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「あなたの手を、絶対に離しはしない」という覚悟。〜愛が包む存在の意味〜

今回初めて参加させていただく「お茶代」サークル、2月の課題はこちら→https://note.com/waganugeru/n/n512dae00e009

(この記事は上記サークルに寄稿するものです。)


Abstract

・他者理解における愛の限界
・他者の犠牲によって生まれる愛の肯定
・「祈り」という愛
・新しい愛の形とマモルくん
・「人生は絶えざる幻想に過ぎない」

「J-POPマモル(まもる)君」の歌詞が象徴するところは、人の悲劇的アイロニーである。しかし、それがアイロニーである限り、私たちは希望を見出すことができる。その悲しみと、そこから産まれゆく希望としての新しい愛の形をマモルくんとともに探し出していきたい。

論理的誤謬や浅薄な議論に終始している点は、ぜひ読者各位の皆様からのご批判を賜りたい所存です。

『愛について』今道友信(講談社現代新書)[絶版]

この本が出版されたのは今から半世紀以上も前のことである。
幾年の歳月が過ぎ、愛に対する人々の知性、洞察はまた大きな進展を見せた。それでもこの本が示す現代における愛の形、その位相についての研究は決して時代遅れではない。ただ、残念ながらその主張の一部にはジェンダー問題や、女性の社会進出の現状といった現代の諸課題に対応するだけの深みを持たないものや、読者から性差別と受け取られても仕方のない表現がいくつかみられる。
このnoteを書く際は、決してこの本を底本にする気はなかったのだが、あまりに文中の引用が今道のそれと酷似していることや、文意とその論理展開に、特に拙文の前半において大きな相関があることを筆者自らが感じるため、この本をまず最初に紹介することで、剽窃の誤解を避けるとともに、著者に敬意を表するところである。ただし、愛の倫理についての議論や愛がもつ垂直的永遠への投機可能性などは今道の論ずるところではない。(もちろん筆者自身が彼の論に影響を受けた結果の論ではあるのだが)ここは筆者独自の意見として分けて考えていただければよいと思う。

書き出し。

 思えば書き出しほど、作家がその精神をすり減らすものもない。書こうとするテーマに対して、作家が誠実に、純粋になろうとすればするほど、書き出しはより慎重を期すべきものとなるし、それにつれて悩める作家の精神もどんどん重苦しいものになってゆく。平時は近所で子供の騒ぎ声など聞けば、「元気でよろしい」などと呟いているにも関わらず、いざ創作となれば、木の葉のかすれる音にさえも「ウルセェバカヤロー」と怒鳴りつけてやろうかという気持ちにすらなってしまう。平時と書いたが、創作活動はその点でいえばいわば戦時である。要は全世界が敵となってゆくのであるが、もしそんな窮状を引き起こすテーマが、作家ですらない未熟なこの筆者にでもあるとすれば、それは「愛」についての考察である。愛が持つ力は計り知れない。それは人間の領域、人の範疇を超えたところにある。われわれ自身の営みであるはずのところの愛が、われわれ自身が到底理解の及ばない場所にまで飛翔するという事実は、われわれが自ら生み出したはずのテクノロジーに情けなくわれわれ自身が付き従っているこの現状と、何か重なるものがありはしないか。こう振り返って、人類全体を一つの人格としてみなしたとすれば、その人間性はかなりだらしのないものであるように思えてならない。

 しかし、それでも愛は偉大なものである。それは家族愛とか異性愛とか隣人愛といったような分類を超えて、愛という存在そのものに目を向けたときに理解される。不安定で支柱なき現在を、存在あるいは世界そのものとともに包み込む愛は、実存にとってこれ以上ない生の恵みとなる。われわれはいつだって自分自身の存在に不安を持っている。それが日常的に実感されるものであるかどうかは、人それぞれの人間性に関わるものであるけれど、何か集団に属すことに幸福を覚えたり、「推し活」に人生を捧げようとするのは、やはりわれわれが、われわれという実存そのものに対して不安を抱えているからではないだろうか。 
 というのも、いわば一匹狼のようにして生きることも、現実的には不可能ではないのである。世捨て人とは言わないまでも、生活に困らない程度のコミュニケーション、世間との最低限のつながりを保ててさえいれば(要は新聞やニュースを軽く眺めてさえいるだけで)、世の中で何が起きているのか、それが自分とどう関わりがあるのかということは十分に理解されてくる。逆に言えば、それさえできていれば困ることはない。確立されたシステムの中で我が身とともに生きてゆけばよいのである。しかし究極的には、実際にそんなことができる人はごくごく限られているだろうし、もはや存在しないと言ってもよいのではないだろうか。なぜなら、数多くの文学の傑作たちが証明しているように、人付き合いに乏しい実存ほど、一度魔性の人格に出会えば、身を壊すほどの悲劇に見舞われること限りないからである。

 こうした実存の在り方について考えるとき、読者各位の頭に浮かぶのは、あのアリストテレスの金言「ゾーン・ポリティコン」ではないだろうか。
「人間は自然によってポリス的動物である」(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』より)という言葉の通り、われわれは他の実存と関わることによってしか生きてゆくことができない。それはやはり集団に属するということが、人間にとって我が身の不安を癒す最も手軽で簡単な方法の一つだからであろう。理由もないのに旧友になぜか会いたくなったり、たまには近所の人に挨拶でもしようと「おはようございます」と言って華麗に無視されたりした経験を持つ人は(後者に関してはいないことを望むが)いるのではないだろうか。こうして、われわれは集団に属したり、他の人と関わろうと試みる涙ぐましい努力によって、一時的であれ、実存の不安から逃れられうるのかもしれない。

