じた暗い空間で自問自答や思索を時間を人生で取っておく。すると、気づいたら立ってる地点が高いところにいた。そんな人も何人もみている。

社会通念上の平均値の薄膜を突き破り、頭角を表す人間は長短を問わず、”静かな時間”言い換えるなら”風雪の時間”を耐え忍んだ経験を持つ。充電でも冬眠でもなく、孤絶下で己と向き合い切る。その果てに生まれた経験値と方法論。そこだけにしかレバレッジはかからない。人生における修行期間は、必ず後のジャンプの助走になる。

群れから離れ、独りで孤絶と対峙する時間。ソローの『森の生活』にはこんな言葉がある。

迷子になってはじめて、つまりこの世界を見失ってはじめて、われわれは自己を発見しはじめるのであり、また、われわれの置かれた位置や、われわれと世界との関係の無限のひろがりを認識するようにもなるのである。

どうやらぼくは折に触れて、“孤独”について考えを巡らせてきたようだ。2018年に書いたnote「“孤独”を飲み込む」の締めくくりには、当時のこんな思いが吐露されている。

孤独は自分の頭が作り出す怪物だ。人生の連続性や相対性を見失うと、やつは肥大化し、強迫観念をブチまけてくる。過去に学べば、明日には知らなかったことや、知らなかった人に出会える。でも、握りしめて離しちゃいけないこと、は明日にならなきゃ分からない。

“孤独”というものと対峙したときに、うずくまって耐えるんじゃなくて、取り込んでいきたい。体の奥に沈めて、飲み込んでいきたい。その先にだけある、微かな意味を感じながら生きていきたい。

将来の漠然とした不安に、一向に焦らぬために

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ぼくは今、だれがどう見ても、明日が一切保証されてない、薄氷の上を歩く生活をしている。だけれど、じゃあ日本で会社員をしていたら明日が保証されてるのかというと微妙だなと思うし、微妙な差くらいしかないんだったら、心が徹底的に自由でいられるふうに生きていたいなぁと思う。

異国ケニアで、毎日、同じ日常を繰り返している。早起きして、ジムでトレーニングし、読書をして、ポーカーに興じる。ポーカーで幾ばくかの生活費を稼ぎながら、ときにこうして文章を書いている。それだけのシンプルな暮らしだ。

でも、とても満たされているように思う。人生における“プリンシプル”について思索できるくらいには、心にゆとりがある。長い射程で明日へ思いを馳せることもできる。

もちろん、お金もそんなに持っていないし、定職についていなければ、31歳にもなって圧倒的に独り身だ。将来に対して、漠然とした不安はもちろんある。

だけれど、まずは鷹揚おうような姿勢で現況を見つめること。点としての今ではなく、線としての明日と来週と来年を見つめること。平凡な日常のなかにあっても、常に種をまくこと。それを忘れずに生きていられているから、焦燥は感じない。むしろ、“今があること”への感謝の気持ちが強い。

『DIE WITH ZERO』『LIFE SHIFT』なんかを読んでいると、不確かな時代を生きているからこそ、ぼくの生き方も、意図せず人生戦略として悪くないんじゃないかな、と自己正当化したくもなる。

アンコンフォータブル・ゾーン(苦境)に慣れっこになってしまえば、こっちのもので、真冬の秋田の小作人の気持ちで、風雪に耐えようとする。春を迎えれば、収穫の季節がやってくるだけだ。

漠然と広がる将来へのそこはかとない不安に飲み込まれそうになったとき、市井の世界の人たちをイメージしてみる。旅をするのが一番ビビットに想像力と勇気を与えてくれるけれど、Netflixのドラマやドキュメンタリーを観たっていい。

ドキュメンタリーでいえば『ストリート・グルメを求めて』がすごくオススメだけれど、ぼくがいまちょうど観ている『海街チャチャチャ』も最高のドラマだ。

『海街チャチャチャ』の主人公ホン・ドゥシクは、ある田舎の海街で生まれ育った孤児だ。幼くして両親を失い、保護してくれた祖父も中学生のときに失う。それからは独りきりで生きてきた。容姿端麗、頭脳明晰、運動神経も抜群な彼は、国内最高のソウル大学を卒業しながらも、現在はこの街に根を張り、万能の便利屋としてフリーターの暮らしをしている。街民のどんな要望にも器用に応えるけれど、彼はポリシーとして最低賃金しか受け取らない。

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彼の生き方と思想を覗き見していると、まさに彼こそ決して揺らぐことない“プリンシプル”を持っているお手本のような一人だ。老若男女問わず必ずタメ口で話し(自分から胸襟を開くことで、だれとでもフェアにフレンドリーな関係を築く)、労働の対価は最小限しか受け取らない(お金に人生を翻弄されない)、困った人には必ず手を差し伸べる(だから、街民の全員から愛され、逆に守られる)。

どうやら、彼の愛読書もまたソローの『森の生活』のようだ。

啓発系の洋書を読んでいると、しばしば出てくるのが、かの有名なハーバード大学による75年間に及ぶ成人発達研究。その研究結果によれば、人間の幸福と健康を司るのは、決して経済的な豊かさや地位や名誉ではなく、良好な他者との関係であるという。

『海街チャチャチャ』の主人公ドゥシクの生き方は、まさにそんな研究を体現するかのようなものだ。

世界を相対化する技術、習慣・アイデンティティ・プリンシプル、孤独と対峙する時間。今回のnoteでは、自分の人生の舵を握りながら生きていくための鍵となるコンセプトについて思索を巡らせてみた。

ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。