【続編】歴史をたどるー小国の宿命(30)

家康が、本能寺の変を知ったときに、自分の身に危険が及ぶことを恐れて逃げ帰ったことは、すでに触れたとおりである。

大阪の堺から、伊賀国(=今の三重県)を経由して、自身が生まれた岡崎城に無事に戻ったのは、6月4日であった。

伊賀から伊勢に移動して、伊勢湾を舟で渡って、三河国にかろうじて逃げ帰ったのである。

ここで、本能寺の変が起こる数カ月前に、信長と家康がどこへ何をしに行っていたか思い出してほしい。

そう、甲州征伐である。

信長と家康が手を組んで、甲斐の武田氏を滅亡させたのである。武田信玄の息子である武田勝頼は、この甲州征伐で自害に追い込まれた。

このとき、勝頼の妻は、北条氏康の娘である「北条夫人」であったが、勝頼とともに4月3日に自害している。

その2ヶ月後に、織田信長が本能寺の変で亡くなったわけだから、その死が、明智光秀の近臣によって甲州に伝わるのも時間の問題であった。

今川氏が衰退し、武田氏が滅亡しても、関東には北条氏がまだ残っている。また、武田信玄と戦った上杉謙信が亡くなっても、上杉氏は越後国(今の新潟県)に残っていた。

そうすると、せっかく信長と家康が甲州征伐を果たしても、その周辺の戦国大名は、信長の脅威がなくなるわけだから、息を吹き返すわけである。

戦国時代における北条氏は、鎌倉時代に執権政治を行った北条氏と区別するため、「後北条氏」と呼ばれている。

その後北条氏が、相模国(今の神奈川県)から甲斐国(山梨県)や信濃国(長野県)に侵攻し、さらには上野国(今の群馬県)にも勢力を拡大しようとした。

この上野国(こうずけのくに)は、信長の甲州征伐後に、織田家の家老である滝川一益(いちます)が支配していたのだが、北上してきた北条氏直(うじなお)と、6月16日から19日にかけて、武蔵国(今の東京・埼玉)で戦うことになった。

この戦いに北条氏が勝ったことで、関東地方は形勢逆転の兆しが出てきた。

家康は、甲州征伐によって、北条氏の隣国である駿河国を支配下に置いていたが、この北条氏の動きを止めるべく、再び出軍したのである。

西側では秀吉と柴田勝家、東側では家康と北条氏直が、それぞれ対立することになったのだが、ここから秀吉と家康がともに力をつけていくことになる。

次回は、4月10日である。秀吉の天下取りまで、あと8年。お楽しみに。








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