 しかし、それは実存の不安から完全に抜け出すための十分な方策ではないと筆者は言いたい。なぜなら、集団に属することとはいわば社会への正義を果たすことであり、主体となる自己が社会という対象に対して一方的に働きかけるだけの運動に終始してしまうことが多いからである。例えば選挙に行って、有権者としての意見を投票という形で表現したところで、実際に投票した候補者が当選するとは限らないし、そもそも残念なことだが、候補者が公約を守る保証もない。また、誰が誰に投票したかなどは誰にもわからないのだから、投票してくれた有権者に対して、当選者はとても曖昧なイメージを抱くことしかできない。「おそらくこのような政治を望んでいる人が多いから、自分が当選したのだろう」という分析のみが可能であり、投票してくれた人の人間性に直接触れることができない。これは現在の民主政治の一つの限界であり、それを補完するための様々な方策があることは承知しているけれども、今道友信が「愛は正義の終わるところから始まる」(『愛について』)と書いたように、社会的義務が実存の不安を慰め、補うことはできないというのが本当のところではないだろうか。
ではわれわれは、ついにこの不安を乗り越えることができぬまま、人生を過ごしてゆくことしかできないのであろうか。決してそうではないと思う。
いや、究極的にはそうであったとしても、われわれにはまだ残されたものがある。そこで次は、その一つである「愛」の可能性について論じる。

愛は存在を包む

 なぜここでわれわれは愛を問題とするのか。それは愛が実存の現在を保証し、世界の存在そのものを時間とともに包み込む、高次の存在となる可能性を秘めているからである。愛は歴史上多くの哲学者や宗教学者によってテーマにされてきた概念であり、その分類も多岐に渡る。しかしここでは、そのような愛の種類を丁寧に腑分けしつつ分析していくのではなく、愛が持つ志向性それ自体に着目して議論を進めていきたいと思う。

 われわれは弱い生き物である。常に他者の存在によって生かされ、脅かされ、実存としての自己を自由気ままに決定することができない。何がわれわれの存在を根底から保証してくれるのか。何が過去、現在、未来が「これからも存続すること」それ自体を確証してくれるのだろうか。
あなたは、不安に思ったことはないか。「今、私はなぜ生きているのだろう。この瞬間はどうして存在しているのだろう。」と。こうした不安の根底にあるのは、存在そのものの不安定な存立自体にある。
思えば、われわれが見ることができるのは、過去と未来だけではないだろうか。なぜなら、過去は記憶として存続し、未来は予測としてわれわれの内で存在するが、他でもない現在を記述し、理解し、観測することは、実存にとっては限りなく難しい。皮肉なことに、最も身近で確実に「ある」はずの現在ほど、実存にとって不確かなものはない。ハイデガーが主張したように、実存の本質は空間ではなく、時間にこそ内在することも同時に想起されてくる。このようにわれわれは、現在というその時間的存在を認識出来ないがゆえに戸惑うのである。「今を生きる」とよく言うが、これを実行に移すのは「今を生きる」ことの目的そのものの達成よりも難しいことになるというのは、かなり悲劇的なアイロニーではないだろうか。

 しかし、ここでわれわれは、これまで考えてきた「現在」の不確実性を前提とした上で、高橋里美が「愛は、意味を包む存在と見ることもできるし、存在を包む意味と見ることもできる」(『体験と存在』)と主張したことを思い起こすべきである。氏は、愛は意味となることによって存在を確定し、その実存条件そのものとなるだけでなく、存在となることであらゆる価値・内容を傷つけることなくそのままに内包することができるというのである。ここにひとつの愛の可能性が提示されたが、しかし、本当に愛は実存の不安を超克する鍵になるというのか。本当にそうであろうか。

 ゲーテ『若きウェルテルの悩み』の主人公・ウェルテルは、決して実を結ぶことがない思慕によって、その情熱的な青春を自殺という形で終える。ヘッセ「知と愛」は、少年・ゴルトムントの若き日の愛欲の目覚め、性を通じた若き他者との交じり合いを描くことを通じて、いかに青年期の衝動が未熟な実存の精神的成立を阻害し、破壊してしまうものなのかを西洋的=キリスト教的解釈をベースに訴える。なるほど、愛は他の存在を希求するものであると同時に、存在を破壊するタナトスともなる。こうした文学史上の傑作が描く恋愛悲劇たちは、われわれに自己の精神的涵養の重要性を痛感させるし、事実こうした作品が世で持て囃されるのも、ある意味ではわれわれの根源的な恐怖心=「愛がもたらす存在の危機」に根付いていると言っても過言ではない。われわれは常に他者に脅かされるだけでなく、自らの根底にもまた自己を、あるいは他者を破壊しうる恐ろしい爆弾を抱えているのである。

 しかし、他者を思い、他者のために自らを捧げようとする力であるはずの愛が、なぜこのようにむしろ実存そのものを傷つけようとする力に転変してしまうのであろうか。ここで着目すべきことは、先の通り、愛が望むと望まずにかかわらず、それ自体で存在を包み込む意味となっていることである。人はそれゆえに愛によって傷つき、愛によって救われる。愛が意味として人生を保障してくれたその瞬間は、人の大いなる光悦である。しかし自己を決する愛が破滅した瞬間は、人の耐え難き苦難となる。人がこの世に存在するための確証となるのが愛であり、その承認は人の変わることなき願望である。このように愛の大きさゆえに生まれる実存の劇的な変化は、愛が実存にとって限りなく巨大で、想像の域を超えた存在であることを示唆する。それだけではない。逆説的には、愛は人に関わるあらゆる事柄、あらゆる事象の背景をそっくりそのまま包み込みさえするのである。これをより平易に理解しようとすれば、私は動機と帰結をセットにして考えてみるのがよいと思う。愛が意味を包む存在となる時、それは動機(例:全ての価値内容は愛から始まる)となり、存在全体を包む意味となる時、それは帰結(例:何もないところに愛があった)となる。このように愛の展開を理解すれば、愛は生涯の始まりから終わりまでを保証しようとする、時間的超越性を獲得しているといっても過言ではない。

