現代版・徒然草【72】(第122段後半・才能論②)

今日は、昨日の続きであり、第122段の後半である。

では、昨日の記事では紹介していなかった残りの原文を読んでみよう。

①この外の事ども、多能は君子の恥づる処なり。
②詩歌に巧みに、糸竹(しちく)に妙(たえ)なるは幽玄の道、君臣これを重くすといへども、今の世には、これをもちて世を治むる事、漸(ようや)くおろかになるに似たり。
③金(こがね)はすぐれたれども、鉄(くろがね)の益多きにしかざるが如し。

以上である。

①の文では、昨日の記事でいろいろと触れたこと以外にも、知識やスキルを身につけている人はいるが、世の中を治める君子にとって、多能は恥ずべきことだと言っている。

②の文では、詩歌を詠むことに優れていて、糸竹(=管弦楽器のこと)の演奏が素晴らしくても、世の中を治めるためには何の益にもならないと言っている。

最後の③でまとめているとおり、金はそれ自体、価値の高いものかもしれないが、鉄がいろいろな用途があって役立つことには及ばないと言っている。

私たちが生きていくにあたって、例えば、計算なんて電卓があるからできなくても大丈夫だとか、漢字なんてスマホで変換できるから、知らなくても困らないとか言う人はいるだろう。

たしかに、昔はそろばんで商売人は客に払うお釣りや売上げを計算していたのが、今やレジ打ちができれば、機械が計算してくれる。

また、手紙を書く機会がほとんどなくなり、メールの文字打ちができれば、相手とのやり取りは可能である。

でも、これは、人間が自ら考える機会を奪っているに等しく、今やChatGPTがあれば、何でも解決できると喜ぶ人も増えつつある。

一流のスポーツ選手、あるいは、その素質があってトップクラスを目指す人のように、一つの特技に人生の一部をかけて集中する人は、君子の例と同様に、他の知識やスキルなどは習得する余裕はない。かえって、時間の無駄である。

だが、専門家として生計を立てないのであれば、やはり世の中を生き抜くにあたって、幅広い教養を身につけるのは大切なことなのである。




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