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自分で、自分を知るということ

もしかしたら、今回の雑記は二週間ほど前に書いた「人生に“PRINCIPLE”はあるか」に連なる内容になるかもしれない。

その内容を軽く要約する。

「世界を相対化する」とは、人・本・旅との出会いを通じて、自分の“知っていた”世界の外側を拡張的に知り直し、同時に想像力を膨らませること。(自ら意識的に目を閉じて、見てみぬふりをしないかぎりにおいて)人生とは、相対化の旅の連続である。

相対化とはすなわち、自分自身を知ることでもある。自分を形づくるのは「習慣」であり「アイデンティティ」であるが、その最奥の核心部に横たわるものとして「プリンシプル」があるのではないかと指摘した。

世界の相対化⇄自分のプリンシプルを見つけることーーこの往還が(少なくともある時期までは)人生のプロセスそのものなのであれば、嘲笑されることもある、あの物言いーー「人生の旅に出る」ーーも、ある程度までは正当化されるだろう。

レースを降りる、世界の輪郭を掴む

自分はたしかに、この瞬間、ここにいる。

時間の継時的な連なりの、その中心にいる。細胞レベルで生物学的に更新され、アイデンティティも塗り替えられるけれども、「自分」は存在し続ける。

けれど、自分から見える(見えない)自分と、他者から見える(見えない)自分は、同一人物だろうか。ここで、分人主義的な、多面に分散する自己像を持ち出すまでもなく、「自己」というイメージはそもそも分裂している。

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自分のことは、案外、自分が一番よくわからない。

たくさんの人々との会話や、読者として第三者的に、本のなかの世界を覗き見ることで、世界の輪郭を掴む。そのなかで自分をどうやって世界に位置づけるのか、少しづつ見定めていく。

30歳になり、いきなり鬱になり、暗い部屋のなかで何日もただ過ぎ去っていった日々。けれど、いま振り返るなら、その時間は無意味ではなかった。そこには深い内省があり、鋭い相対化があった。その一見、粘りつく無為の日々を悶えながらも、くぐり抜けたことで、“自分”という実態が、おぼろげながらも掴めるようになってきた。

ラットが回し車のなかを、せっせと走りつけている。その姿をみて、自分の人生を重ねるわけではないけれど、ぼくは自分が疲弊するようなレースはもう降りることにした。競争を止めることは、恥ずべきことではない。

レースの先に待っているであろう報酬はなにか。金か地位か。
そもそもゴールがあるのかも分からないレースに、自分の意志を無視して、息を切らせながら走って、得られるものが金か地位なら、「要らない」と確信を持って言えるのだ。

「欠乏」にも揺るがぬプリンシプル

日本にいたとき、会社をやっていたとき、それなりにビジネスはうまくいっていたし、お金もある程度稼げていた。生活に経済的な不足はなにひとつなかった。

ひるがえって、今ぼくは本当にお金がない。笑ってしまうほどに。なのに、毎日、ジムで運動と読書しかしていない。客観的にみたら、ヤバいやつだ。それでも「まあ、どうにかなるだろう」としか思っていない。

数日前に『いつも「時間がない」あなたに 欠乏の行動経済学』を読んだ。お金は本来、人の欠乏の代表例で、欠乏は精神的/心理的余裕を削ぎ、ぼくらから正常な処理能力を奪ってしまう。処理能力は認知機能とも直結しているから、余裕のなさは、余裕があれば考えもしなかった行動や意思決定を生んでしまう。

けれど、人はいつだって「欠乏」に付きまとわれているものだ。お金持ちの大富豪だって「時間」や「精神的充足」が欠乏していたら、同じ陥穽かんせいにハマってしまう。

だから、ぼくらは常に「内側」と「外側」について考えを巡らせていなければならない。ある日突然、未曾有の大災害が起きるかもしれない。ある日突然、余命宣告を受けるかもしれない。「外側」にはアンコントローラブルな“可能性”が満ち満ちている。

「内側」は煎じ詰めれば、自分だけの“プリンシプル”に行き着くだろう。プリンシプルは、認識や行為の底をなす土台だ。いかなる“欠乏”にも揺るがされないプリンシプルは強靭である。

自分を支えてくれるプリンシプルを彫刻していくことに関心がある。だから、お金に興味がない。お金は天国に持っていけないけれど、自分だけのプリンシプルへと溶け出していった、アイデアや魂は、いつまでも消えないのではないか。

知性と想像力はだれにも奪えない

本来であれば、毎日長時間ポーカーで稼働するなり、ライティング仕事に精を出すなり、どうにか生活費を稼いで、糊口ここうをしのがなくてはならない。けど、まあ、明日死ぬわけではない。幸いなことに(不幸かもしれないが)、ぼくはまだ養うべき家族もいない。とりあえずは、利己的に生きていける。

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であるならば、健康を保ちながら、創作のための想像力を喚起すること、涵養することに、時間と精神を注ぎたい。いつその種が芽生えるのか、発火するのか、起動するのか、分からないけれども、そうやって生きていたい。

「今日より若い日はない」とはよく言ったもので、いまのぼくの不安定な、無保証な日々を、ある意味で、後押ししてくれる言葉だ。一切の資本を持たぬ、浪人ではあるけれど、想像力のバケツにどうにか水を貯めようともがいている。

「少なくとも年末までは、生きていけるだろう」との目測で、いまの生活は続けるつもりだ。寝て起きて、ジムで運動して、本を読んで、文を書く。

創作に関しては、まだ発酵段階に近い。日々アイデアは横溢しているし、その都度、メモに書きつけている。初期衝動に身を任せて、殴り書いていくこともできるけれど、いまはまだ踏ん張って、散逸したアイデアとコンセプトが、有機的に、立体的に結びつくのを待っている。

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自ら創作への取り組みを始めて思うことは、クリエイティビティにも、たしかに種類があることだ。ゼロイチでアイデアを作りだすことと、散逸した、勃興した、アイデア群を正しく繋ぐ力はまた別個である。

アイデアをプロットに紡ぎ、プロットをストーリーに昇華させる。ゼロイチの起業家と、10→100の事業家がいるように、物語を構築する小説家にもさまざまなタイプがいるのだろう。

いまはとにかく、言葉や、詩や、思索や、物語に触れたい。ポーカーをやって脳的なアドレナリンを得るのもいいけれど、より根底的な次元で魂が、情動が振れる瞬間に出会いたい。

お金は取り去られても、知性と想像力はだれにも奪えない。

ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。