 また、ここでわれわれはもう一つの時間、カイロスにおける愛の位相を考えることができる。これはごく一般的に理解されていることであるが、愛が愛である限り、それは対象をもつ。対象が存在するとき、われわれは他性を感じ取るとともに、自己の独立、自己の自律を意識する。永遠であり停止であるこのカイロスの時間には過去としてのコンテクスト、または未来としての意味はなく、このような時間において過去や未来といったものは欠落している。ただ永遠のみがあるのであるが、われわれはこうした時間においても愛が実存を保証することを理解できる。なぜなら愛が命令となる時、そこにコンテクストは必要ないのである。ただ「汝愛せ」という命令によって存立する愛は、実存の周囲に、あるいは内部に永遠とともに生まれ、永遠とともに消える。愛は他者としての対象を把持し実存に対象を認識させるものである以上、愛によってわれわれはわれわれ自身を永遠の中で主体として認識することができる。それは持続でもなく断絶でもない。いわば愛によって垂直的に時間が止まり、実存が永遠(カイロス)に投機される時、こうして愛は実存を保証し、われわれは時間軸を問題にせず直ちに愛によって現在を生きることができる。このように考えてみると愛はコンテクストなき時間の中でも実存の現在を完全な形で包み込むものであり、実存の不安を取り除くことのできる可能性を秘めていると考えることはできないだろうか。こうして愛はこれらふたつの時間の両方においてもその機能を果たすことができる存在であるということが言えはしないか。
 こうした意味合いで愛を理解しようとする時、われわれは愛の持つ力の大きさゆえに、その存在そのものに慄くのである。「愛ゆえに世界が変わってしまう」(『パンセ』)とパスカルは記したが、不安定な現在を世界あるいは存在そのものとともに包み込む愛は、その存在の大きさゆえに、人にとって代え難いよすがであり、われわれはそれに息を飲む。

 これまでで、愛がわれわれにとっていかなる価値を持つものであるかが理解されたところであると思う。果たしてわれわれは、愛の上に実存の不安を乗り越える可能性を見つけ出すことができた。
ではこうしてわれわれは、愛によってこの世界でいち実存として十分に、少なくともその存立自体に関しては、支障なく生きていけるだけの論理的基盤を得たということだろうか。確かに以上の議論を振り返ってみれば、愛が持つ狂気、その魔性にさえ気を遣っていれば、愛は実存にとって、存在の質感を補完する機能を果たせるように思われる。事実、多くの文学作品や詩の中で愛ゆえに生き、愛ゆえに死んでいく人々の営みが描写されていることを鑑みると、愛が人間にとって決定的な価値をもつものであることは容易に理解される。書くまでもないことだが人間が人間である以上、先に示した通り、このように実存の不安を取り除く何らかの可能性が提示されたのであれば、人が今それをさらに敷衍して、現実に応用しようと試みるのは必然であろう。そのような立場の上で、われわれはそのような愛の力を、どう現実の生活に展開していくべきかをまた考えなくてはならない。しかし、その問いの先には、愛に限らず全ての人間が持つ絶対的限界、そして愛がゆくゆくは実存を毀損する現実が待っている。これを次に論じる。

不完全

 思えば人間とは不完全な存在である。無思慮、無配慮ゆえに簡単に人の価値観や大切なものを毀損してしまう。約束を忘れてしまったり、意図せぬ過ちであるとしても、許されざることをしてしまったことは誰にでもあるのではないだろうか。私もこの文章を書いている夜、すっかり忘れていた約束に、はたと気がつき謝罪の連絡を送った。それを自覚して反省するのであればまだよいが、このような過ちの発端は往々にして主体である自己がまずその過ちについて深い認識を持ち得なかったことにあることが多い。「人が悪を為すのはそれが悪だとまだ知らないからである」とアテナイの哲学者は言ったが、まさにその通りである。こうした不完全、いや欠点だらけのわれわれが愛や正義といった観念について真面目に考えることにどれほどの意味があるのかと思う時もある。しかし、孔子が「子曰わく、人の過や、各々其の党に於いてす。過を観て斯に仁を知る。」と伝え残した態度は、まだこの穴だらけのわれわれにもやるべきこと、残された努力の余地があることを予言しているようでならない。たといそれが永遠に終わることのない道程を突き進むことになったとしても、それでもそれこそが、われわれが精一杯に生きていくための必要条件なのである。ただし、これから論ずるように、人には人の限界がある。これはいくらテクノロジーや哲学が進歩しようと決して乗り越えられない壁である。そのような壁に対峙した時、人はまた過ちを犯す。こうした人の不完全さを慎重に注視しつつ、われわれは時には大芝居を打って自説を展開し、それを生活にまで展開してゆかねばならないのだ。中庸とは難しいものである。しかしそれがこれまで哲学の営みの中心であり続けてきたことは、心に留めておかねばなるまい。

