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未知生死...「まだ生もわからないのに、どうして死がわかろう」

曰わく、敢(あえ)て死を問う。曰(のたま)わく、未だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん。
(先進第十一、仮名論語一四六・一四七頁)
子路(孔子の弟子)が「死とはなんでしょうか」と問うた。
先師は言われた。「まだ生もわからないのに、どうして死がわかろう」

孔子の弟子、子路に限らず、死について問いたいと思うのは、古今東西誰も皆同じである。

人はどこから来てどこへ行くのか。
聖人賢人のみならず、生あるものは必ず死ぬという理(ことわり)を知っている。

諸行無常を知るが故に、死を知りたいと思うのは人間の性なのではないだろうか。

例年、正月休みはつとめて厚めの本を読むようにしている。
それもできるだけ儒学から離れて。

オスヴァルト・シュペングラーは言う。

「動物は生を知るだけで、死を知らない。しかし動物もまた死の叫びを聞き、死骸を見、腐敗を嗅ぎ出す。かれらは死ぬのを見るが、それを理解しない。…われわれ人間が動物とちがって、世界観として有しているものから出てくるところは、確かに死の認識である」

(『西洋の没落』より)

人間だけが認識する死、その死を感じた刹那に不安や恐れを持つ。

自らの絶後となる死というものに対する怖れが、宗教や哲学、
ひいては科学を発展させた。

大戦前の日本で、大川周明や平泉澄そして安岡正篤が、
東洋文化から日本精神を論じたように、
ドイツではシュペングラーが、世界の歴史と文化からドイツ哲学を論ずる。

どの民族にも誇るべき固有の神話があり、民族の歴史があり、文化がある。

孔子は「未だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん」(先進篇)と、
死の問題よりもまず”生”、現実の人生の問題を考えよ、と弟子を諭される。

道元も言われた。

「生(しやう)といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生(しやう)きたらばただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ」

(『正法眼蔵』生死より)

確かに、生きる刹那刹那を大切にしなければと思う。
「いま、ここ、ただいま」が大事である。

自他ともに「いま、ここ、ただいま」が大事なのである。

国民の生を一顧だにせず、ミサイル発射をする独裁者にも死は来る。

国民の死さえものともせず、侵略戦争をする独裁者にもまた滅が来る。

一己の死も認識しているだろうし、
他者の死ももちろん認識している筈である。
そう、人間であるならば。

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