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世界中のスピーカーをハイジャックして、Mr.Childrenを流したい。



真っ暗な部屋に、ただ、足だけが見えた。


積み重なった幾つもの布団やオムツの間から、ただ、足だけが見えた。


警察介入のための現場保存か、救命か。

その隙間から、わずかながら、呼吸の音が漏れ聞こえた。

生きている。

こういう時、0.1秒の判断で動き出すこの体には、恐れも戸惑いも無い。


「生きるとか死ぬとか、そんなことを考えながら生きているのは、人間だけですから。私はただ、自然に帰るだけですから。」


その人が、ぽつりと溢した言葉を、思い出していた。

脱いだ服、散乱した大便、布団、どこから落ちてきたのかわからない幾重にも身体に覆い重なる雑多なものの山。それらを1秒でも早くどかしながら、1番下の、その人の温度を確かめる。大丈夫。頚動脈がちゃんと触れる。少なくとも血圧60mmHgは保たれている指標だ。

柵の間に挟まった顔まで手を伸ばし、対光反射を確かめる。大丈夫。まだ、大丈夫。

「荒垣さん、お名前言えますか」

「・・・あ、ああき、おいいお、、」

凄い。

母音は完璧だ。こちらの声は聞こえている。

それならば、最後の大切な判断は、本人に委ねよう。

96歳まで、あらゆる判断を自分で下しながら、この家で過ごしてきたのだ。

最期まで、荒垣さんの人生を“生ききる”選択をしたいだろう。


その時が、来たのだ。


物を全部どかして、ベッドの上に持ち上げて、手では傷の手当てをしながら、口では声をかけ続けた。

病院には行きません。
この家で死にますから。
もう十分に生きました。

はっきりと会話が出来た頃、そう言っていたあなたの言葉を、もう一度反芻する。

「荒垣さん、聞こえますね。痛くないですか?」

「・・・あい、、、」

「苦しくないですか?」

「・・・あい、、」

「このまま、だんだんと、意識が遠のく感じがしていきます。病院に行かずに、ここにいますか?」

「はい。」

とても、力強い返事だった。

そこから先は、何を聞いても、声での反応はなくなった。

目だけは、薄く開いたり、閉じたりして、そのまま段々と呼吸の間隔が開いていって、深く、眠るように、その生涯を終えた。

96歳の、大往生だった。

到着した医師が、死亡宣告をした後に、深々と頭を下げて言った「お見事でした」の一言が、足下の底まで響いた。


♢♢♢


後日、棺桶には、あの時代に大きく振った日の丸の旗を入れて、正装で旅立たれたと聞いた。

令和の時代に、戦争に行った人が亡くなるということが、その人一人の死よりもはるかに重い、日本国民としての、『死』だと思うようになった。


今から77年前、焼け野原になったこの地を、19歳のあなたはどんな思いで踏み締めていたのだろう。


ロバート・キャパが言った言葉を思い出す。

「戦場カメラマンの一番の願いは、 失業することなんだよ。」

看護師の一番の願いも、失業することなんだろうなぁ。全てが終わり、空を見上げながら、そんなことを考えた。病気なんか全部なくなればいい。だけど人間の体が生身のものである限りそれは無理だ。生きていればケガもするし、願ってもいないのに病を患うことは往々にしてある。「生まれる」時にも「死ぬ」ときにも、その命を"手と目で護る"そんな看護という仕事が、この世界には必要だ。生きること、老いること、その時間経過の中で、命の時間に寄り添う、そういう仕事をしている。それでも、命についてなど、考えずにすむ時間のほうが、よほど幸せなのは確かな事だ。看護師としての私と出会うということは、何かしらの痛みも持ち合わせてしまった事実がそこにあるということだから。


どれくらいの値打ちがあるだろう? 
僕が今生きているこの世界に
すべてが無意味にだって思える 
ちょっと疲れてんのかなぁ
( Mr.Children  HANABI )




19の夏、私が泊まったホテルは、ロサンゼルスのコリアンタウンにあった。安いという理由だけだったけれど、そこだけはアメリカを忘れさせるほどにアジア人が多くいた。様々な理由でアメリカに来ていた日本人、韓国人や中国人と話す中で、凝り固まった価値観に捉われすぎてはいけないという学びを得た。自分自身の揺るぎない信念を軸として持つことは大切だが、その信念が本当に正しいものなのかということは、適宜自分のものさし以外でも、査定すべきなのだということを知った。