甘えとしての愛

 愛は時間的超越性を獲得し、実存を包み込む概念として理解された。しかし、こうした愛にわれわれは何か甘えを感じはしないか。これは今道が強調したことであるが、愛が意味であれ存在であれ、それはわれわれの実存の事柄を全て包含していく。いわば、決して見捨てることのない慈愛の母のようなものであるとも言える。動機も帰結も全て「愛」と断言してしまえば、われわれの価値観や行為はすべて愛ゆえに正当化されることになってしまう。愛による正当化はいわば人の甘えである。今道は「神は死んだ」というニーチェの言葉をキリスト教の神の愛の批判と捉えるが、それも結局は愛が持つ甘えのためなのである。互いを赦し合うということは、他者あるいは自己の過ちを認めつつも、神の名の下に実存の過ちを即時に消去してしまう。このように、いわばエロースのような上に上に向かっていく愛の形態ではなく、神の愛が常にトップダウンであることはニーチェにとっては違和感を感じることであったのだろう。このように、人は愛ゆえに様々な過ち(暴力、暴言、妄執など挙げればキリがないが)を犯し、愛によって倫理を放棄してしまうことがある。しかもそれはしばしば「愛のため」であると正当化されてしまう。こうした愛の倫理の問題が議論の中で取り上げなければならないことは明らかであろうが、一方ここで銘記しなければならないのは、今道も論じえなかったことであるが、このような行為の元(あるいは結果)は愛の持つ甘えにのみ由来するだけではなく、われわれの他者理解の限界にも由来するという点である。どういうことか。

愛の限界

 パスカルが「われわれは自己の外にあるものを愛しえないがゆえにこそ、われわれの内にあって、しかもわれわれでないところの存在を愛さなくてはならない」(『パンセ』)と語るように、人の愛は自己愛=ナルシシズムを通過し、それを意識しつつ他者に至るところに本質があるのであり、決して勝手気ままな自己の判断が甘えとしての愛に結ばれることがあってはならない。なぜ人は恋焦がれるのであろうか。それは想い人だけでなく、我が身もまた恋しい存在であるからである。すでに見てきたように、愛を通して対象を認識するわれわれは、間接的には他者によって自己を保証しているようにも思える。書くまでもないが、それは他者の存在を自己の存在の証明として扱っているということである。
 しかしここでわれわれは、われわれ自身がどのように他者をまなざしているのかということをまた思い起こさねばならない。
われわれは他者を自らの内にしか見出すことができない。世界がわれわれにとって受容しやすく、自己を包含しているように見えるのは、それはわれわれが世界をわれわれの内に包含しているからである。われわれは世界にわれわれの影を見ているに過ぎない。全て見える人、もの、存在=世界はわれわれ自身であり、われわれの内部にあるのである。
われわれが他者をまなざすとき、われわれは内部に、所与の情報から他者を再構築する。しかし自明であろうが、われわれが知り得る他者に対する情報とは限りあるものであろう。これはよく一般的に理解されていることである。というのも、われわれは外交やビジネスの世界において、情報を収集しいかに他者の内在的論理を掴むかということに集中して、他者の存在を自らの内部にできる限り正確に再構築し、また自らが他者に対してうまく立ち回れるようにしている。こうしたいわばインテリジェンスの領域では、このような他者理解の構造自体が前提となって存在している。しかし、書いてみれば凡庸であるが、愛はいつしかわれわれから、こうした他者理解の構造を忘却させてしまうのである。
それは愛がもつ志向の力ゆえなのである。筆者はここでプラトンの緻密な愛についての対話篇における議論を詳述しようとは思わない。しかし、エロースとしての愛は、自己に常により高度な存在へと自らの愛の志向性を高めさせることを要求し、自己に愛の階段をひとつひとつ登りながら、理性によってイデアへと到達させようと試みる。この営み自体はエロースがいかに高度な状態、高度な理解を求めるものであるかを示しているようでならない。
また、愛は、まさしく平凡な表現である、強いものなのである。愛という一種の恍惚、存在の高みを覗き見るような経験とは、実存にとって計り知れないほど巨大なものとなる。こうした愛に身を任せ、愛とともに実存が他者を求めようとするとき、われわれは他者理解の限界を忘却あるいは捨象してしまうのである。なぜなら真理を求めようとする力であるはずのエロースは、それが高次な次元で語られる時は別として、まだ他の実存にのみその力を向ける時、やはり愛ゆえに、人は他者を自らのなかで完全なまま再構築しようとしてしまうのである。しかしこれまで見てきたように、愛だけではなく人間の他者理解、認識そのものの構造に限界がある以上、われわれは他者をむしろ侵害してしまうとは言えないか。なぜならわれわれにとっての他者とは、その本来はわれわれの外部にあるにも関わらず、われわれは愛ゆえにわれわれの内部にある他者を外部の他者と変わることのない存在であると錯覚する。いわゆる痴話喧嘩というのもこうして始まるものである。しかし、書いてみればあまりに当然のことであるのかもしれないが、果たしてわれわれはこの事実を十分に理解し、生活に活かすことができているのだろうか。私はそうは思わない。

