【続編】歴史をたどるー小国の宿命(28)

岡山から京都に帰還した秀吉軍は、京都の大山崎町で、光秀軍と戦うことになる。

信長が自害して11日後のことであり、この戦いは「山崎の戦い」と呼ばれた。

数の上では、秀吉軍のほうが明智軍より2万人ほど多かったのだが、何しろ「中国大返し」で10日間も移動し続けたものだから、軍の主力の疲労はひどかった。

しかし、光秀は直接対決で負けたのではなく、たまたま農村を歩いていたところ、落ち武者狩りをしていた農民に鑓で襲われ、深手を負うことになる。

もはやこれまでと、側近に介錯を依頼して、自死したといわれている。

さて、山崎の戦いは、この光秀の死によって、わずか1日で終了した。その後、秀吉は明智軍の残党などを滅ぼし、一連の弔い合戦に終止符を打った。

2週間後の6月27日、今の愛知県の清州城で、織田家の継嗣問題と、亡き信長が支配していた領地の再分配に関する会議が開かれた。これは、「清州会議」と呼ばれている。

2013年に、三谷幸喜の原作小説がもとになった『清須会議』という映画が公開されたが、あの映画は、このときの清州会議がベースになっている。

興味がある方は、幻冬舎文庫の小説を読むのもよし、映画のDVDを観るのもよいだろう。三谷幸喜の作品なのでおもしろいし、分かりやすい。

この清州会議で、織田家の筆頭家老だった柴田勝家(かついえ)が登場するのだが、秀吉と対立することになり、翌年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いにつながっていく。

ちなみに、柴田勝家の妻は、織田信長の妹であり、「お市の方」と呼ばれた。

信長の息子の信忠は本能寺の変で亡くなったが、次男の信雄や三男の信孝は生き残っていた。

この家督相続と領地問題で、それぞれの思惑が交錯し、家康も巻き込んでまた争いが起こったのである。

秀吉の天下取りには、もう数年、時間が必要だったのである。


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