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第八話 自分を信じて

コーチングの学びを深めながら、書くことの楽しさと再会し、夢中になる自分を発見した私。でも、まだそのどちらも「仕事にする」というイメージをまだ持てずにいた。

・仕事の意義や目的は?
・子育てと両立できるか?
・永く続けられる働き方は?
・起業という選択はあり得るのか?

これらの問いに対する答えを導き出すどころか、私はまだ自分の「失われた欠片」をまだ拾い集めている途中だ。当然、ただコーチングを学びたいと思って飛び込んだわけではない。それを「仕事にする」未来も視野に入れての選択だった。それなのに、蓋を開けてみれば、そこはまるで自分とは関係ない世界に思えた。この世界に馴染める自分を「演出」しなければ、その道は閉ざされてしまうのかと思うと、目の前が真っ暗になった。

ホテルのラウンジでお茶会をしたり、レストランで食事をする光景をアップするのは、私の本来の姿でも、ありたい姿でもない。だけど「経験してみないことにはわからない」そう自分を諭して体験してみたものの、こんなところで心の底から笑えない「笑み」を浮かべていること自体が、自分に対する「裏切り」のように感じられた。

形式が違うだけで、会社で肩書きをまとって自分を「演じる」ことと、変わらない。新しい道で、同じ轍を踏むのはもう嫌だった。

一体どうすればいいの?

それがわからなかった。そうこうしているうちに、育休は刻々と終わりに近づいていく。少なくとも、この方法は自分には合いそうにない。他の方法もまだわからない。その時点で「起業」の2文字は、まだ私にとって現実味がないということ。そう感じた私は、重たい足取りで、市の保育園説明会に足を運んだのだった。

「10年前は10人に1人だったのが、5年前から5人に1人になり、数年後には3人に1人という時代になります。市も"待機児童"を減らすべく、全力で保育園の拡充に取り組んでいます」

(そんなの、全然嬉しくないけどな)

正直、私にとっては、ありがたくもなんともない「努力」に感じられた「しばらくお母さんが働かなくても、安心して子育てできる。そっちの方が保育園の充実よりよっぽど嬉しいのに・・・」それが当時の私の本音だった。 

本当に世のお母さんたちは、幼いわが子を保育園に預けて「働きたい」と思っているのだろうか。私はもっと娘と一緒にいられるものならいたい。娘の成長をつぶさに感じていたいのに。 

そう思いながら、保育園の募集要項のページをめくると2歳以上の定員は「0(ゼロ)」ばかりが並んでいた。1歳で入園できなければ、復職の可能性も閉ざされる・・・。その現実を目の当たりにした私は、育休の延長をあきらめ、1歳2ヶ月になった娘を保育園に預けて職場復帰を決めるしかなかった。

* * *

比較にならぬほど短くなった娘との時間。毎朝泣く娘。1歳の娘を朝7時から19時まで預けて働く。

これって本当に正解なの?

復帰後、私は産休前とは異なる部署に配属された。それまでに経験したことのない業務だった上、そこには部下を含め、誰もやり方がわからない「新たなプロジェクト」まで加わっていた。新しい部下たちとはじめてだらけにまみれながら、一歩ずつ前進するのがやっとの日々が続く。

娘が寝ている早朝や深夜に仕事をし、合間にコーチングセッションの練習、ブログの執筆。娘が泣けば授乳やおむつ替え。何かひとつでもバッティングすれば、旦那さんに娘を頼み、娘の泣き声と時計を気にしながら、針の筵のような想いで過ごしていた。

今の状況をなんとかしたい一心で、せっかくの休日も娘と旦那さんに留守番してもらい、残り数ヶ月となったコーチングの学びも続けていた。

「答えは自分の中に」

そんなコーチングを学んでいながら、これだけ家族の時間を削っても、未だどこに向かっているのかわからないことへの苛立ち。

ねぇ、私は誰のために働いているの?
家族との時間をうわの空で過ごして

ナンノタメニ、ハタライテイルノ?

それって、本当に娘のため?家族のため?

・・・本当かよ。

フレックスに在宅勤務。子育てしながら働ける環境は充実しすぎるくらい充実していた。「ありがたいはず」「恵まれているはず」そう呪文のように自分に言い聞かせるも、娘が寝たらメールをチェックし、娘が泣いたら授乳して、寝つきが悪ければ仕事ができず、イライラした。

これが、いつでも、どこでも仕事ができるありがたい環境?

「ありがたい環境」は「だから当然、やってくれるんよな?」というプレッシャーと同意で、無言で締めつけてくるヘビ同然だった。24時間仕事を気にして、働きが悪ければ、いつでもヘビの餌食にされる。小さな檻に閉じ込められたネズミのような気分で、まるで生きた心地がしなかった。

仕事への使命感の灯火を見出すどころか、私自身がもはや消える寸前のろうそくだった。どうにかして消すまいと、目の前の仕事をするだけで精一杯。だけど、"ろう"は刻々と溶けていく。かろうじてつながっていた心の糸は今にも切れそうなのが自分でもわかる。 

家事も子育ても仕事も60点でいい。そう思って復帰したけれど、60点どころか、全部赤点じゃないか。何もかもが中途半端な自分への憤りと焦り。会社でも赤点、家族、子育ても赤点。何ひとつ突破口を見出せていない、そんな自分が嫌で嫌でたまらなかった。 

何もできていない。

何も変わっていない。

自信のなさに拍車がかかって家族にも、職場にも、そして自分にも「ごめんね」としか言えない。

気づけば、旦那さんが運転する、通勤中の車の中で嗚咽を漏らしながらひたすら泣いていた。しばらくしてから彼から

「自分を信じて」

というメッセージが届いた。
少し落ち着いた頃の私のノートにはこんな風に書いてあった。 

「私は、私を丸ごと全部受け入れてくれる人に恵まれているのに、私を受け入れられていないのは私だ。信じてよ、もっと自分を信じてよ。わたしを一番、信じていないのは、わたしだ。」

* * *

それから数日後の日曜日。娘が自分の力で一歩、二歩と歩いた。その新しい景色に、娘は目を輝かせ、夢中になって一歩、また一歩と歩みを進めていく。「自分を信じて歩く」その娘の姿に、私も旦那さんも心から感動して、拍手喝采を送り、そして抱きしめた。娘はとっても嬉しそうで、誇らしげな満面の笑みを浮かべている。

誰でも、自分を信じて、最初の一歩を踏み出した「あの日」が刻まれている。そんな娘を見ていたら「私にだってできる」自分を信じる一歩を踏み出さずにはいられない。

そんな夏のある日、私はとある「大仏」に出会ったのだった。

第九話に続く


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