「推し活」が捨象する他者

 「推し活」なるものが流行しているのは、やはりアイドル、それも2000年代からのブームに煽りを受けてのことであろう。その営み、各々が好きなアイドル=他者を全身全霊をかけて応援しようとすること自体は、精神の美しさを感じはする。自己だけではなく、他者を応援=他者の幸福を願うことで自らもまた他者を応援していること、これはもう愛と言ってよいだろう、他者を愛していることを自覚できる。まさに相補的な関係である。こうした愛の形は、記述してみれば美しく、尊いものである。しかし、ここでわれわれは先に見てきた議論を想起しつつ、その構造をもう一度観察し直すべきではないだろうか。なぜならそこでは、もはや書くまでもないのかもしれないが、人の限界が忘却されているのである。
一体誰が、「推し」という一人の実存の全てを理解していると言うのだろうか。われわれはそもそもわれわれ自身ですらよく理解していると言えないのに、われわれはどのようにして「推し」=他者のことを理解していると言えるのだろうか。なぜここで他者理解の問題が引き出されてくるのかと疑問に思う人もいるだろう。これは「推し活」という愛の形態の構造を観察してみれば判然とすることである。われわれはその「推し」に対して限りのない愛情を注ぐ。「推し」が例えば新しいアルバムで大幅なイメージチェンジを図ったとしよう。健全なファンダムの中では、おそらく「推し」がどのような変化を見せたとしても、ファンたちはそれを肯定するのであろう。それ自体はとても素晴らしい愛であると言わねばなるまい。しかし、その肯定、愛の中で、ファンたちがまなざしているのは、結局のところアイドルの「今」だけなのである。どういうことか。こう書いてしまうと、まるでファンたちが過去の「推し」の姿を否定しているような物言いにも聞こえる。しかし、筆者が言いたいのはそういった過去の否定とか過去を毀損するようなことではなくて、そこにコンテクストがないということである。結局われわれは「推し」の表層しか見ていない。ここで、ぜひ読者各位にファンたちがソーシャルメディアで「推し」たちが投稿した画像に「いいね」をしている瞬間を想像いただきたい。フィードに流れてきた「推し」の写真たちに、まさに水のように「いいね」を押していくファンたちの姿はもはや「推し」がどんな存在であったとしても全て受け入れるという風な、慈愛の母のような態度である。しかし、考えてみなければならないのは、果たしてソーシャルメディアにどれほどのコンテクストが存在しているのか、ということだ。コンテクストというのはいわば過去であり、一つの体系のようなものである。読書中に、われわれが文意を理解する時、そこには必ずコンテクストがある。コンテクストがなければ、ただの文字の連なりであり、意味というのは存在しえない。これを先の例と対比してみてはどうか。「推し」の写真を見たファンたちが「いいね」を推しているというその行為は、いわばコンテクストなき世界の中で愛情を「推し」に注いでいるということである。銘記しておかねばならないのは、これは先にあげた「カイロス」における愛とはまた異なるものであることだ。というのも、カイロスにおける愛が垂直的な永遠の中で、世界ごと実存の全てを包み込むものであるのに対し、ソーシャルメディアにおけるコンテクストなき愛というのは、実際は愛を向ける主体であるファンたちの内部でコンテクストが意味として生成されているに過ぎない。ある一つの写真、一つの動画といったものそれ自体にコンテクストはない。いや、例えば新しいアルバムのプロモーションとしてシリーズ化された動画や画像といったものをまなざす時には、あたかもそこにコンテクストが存在しているように思える。しかし実際にそこにあるのは、一種の論理的つながりというか、無限なる他者の深みを持たないコンテクストなのである。もう一度読書を例に挙げて考えてみたい。われわれが読書をするとき、われわれはいわば自己の全体を書籍の中に形成された世界へと投機する。その世界とは、他者の思考そのものである。それが小説であれ、エッセイであれ、哲学書であれ、そこには他者の他性がある。それを丹念に腑分けし、ああいうことか、こういうことかとウンウン言いながら文意を読み取っていくということに読書の楽しみ、あるいはその無限が垣間見える。しかし、「推し活」にはそのような無限というのは、存在しないといってよい気がする。それは愛がもたらす忘却に由来するだけでなく、ソーシャルメディアにおけるコンテクストの不在ということにも端を発する。「推し」に対して愛情を注げば注ぐほど、われわれは次第に「推し」の他者性を忘却してゆく。それだけではない。コンテクストなきソーシャルメディアの世界では、われわれは内容の表層のみしか捉えることができない。これは絶対的な構造上の限界である。もしそこに、「推し」のそのままの実存を投射してみれば、その構造はどのように映るであろうか。「推し」といっても人間である。その写真、その動画を撮影した背景には言葉では表現することのできない様々なものの集合がある。思い出、感情、不安、幸福、もはや名前もつけられぬ「何か」が、それは全ての実存が抱えているように、そのコンテンツの裏に隠れている。それなのに、われわれはそういった「他者性」を想像しようとせずに他者を自らの内に再構築してしまう。そうして自己の中に実った「推し」というのは、いわば自己そのものである。自己のコンテクスト(例:今までの経験からみた「推し」の自分にとってのイメージ)に沿って構築された他者とは、それはもはや他者ではないのだ。自己によって形作られた、他者の人形なのである。これは何か人の悪を感じはしないか。「推し」が一人の人間として存在しているといのに、われわれは愛=「推し活」という題目のもとに、「推し」を自らの中で勝手に再構築し、しかもそれに全く気づかないでいるだけでなく、こうした行為を自らの実存の慰めとしてしまうでのある。先に「推し活」は相補的な関係にあるといったが、こうしてみれば、その実際は全然非対称である。「推し」は自己をコンテクストなき世界の中で表現するしかなく、それも結局はファンそれぞれの世界の中で再構築され、自己の永遠性を知らしめる手段など他になく、ただそのままに自己を表現していくしかない。何ということであろうか。そして、たまのコンサートで「推し」たちをその目で直接にまなざしたファンたちが、「推し」の見せる他者性が、自分達の中で再構築された「推し」のそれと異なっている瞬間を見ると、それに初めて慄き、その慄きを、またコンテクストなきソーシャルメディア空間に呟くのである。何といったらよいのだろうか。

漱石が知っていたこと。

 このようにして、日本人として愛の限界について論じるとき、『こゝろ』のほかに適当な例を持った作品は少ないかもしれない。漱石が西洋的な罪の価値観を提示した今作であるが、その読解にフェミニズム的視点からの観察が近年興隆を見せていることは読者各位に想起されるだろうか。押野武志は登場するキャラクター「静」に焦点を当てた上で、

