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薔薇の花弁とジャムとマドレーヌ、詩人たちと儚さについて

にんべんに夢と書いて、儚い(はかない)、と読む。
このような字と響きを知るとき、ああ、とその言葉を知った悦びが胸の中にじんわり広がるなら、あなたは日本人である。
国籍や人種のことを言っているのではなく、日本の魂を持っているという意味で。
日本語には漢字、ひらがな、カタカナがあり、日本人はその三種類の書き方によって、同じ言葉を綴っても微妙なニュアンスの違いを感じ取る。そこに英語などほかの言語の文字を混ぜることもできる。
しかし、そのような発見と学びの悦び、驚き、感覚を子供の頃、若い時は感じていたのに、いつしかなくなってしまった、あるいはそのような字に出逢っても感覚が発動しない、という状況があまりにも当然になってしまっている哀しさ。
一つの漢字、一つの言葉も無限の宇宙を内包している。
その豊かさを一生かけても学びきれないということを、多くの人は知っていても、意識することすらやめてしまう。

五月の末、或る薔薇園を訪れた。
パレットの上の絵の具のように、あらゆる色、形の薔薇が「花の女王」という名にふさわしく、空間を埋めて、咲き誇っている。
完全な形の薔薇を探して、人々は蜂のように飛び回り、これぞというものを見つけると賞賛し、写真を撮る。
完全な花と同じかそれ以上に、くずれて散り、根元に落ちている花弁に惹かれるときがある。自分は変わり者なのだろうか?

今まで長い間、薔薇を育ててきた。
苗を植えるところから、春から冬、晴れの日も雨の日も、世話をしなければほとんどの薔薇はその真価を発揮できない。薔薇は必ず応えてくれる。しかし時にはどれほど世話をしても、枯れてしまうこともある。植物にも病気や寿命がある。「不運な事故」もある。
その中で蕾をつけること、そしてとうとう開花することは、一つの奇跡と言って大袈裟ではない。

一つの花に人格を感じる。たとえばー同じ一本の樹に咲く、一つ一つの花がそれぞれの心、命を持っている。
早く咲くもの、遅いもの、大きいもの、小さいもの、形の良いもの、悪いもの、それこそ、虫にかじられたり、風雨で傷んでしまった花や咲かなかった蕾もふくめて、それぞれの感情を感じ、人生と運命を感じる。声や言葉まで聴こえる気がする。

そうして咲いた完全な花がある日突然、ばらばらっと散る。(この音を聴いたことがある)
はっとする。
その散った一枚、一枚の花弁が一つの命のように感じる。
これは桜に感じる「滅びの美」と同じものだろうか?

家人は散った薔薇の花弁を「汚い」と感じて、掃いて片づけてしまう。それらは「終わったもの」「ごみ」なのだ。
散った様子がきれいなのだから、そのままでよいのだ、といくら言っても理解してもらえない。感受性が違うのだ、という月並みな言葉で終わらせる代わりに、聴いてくれる人がいるなら、ここに書いてみよう。

私にとっては何度見ても飽きない、蕾から完全開花して、地面に花弁が散っている、それらすべてが薔薇の美しさ、完全さである。

それが自分の庭の薔薇であれば、ものによっては花弁を一枚一枚、丁寧に拾って、押し花にして本に挟んだり、手紙で人に贈ったり、乾燥させてハーブティーにしたり、ジャムをつくる。
香水に絶対的に必要な薔薇の香料は、本物の薔薇の新鮮な花弁を大量に集めて採られる。たとえ枝からむしり取られても、花弁にはそんな薔薇の生命、驚くべき力が入っているのだ。

今春は異常な多雨と強風の日があり、花弁が多い薔薇は水がたまって腐り、開花しなかったり、咲いてもすぐに散ってしまうことがあった。凍えるような冬にも手をかけてきた「庭師」からすれば、痛みを感じるほど悔しいことだ。しかしそれが自然というもの。温室の薔薇ではない。

庭の中に「ゲーテ・ローズ」という薔薇がある。ドイツの文豪ゲーテの名を冠したドイツ生まれの薔薇だ。正式名は「J.W. フォン・ゲーテ・ローズ」で、J.W.はヨハン・ヴォルフガングのイニシャルである。
ワインレッドのたっぷりした大輪で、それ自体香水と言えるほど濃厚な芳香。花弁は百枚ほどもあり、一輪でも圧倒されるような存在感がある。
すべてにおいて巨大で、栄光と恋に満ちた長寿の天才にふさわしい華やかさと重みをもった薔薇。

薫り高いゲーテ・ローズ

手元の本の中にゲーテの薔薇の詩を見つけたので、紹介しよう。

ズライカに

甘い香りでお前に媚び
お前のよろこびを高めるためには
苔ほころぶ千の薔薇が
まず炎熱の中でほろびねばならぬ。

高安国世訳
「白い薔薇」世界文化社

この詩は「西東詩集」という著作に出てくるらしい。
実はペルシャの詩聖サアディの薔薇の詩を引用したいと探していたのだが、サアディの詩の隣に、この詩が掲載されていた。晩年のゲーテは、サアディと同じく偉大なペルシャの大詩人ハーフェズと東洋に憧れて、「西東詩集」を著したのだった。このズライカというエキゾチックな響きの名前がゲーテの詩に出てきたのは意外であったが、遠く繋がりを感じた。
ズライカにはゲーテの当時の恋人マリアンネが投影されているそうである。

