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断片的なものの“みずみずしさ”

人生は日常でつくられるし、日常は“断片的なもの”でつくられる。

瞬間が織り込まれるように、幾重に連なる“断片的なもの”を個別に捉えるのは難しい。手にとって匂いを感じたり、観察したり、味わったり。

「当たり前」のラベルが貼られた事物や存在であるほど、その難しさは増す。

たとえば、それは肌をつたうそよ風かもしれないし、道に転ぶ小石や、仕事のささやかな悦びなのかもしれない。

一瞬を尊び、その意味に思いを巡らせ、価値を見出そうとする行為は、過去にとっても未来にとっても、必要不可欠なことかもしれないのに。

先日、薦められて読んだ小山田咲子さんのエッセイ本『えいやっ! と飛び出すあの一瞬を愛してる』を読んだ。

本を読み進めるなかで、想起したのが5年ほど前に読んだ『断片的なものの社会学』で、なにもない“日常の淡さ”が自分の記憶と呼応したのだった。

特定の言葉や概念を事細かに覚えていることはなくとも、その本から感じ取った温かみやあるいは冷たさ。「そのときの僕」を揺さぶってくれた読書体験が、年月の時を超えて有機的に絡み合い、再び似た感慨として自分の身体・精神に顔を出してくれることほど嬉しいことはないのかもしれない。
それこそが、まさに読書の悦びなのだろう。

今回手にした小山田さんのエッセイは、一編がしっかり1,000字を超えるものはむしろ少数で、数百字からなるまさに“断片的な”文章に溢れている。

大学の友達との会話、故郷の田舎への帰省、読んだ小説や鑑賞した映画。
ニュースで目にした国際情勢への自分なりの見解、億劫なんだけども一歩を踏み出せずには居られずに家を出て向かう海外。

小山田さんの言葉はそのどれをとっても、丸みを帯びていて、瑞々しくて美味しい。まさに食べたくなる言葉だ。

何気なく過ぎていく日々ほど、断片的な瞬間ほど、光に満ちていて、後から振り返ったならば瑞々しい記憶はない。そう気づかさせてくれるし、心地よく胸をつん裂く読後感がある。

僕は小山田さんが、この世界を飛び立ってからしばらくの年月が空いていることを知っている。大学を出たばかりの小山田さんが、「えいや!」と日常の倦怠の先に飛び出したアルゼンチンの地で、客死したことを。

「姉さん 会いたいよ いつでも思ってるよ」と咲子さんのことを歌ったandymori『Peace』のリフレイン「本当の心 本当の気持ち」

「いつか」ではなく「今日」「この一瞬」ーー。
この気持ちや、いま見える景色を、書き留めておかなければ、思いを巡らさなければいけない。

断片的なものほど、みずみずしく、その向こうを照らしてくれるのだから。

ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。