そういえば、漱石は、青年・先生・Kには固有名を与えず、静には与えた。
先生は、Kと乃木将軍の死を模倣し、青年も先生の生き方(死に方)から何かを学ぼうとした。
青年の「私」は遺書のなかの先生=「私」に似ている。
しかし、静は、何も模倣しない、固有の存在である。
だから、彼らにとって静は、理解不可能な他者なのであった。
男たちの解釈体系からすり抜けてしまう静を描いた漱石は(本人の意に反して)十分にフェミニストである。

『静は果たして知っていたのか』押野武志, 『夏目漱石『こころ』をどう読むか』より

押野が、静というキャラクターの「男たちの解釈体系からすり抜けてしまう」ことに焦点を当てることができたのは、漱石文学がいかに多様でかつ深い人間への洞察を持っているか、ということを象徴しているようでならなう。蛇足かもしれないが、優れた文学は万に通じるだけでなく、時間を超えて人々に届いていくのである。
さて、このような押野の指摘は、いわゆる一般的な『こゝろ』の解釈の視点とはまた一線を画したものあるのは直ちに理解されるであろう。
『こゝろ』では、「先生」と「私」の対話を通じて、若き日の先生の暗い過去、「K」との悲劇が語られる。結局「先生」にとって「K」という存在は愛敵であったし、裏切り難い親友でもあったのだが、筆者にはどうしても漱石が描いた悲劇の円は一重のように思えないのである。というのも、漱石は押野らが指摘するように静という実存の悲劇をもまた描いている。これはフェミニズムを基盤として「解釈体系」から外された静という女性が、男たちに十分には理解されず、男たちの目線の中で操作され、一方的なまなざしを受けることの非対称性を表現しているともいえるが、同時に実存、もっと平易な言葉を用いよう、われわれ人間が決して乗り越えることのできない壁を示唆しているとは考えられないだろうか。
やはり「K」も「先生」も静が他者として自らの外部にあることを、愛ゆえに忘却してしまった。 「K」は自殺する。それは「先生」が静を求めるがゆえに生まれた悪、その上での彼の苦しみをもたらした始まりであるが、自分=静を愛しているがゆえのためと考えているにも関わらず一度として「K」も「先生」も静の外部性を意識してくれなかった、ということを静は感じ取っていたとすれば、「先生」は「K」の自殺だけでなく、静に対しても二重の悲劇をもたらしているようにも思えてくる。「先生」も「K」も求めていたのは、自己の中にある静であって、静自体をまなざすことは、果たしてできなかったのかもしれない。

諦念について

 その一方で、私たちは長きにわたって「真実の愛」「破滅に導くことのない永遠の愛」をずっと想定し続けてきた。自己の内奥にある暴力性を抑えながら他人を可能な限り尊重し、互いを傷つけることのない愛、愛することそれ自体が幸福への階段となるような愛が必ずあるはずだと信じてきた。そこにあるのは、他者に対する想像力、いわば倫理である。「私とあなたがいつまでも幸せでいられるように何ができるのだろうか」という問いかけは人類の永遠のテーマではないだろうか。そんな持続的な幸福を求める思いが積み上がった結晶が、哲学であり、多種多様な宗教教義であるのだと思う。人類の知性の成果は、まさにこの対人関係にこそ注がれるべきものであったし、これからもそうである。
しかし、これまで見てきたように、人はいずれ愛のもとでは他者を傷つけ、愛は一方的な非対称性の中で自己のみを肯定しようとする自己本位にいずれ変容してしまうという事実は、特に今のような時代の中では愛がむしろ避けられるべきものとして捉えられ、主体的かつ能動的な他者との関わり自体が忌避されるべきものとなる。確かに、われわれは自由を理由にして、他者との関わりをあえて避けるようにふるまったり、むしろそうすることが、他者をできる限り尊重して、お互い幸福のもとに生きていくことができる方法だと知っている。こう書くとまるで筆者が愛の多様な形を否定し、伝統的に(日本においては家父長制に象徴される)理解されてきた愛の形態のみを認めているように思われるかもしれないが、決してそうではないし、むしろ前者を肯定する人間であるということをぜひご理解いただきたい。筆者の周りにも、夫婦で別居婚をして無事立派な子供を育て上げた人たちがいるけれど、彼らは至って幸福そうだし、実際幸福であるという。私から見ても彼らは幸せそうであるし、それにとてもいい人たちであるから、実に愛の形、人の生き方というのは多様であるか、そしていかにその多様性が素晴らしいことであるかということを、筆者は理解していると自負している。そう理解していただいた上で申し上げると、端的に言ってしまえば、彼らのようないい人たちでない限り、われわれは時として愛そのものを忘却してしまうことになりかねない。そうなってしまえば、これまで愛が担ってきた実存の不安を取り除く機能も失われる。われわれは愛の結末を見たためによって、愛を忘れるのである。
身近な例を挙げれば、高校の教科書には鴎外の『舞姫』が掲載されている(実際には文科省の教育改革によって『舞姫』が載らない教科書が多数になるのだが)ことが多いが、あれを読んだ人はやはり愛の持つ結末、愛の依存の形がもたらす悲劇がいかに悲惨なものかということを理解するだろう。そこで、教科書なり板書なりには鴎外の「諦念」という言葉が書き記されていて、こうした愛の悲劇を予感するがために、鴎外は「諦念」を持ってして愛を忘れることを唱えた、という説明が後に続く。(筆者の場合はそうであった)
こうした鴎外の「諦念」は、愛がもたらす実存の危機を回避する唯一の手段であるように思えてならない。愛がために傷つくのであれば、そもそも愛さなければいいのである、と。