自分が正しいと信じて疑わなかったことが、実は世界の常識からは、とんだ的外れだったとしたら。当たり前のように義務教育で教えられてきたことが、もし自分の国の中だけでの当たり前だったとしたら。

そんな怖いこと、あってたまるかと思いたい。

でも、そうじゃない。


『ナイチンゲール 看護覚書』という、看護学生なら必ず通読する(させられる)バイブルのような本がある。LAまでのおおよそ10時間のフライト中に、夏休みの課題であった、この看護覚書についてのレポートを書いていた。


パソコンを打つ手が止まったのは、ナイチンゲールが "戦地における命を守る活動を通して"看護学の基盤を構築したというところに、少しだけ怒りのような悲しみのような、やるせなさを覚えたからだった。

150年以上も前に書かれたナイチンゲールの看護覚書の中には、現代看護にも通づる礎が多角的に詳しく記されている。専用の医療機器もない、限られた物品しかない、法律なんて全く通用しない、エビデンスもクソもない、そんな戦地において「その人のもつ自然治癒力を存分に発揮させて回復に導く方法」を見出したナイチンゲールは、確かに偉大な人だ。

だけど私は、それと同時に、彼女はどんな気持ちで"人に傷つけられた人"の手当てをしていたのだろうと、そればかりを考えていた。

手当てした人が戻る場所が「家族の待つ家」でも「社会復帰」でもなく、「戦地」だということを、どんなふうにして受け入れていたのだろうかと、そういうことを、考えずにはいられなかった。

心なんて、もはや、なくなってしまうのだろうか。

治療して治っても、また戦場に帰っていく兵士達を見て「なんのために手当てしているのか」と無力感に苛まれることはなかったのだろうか。名前の知らない誰かによって突然命を奪われた一般市民、そんな大量虐殺を横目に、ひたすらに繋ぎ止められる命を選別すること、果たしてそれは、なんのための看護なのだろうかと、思うことはなかったのだろうか。

19の夏、飛行機の中で、私がこれからなろうとしている看護師という仕事の起源は“戦地”であった事実を知った。

それが無性に悔しくて、悲しくて、残酷だった。



♢♢♢



遠く、カンボジアにある周産期医療センターの入り口に、私の名前が刻まれているらしい。

私はそれを、写真でしか見たことがないから、実感もあまり湧かない。行ったこともないカンボジアの国に、自分の名前が刻まれている。


偽善だった。


劣悪な環境や医療資源不足により、日本では当たり前に繋がれるはずの命が、簡単に失われていた。そんな環境に「たまたま生まれる運命」に、勝手に悲惨さを感じて周産期医療センターの建設プロジェクトに携わったのは、アメリカからの帰国後のことだった。

その時は、周産期医療センターが建設されることで、今この瞬間もなお、1人でも多くのお母さんと赤ちゃんが救われていくのだと、本気でそう、思っていた。その国で生まれ、生きていく子供たちの未来を後押しできるなら。そんな風に思っていた当時は、まだ知らないことが、沢山あった。

コロナが流行りはじめた時、「衛生的な水が出る水道をつくろう」「手を洗うことを教えよう」と途上国に向けて、感染予防策として勧められたのは、そういうものだった。

ただ、愕然とした。

まだ、そのレベルだったのか、と、突きつけられたようだったから。周産期医療センターの開設からは、もう時だけは随分と経ったはずだった。それなのに、日本人がワクチンの是非について議論を交わしている間に、マスクのまとめ買いを禁じていた間に、フェスや旅行の在り方について模索していた間に、「そもそも水道から綺麗な水が出ない国に住んでいる人」が沢山いて、「手洗いを知らない人」も沢山いて、その事実は、周産期医療センターが建設される前と、何一つ変わってはいなかったから。