ゲーテ・ローズに戻ろう。
手に入れたときは貧弱な株で、いつ枯れるか、と思いながらも世話をし続けた。するとある時からぐんぐん成長し始めて、今では庭の女王と言ってもいいほどの、立派な樹になった。最初の頃は一輪咲いただけでも満足していたのが、今は一本の枝に五輪も六輪も花をつける。それは「薔薇の声」である。
ゲーテ・ローズは開花すると数日間、花の盛りを誇り高く謳歌しているが、ある日突然、その重みに耐えられなくなり、ばらばらと花弁を落とす。花が終わったのだ。
今春、ひどい風雨が来る前、或るいは翌朝などに、私は急いで庭に出て、この薔薇の根元や風で飛ばされた、まだ傷んでいない花びらを拾い集めた。まだ散った茎の下の葉にのっているもの、他の植物の中に隠れてしまったものも、かきわけて拾う。この薔薇の花びらを集めること自体が豊かな行為、時間である。

一枚の花びらの声が聴こえた
集まったたくさんの花弁 折れていた蕾の花弁もむだにしない

ここでゲーテの詩の隣にあったサアディの有名な薔薇の詩を、中原中也の訳、旧仮名遣いで味わっていただきたい。
薔薇の香りが風に乗って漂ってくるようだ。

サアディの薔薇

今朝私は薔薇を持つて来やうと思ひ
あんまり沢山帯に挟まうとしましたから
結び目は固くなり、挟みきれなくなりました。

結び目はやがても千切れ、薔薇は風に散り、
海の方までもいつてしまひました。
そしてもう、二度と帰つては来ませんでした。

彼はそのために赤くなりました。炎えてゐるやうでした。
今宵、私の着物はまだその匂ひが匂つてをります・・・
せめてその匂ひを、吸つてください。

中原中也訳
「白い薔薇」世界文化社

ゲーテ・ローズの花びらを籠に一枚でも多く集めて、その色と香りが失われないうちに、薔薇ジャムを作った。砂糖と水とレモンを加えて煮るだけだ。瓶の中にはゲーテローズの深い赤と香りが閉じ込められている。それは今、見るだけではなく、人の口と鼻に届く、美味しい「たべもの」になり、人の体の一部になり、一緒に生きる。風雨のせいで早く散ってしまった薔薇は、ただ地に落ちて、風に消え去ったり、掃き集められてごみ箱に捨てられるのではなく、新たな目的と命を得た。

このジャムを味わうために、すでにクレープ、スコーンを作った。一年にわずかの間しか味わえない、特別なものとして、家族や友人にふるまい、皆の心と体の一部になり、体験となった。

ジャムはまだある。さあ、次は何を作ろう。
マドレーヌ。フランスのママンの味。プルーストが一世紀以上前に楽しんでいたお菓子。定番で基本の焼き菓子だが、完璧なマドレーヌを作れるかどうかでプロとアマチュアがわかってしまうだろう。

たくさん焼きあがったマドレーヌ 
食べ終わったクッキーの缶に入れておけばしばらくもつ
お化粧されたマドレーヌと薔薇ジャム、クリーム、紅茶

お皿に焼きあがった貝型のマドレーヌを一つ。粉砂糖を振り、クリームと薔薇ジャムを添えた。紅茶を淹れて、庭の薔薇が見える部屋のテーブルにセットした。

最初はどうやって味わおうか?プルーストのように紅茶に少しだけ浸してみた。これはフランス人がよくやる食べ方である。

紅茶にそっとマドレーヌを浸す
下に敷いているのは南仏土産のテーブルマット

マドレーヌは見た目よりもしっかりしており、紅茶につけても崩れたりはせず、逆にしっとりと程よい口当たりになった。次にクリームと薔薇ジャムをつけて、味わう。

クリームと薔薇ジャムで味わう

このささやかなお皿と自分の口の中で、ゲーテとプルーストが出逢ったのだろうか?などと思って、一人で愉しんでいる。

私にとって一枚の花弁は一つの美、運命、力である。
それは一人の人生、命に似ていないだろうか?
儚い、しかし確かに生まれて、過酷な自然の中で花開き、必ず散っていく命。
花は毎日、毎瞬間、散り、消えていく。当たり前のことだ。
当たり前だろうか?
もう一度問う。
当たり前だろうか?

それを丁寧に見つけて拾い、永遠ではなくとも、もう少し長い命を、別の役割を与えることはできないだろうか?
一日一日、一つ一つの体験も同じこと。
それを深く感じ、記憶し、表現し、伝えること。
自らの肉体が散っても、もう少しだけ長く、この世によきものを、薔薇の花弁を撒くように。

どうして薔薇の花弁を簡単に捨てるられるだろうか?
あなたの薔薇は、あなたの花弁は何になるのだろうか?


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