祈りについて

 ではこうして愛は終焉するのであろうか。
もはや袋小路のような愛の行く末を鑑みれば、それも無理のないことであるもかもしれない。もはやここまでの愛の可能性について論じた後、愛についてこれ以上思考を巡らすのも億劫に思えてくる。
しかし、それでもわれわれはまたここで、新しい愛の可能性をもう一度探し出してみはしないか。それは次のようなものである。

飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば
君があたりは 見えずかもあらむ

元明天皇(持統天皇という説もあり)万葉集, 巻一, 七八番歌より

 元明天皇が遷都にあたり、明日香の里に別れを告げて平城京へと向かう道中に詠んだ歌であるという。草壁皇子、文武天皇が眠る明日香(飛鳥)の地こそは元明天皇自身にとって忘れ難い地であると同時に、その別れを惜しむにあたって、二人に自らの遷都を伝え、もう会えないことの悲しみを表現する。
ここでわれわれは、もうこの世にはいない死者に対してこのように別れを惜しむということ、そしてそのような愛の形について考えてみなくてはならないことがある。それは、愛の対象である他者はもはやこの世に存在しないにも関わらず、愛が成立しているという事実である。しかし、これもやはり当然のことであるかもしれない。なぜなら、すでにみてきたように、愛は他者を自らの中に再構築し、内在させることで初めて可能になる構造を持っているのだからして、もういない死者を想うということも、それはやはり愛がもつ構造=本質的な他者を必要としないことに由来する営みであると考えられる。それでは、われわれはここに、何も変わらない愛の限界を読み取るだけなのであろうか。筆者はそうは思わない。

 既にもうこの世にはいない人を想うということ、それは今までわれわれがみてきたような愛の形とは根本的に異なる点がある。それは、そこには永遠の他者が存在しているということである。どういうことか。
われわれが既にいない人々、去った他者に対して愛を注ぐとき、そういう時はわれわれは内に他者を形作っているのであるが、同時にわれわれの中で、他者は「無限の可能性とともに」持続しているのである。われわれは他者がこの世から去った時を想起すると同時に、他者が生きていた現在を構築する。国学者たちが提示したように、それが内部からであれ、外部からであれ、われわれは既に去った他者を想う時は、そこでは常に現在を前提とするのである。祭りとともに今を生きる人々が祖先たちを呼び起こし、祖先たちに現在の彼らの状況、祖先への感謝であったり、未来への希望を伝えるということは、それは結局過去にも未来にも「われわれは持続している」という実感ゆえにあるのである。そしてこうした実感、こうした去りゆく他者を想う愛の形を、われわれは「祈り」と呼ぶのではないか。
それが祈りであるならば、われわれはそれをもっと身近な生活において=現在に生きる他者においても展開することができる。
祈りとはもういない他者を想う時だけではなく、今ここで生きているわれわれの世界にも通じるのである。現在の中で、「無限なる他者の存在を前提として」再構築すること、そしてその上で愛するということは、いわば他者の他者性を、それが把持できるものであるかどうかは別として、認めて彼の存在そのもの全てを包み込む永遠の愛となるのではないか。そしてまさにこれこそが、高橋が愛の構造を研究する上で追い求めていたような愛の形であるような気がする。なぜなら祈りにおいて、過去と未来を循環と贈与の連鎖の中で捉える限り、現在はその循環ゆえにこそあり、もはや意味も存在も必要としない持続の中にいるという感覚によって実存は保証されるということになるからである。それはカイロスの時の流れとは異なる。緩やかに、時間がわれわれの内部と外部で循環しているというこの日本的な時の流れは、他者の持続をわれわれに意識させ、そこで理解された他者性は、われわれに他者への倫理を思い起こさせる。それは身勝手に他者をわれわれの内で再構築するのではなく、他者の無限をそのまま、いわば世界丸ごと無限の彼方にまで他者を持続させるという努力を前提とした再構築によって生まれる倫理である。

マモルくんの登場

今ここに、祈りという愛の形とその可能性が理解された。
ではここで、ようやく今回のテーマとなった(なるべきはずであった)J-Popまもるくんにご登場願おう。

さて、この課題を設定した脱輪氏によれば、J-Popまもるくん(以下マモルくん)は、

昔からずっと疑問なのが「俺がおまえを守るから」ってラブソングの歌詞。

ふつーに男尊女卑的だってのもあるんですけど、それ以上に「そんな守らんとあかんほど自分の彼女が何者かに狙われてる状況ありますぅ!?」ってことで。
[…]
同種のエンタメ作品には、多かれ少なかれこうしたマッチポンプ的な傾向が見られるような。

即ち、恋人になる→彼女が狙われる→俺がおまえを守るから→別れれば解決では?→別れる→やっぱり離れたくない!→再び狙われる→俺がおまえを以下略(笑)

これは、守る動機としての暴力の発生を無理に形作らなければならないために生じてくる矛盾なのかも。
[…]
それがなぜかカジュアルに一般化してしまっている状況の“なぜ”について、みなさんと一緒に考えてみたいと思います☺️🙌

https://note.com/waganugeru/n/n512dae00e009

なるほど、こうした愛における妄執と依存はそもそもお互い別れてしまえば関係を解消できるし、脱輪氏はこれを「守る動機としての暴力の発生を無理に形作らなければならないために生じてくる矛盾」がなぜJ-Popをはじめとした、音楽の歌詞の中で「カジュアル化」してしまっているのか、と論じている。

しかし、これまで読者各位とともにみてきたように、愛が一種われわれの内部を通過して存在するものである以上、こうした妄執や依存は愛の持つ魔性や他者理解の限界に由来すると言ってよいであろう。

