20世紀の歴史と文学(1940年)

文学の話に少し触れるが、明治時代から日清戦争、日英同盟、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、第二次世界大戦を通じて、遠い海の向こうから日本を見てきた一人の男を紹介しよう。

作家でもあり、従軍記者でもあり、軍人でもあり、政治家でもあった彼の名は、1940年5月にイギリスの首相になったチャーチルである。

そして、チャーチルは戦後も長生きして、1953年にはノーベル文学賞を受賞し、1965年に90才で亡くなった。

チャーチルは、1874年に生まれたのだが、1894年の日清戦争のときは20才の青年だった。

そして、その年は、彼の両親は観光で来日しており、日本で記念に撮った写真をイギリスにいるチャーチルに手紙とともに送ったという。

チャーチルは、その写真を見て日本に関心を持った。

チャーチルが従軍記者だったときは、イギリスは南アフリカでボーア戦争に関わっていた。ボーア戦争については、ここでは詳しく触れないが、チャーチルはこの従軍経験をもとに、『ロンドンからレディスミスへ』と『ハミルトン将軍の行進』の2作品を著した。

日英同盟が、第一次世界大戦後に、アメリカの働きかけで四か国条約に代わって破棄されたことは、本シリーズでも触れたが、チャーチルは後になってこの破棄は失敗だったと振り返っている。

日中戦争のときは、日本は中国には勝つかもしれないが、ソ連と全面対決になったら負けるだろうとも考えていた。

第二次世界大戦が始まったときは、彼はイギリス政府の海軍大臣だったが、1940年に首相に就任した。

すでにイギリスは、フランスとともにドイツに宣戦布告していたわけだが、チャーチルは、日本がドイツと手を組めば、イギリスの敵になってしまうので、なるべくそれを避けようと努力していた。

幸運なことに、第二次世界大戦が勃発してからしばらくの間は、日本は不介入の立場を取ったし、アメリカも当初は中立的立場だった。

ところが、1940年6月に、ヒトラー率いるドイツ軍に、ムッソリーニ率いるイタリア軍が加勢したことで、ドイツの西側で国境を接していたフランスはあっという間に押されて、パリを占領された。

そして、フランスはドイツに降伏したのである。

この情報が日本の軍部に伝わると、日本は、東南アジアのフランス領(=フランスの植民地)に侵攻しようと戦線拡大を図った。

当時、フランスの植民地だったのは、ベトナムとラオスとカンボジアだった。世界地図を見ると分かるが、ベトナムは中国と国境を接している。

日本軍は、ここぞとばかり南進していき、アジア諸国を欧米の植民地政策から解放するのだという大義名分のもと、大東亜共栄圏の構想を打ち出していく。

この構想が具体的に文書にも明記されたのが、米内光政内閣のあとの第2次近衛内閣のときだったのである。

近衛内閣は、第3次まで2期連続して政権を担い、その後はあの東條英機が内閣総理大臣に就任することになるのである。




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