だがここで興味深いのは氏の指摘、「守る」ということがなぜこれほどラブソングの歌詞に登場するのか、ということである。これはふたつの視点から理解することができる。

ひとつは、このような「俺がお前を守るから」という愛の行為によって「俺」自体の実存を保証しようとしているという見方である。

そしてもう一方は、「守る」という行為が「お前」の存在の無限性を予期しているからこそ生じるものであるという視点である。
というのも、もし「俺」が「お前」の他者性を出来る限り理解しようとすれば、それは究極的には「お前」の中にあらゆるコンテクストを認める働きとなる。つまり、「俺はお前のことを何も知らないし、これから先に知ることもない。それでも俺はお前を愛している、お前がずっと幸福に生きていけるように、俺はお前を守ろう。もし君が傷つけられたとしたら、俺が君の盾になろう」といういわば聖人君子のようなマモルくん、という可能性である。
ここにおいて、マモルくんはいわば「お前」の無限を前提におき、「お前」を自らの中で持続させているようである。

このように見ると、マモルくんが、まるで新しい愛の形をわれわれに提示しているように思えはしないだろうか。

このように捉えた上で、近年のJ-Popに新風を吹かせつつあるOfficial 髭男dismの楽曲「Subtitle」について考えてみたい。

制約上、歌詞をそのまま引用することはできないが、Subtitleが描く愛の形というのは、まさにここでわれわれがみてきたようなものとかなり近いと筆者は考える。ここで語られるものというのは、いわばマモルくんの変遷である。当初は自らの中で芽生えた他者に対して、一方的なまなざしのままに行為してしまったマモルくんであったが、さまざまな軋轢を経験するにつれ、自らの行いが過ちであったことを悟る。その上で、マモルくんは少しずつ新しい愛を発見してゆくのである。
恋人に対して不必要に自らの願望を語ることは、もしそれが互いの幸福を願うところのものであったとしても、ある種「重い」ものになってしまうことがある。なぜならわれわれは、社会的動物である以上、他者との関わり合いによって自らの将来というのはある程度規定されてしまうものだし、そこに自分のことを表層的にしか ー愛という免罪符によってー 理解しようとしない他者というのは決定的な人生への介入ともなり得るのである。そうした限界に挑みつつ、マモルくんは次に「言葉」の不完全性について学ぶ。
言葉とは本当に難しいものである。ヘッセは多種多様な形で理解されてしまう言葉を用いて何かを表現する詩人というものが、いかに困難な課題を背負っているかをエッセイの中で論じていたが、マモルくんはそれと全く同じことを雪の比喩を用いて書き表すのである。いくら麗しい文章を並べたとて、受け取る他者にそれを受け取る用意がなされてなければ不毛な努力に帰してしまうし、言葉で表現しようとすればするほど、本当に言いたいことはするりと溶けて無くなってしまう…。こういった言葉の限界すらも悟るマモルくんは、最後に覚悟を決める。
たとえその人が自らの前からいなくなったとしても、時空を超えてかの人に届く「何か」を見つけ出し、そしてそれがいつの日か想い人を救うものになることを祈るのである。いくらわれわれの間に境界があったとて、それはもはや彼にとっては問題ではない。言葉がどれほど陳腐なものに過ぎなかったとしても、それは彼にとって敗北を意味しない。彼はただひたすらに道を探し続けるのである。
そうして発見された愛の形は、もはや求められてもいないのに、延々とその人の幸福を考え続けようとする努力へと到達する。これこそまさに、マモルくんのあるべき姿ではないだろうか。もはやマモルくんに他者の応答も、自己を保証する愛も必要ないのである。彼は他者に永遠の可能性を見出し、自らの思考をもまた永遠へと昇華させ、ただただ他者の幸福を祈るのである。そう考えてみると、マモルくんはここにきていわば理想的な愛を実現するロールモデルとなったのではないか。

瞳を閉じて

 これまで筆者は、愛がもつ実存への機能やその美、あるいはその破滅を中心にして愛について論じてきた。
これは筆者の少ない人生経験の中で得た知見と経験をフルに投入して形作った論であるため、もう読者各位には自明のことであると思うが、数々の至らない点、論理的誤謬、そもそもの概念・事実の誤りが存在しているものであろう。それに筆者が気付けなかったことは筆者の未熟さゆえなのであるが、ぜひ読者各位の皆様には、この論についての批判を筆者に対してお示しいただければ、論を提示したものとしてこれ以上の幸せはない。

そして、われわれが愛について論じるとき、われわれは最後にわれわれ自身の悲しみについても心に留めておかねばなるまい。

われわれは死すべきものである。筆者は何もオリュンポスの宗教教義に基づいて、これを断言するところではない。やはりわれわれは、他者の中で生き続けるにせよ、そうでないにせよ、いつかは死を迎える実存なのである。

やはりそうなれば、愛とはこれ以上ない悲劇的アイロニーである。
求め求め、何かを愛そうと誓った実存は、果たしてどのように最後に自らを、自らによって愛せばよいのであろうか。

 われわれが生まれ死ぬ時、われわれは孤独である。去りゆく実存を愛し続けた実存は、その最期において残された自らをもまた愛すことに努める。
しかし、やはり死は絶対的なものなのである。自分がこの世から消えた世界、その世界の行末を経験することはもはやできないという事実は、人の限界なのである。
そう思えば、他者のために他者の持続を生涯ずっと貫き続けた君子も、自らの死によってその他者も消えてしまうという結末は、やはり変わることのない悲劇的アイロニーの形なのであり、それを受け入れるために、われわれは瞳を閉じるのである。
しかしそれがアイロニーである限り、われわれは希望を見出すことができる。人々が去りゆく者たちを大切にすれば、愛はもはや世界全体を根底から包み込む力になるはずである。死という実存の絶対に愛がもつ力とは限りなく小さい。それでもわれわれは、愛がいつの日か死を超越する日を夢見るのである。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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