分かっているつもりで、なんにも、分かってはいなかった。


そうだ。世界って、こういうものだった。


不平等で、不公平で、一人の力なんかじゃどうにもならないことばかりで、そういうものだってことを、ちゃんと思い出した。

そうだ。世界なんて、そんなもんだ。

自分自身の生活さえもギリギリのはずなのに、顔も名前も知らない国境を越えた国のこどもたちのことを思うこと自体が、浅はかで、無知で、青かったんだ。




♢♢♢



『国境なき医師団、ウクライナ国内で待機 医療支援を準備中』

『ロシア軍が小児病院空爆、がれきの下に子ども』

オリンピックが終わる頃、コロナのニュースに畳み掛けるようにして、ため息が出るような見出しばかりが目立つようになっていった。

感染パンデミックとか、戦争とか、そういう言葉ばかりが並ぶ【非日常】が、いつの間にか、私たちの【日常】となった。

この世界で、唯一言葉を巧みに使うことができる生き物であるはずの人間が、肝心な時に大切なことほど言葉じゃどうにもならないのは、そこが人の限界点だからなんだと、そう思った。


今 
社会とか世界のどこかで起きる大きな出来事を
取り上げて議論して
少し自分が高尚な人種になれた気がして
夜が明けて また小さな庶民



♢♢♢



世界のどこかで、今も誰かが死んでいる。



4つ上のお姉ちゃんが、子どもを産む前にこう言った。


「こんな世界に生まれてくる我が子が『かわいそう』だ」と。



不条理なことならいくらでもあって、平等にも平和にもなる兆しは無くて、争わなければ生存競争に勝ち残れなかったご先祖さまのDNAが、しっかりと体の中に螺旋を描いている証拠なんだとしたら、もう仕方がないな。



「不安になる。こんな世の中で、この子は、傷つかずに幸せになれんのかなぁって。」


「お姉ちゃん。どんな世の中であろうとも、傷付かずに生きていくことなんて無理だよ。」



「え?」


「どの時代に生まれても、人は傷つくよ。
平安時代に生まれても、明治時代に生まれても、上流階級の貴族の子供に生まれても、スラム街で生まれても、此処から半世紀先の未来に生まれていても、人は、傷付くよ。」


「まぁ、そうだね」


「うん。だからさ。逆に、もう、いっか。」

「ん?何が、逆に?」


「んーん。なんでもない!」


「なんだそれ。」


はははっと笑いながらお腹をさする姉の顔が、とても愛おしそうだったから、もう、それが全てな気がした。


なんだかんだ考えたって「生きるとか死ぬとか、考えて生きてるのは人間だけ。」荒垣さんが言っていた言葉を、思い出す。

看護師として訪問していたはずが、人生の先輩として、教えていただくことの方が多かった。

人生96年もあれば、沢山のことを経験したのだろう。それと同じように私もきっと、振り返ればあんな事もこんな事もあったなぁという歴史の上を、今まさに歩いているのだろう。戦争も感染症も、無い方がいいけれど、忘れてしまいたいこと忘れられないのは、それが忘れちゃいけない痛みだから。


荒垣さん。

三途の川は、無事に渡れたかな。

空から見るこの世は、どんなにか汚れているだろうけど、それでも、見守っていてくれるだろうか。


今日も世界のどこかで、誰かが死ぬし、誰かが生まれる。




だけど、あの時代から変わった事のひとつに、音楽があるって、そう思える。

だれしもが音楽を自由に奏でられるようになったことが、
音楽を気軽に聴くことができるようになったことが、
音楽によって意思を持てることが、
音楽によって気持ちが変わることがあるということが、あの時代とは違う、少なくとも大きな希望で、逆に言えば、それくらいしか、ないのかもしれないとも思う。

だけど、世界中の人が歌う、マイケルのHeal the WorldとかジョンレノンのHappy Xmas (War Is Over)とか、そういう希望のうたがあるからこそ、ちょっとは前を向けるのもまた、事実としてある。

救われる歌詞が、沢山あるから。
争いなんてせずに、いたいと思えるから。


出来ることならば私は、世界中のスピーカーをハイジャックして、今、Mr.Childrenを流したい。


子供らを被害者に 加害者にもせずに
この街で暮らすため まず何をすべきだろう?
でももしも被害者に 加害者になったとき
出来ることと言えば
涙を流し 瞼を腫らし
祈るほかにないのか?

左の人 右の人
ふとした場所できっと繋がってるから
片一方を裁けないよな
僕らは連鎖する生き物だよ

この世界に潜む 怒りや悲しみに
あと何度出会うだろう それを許せるかな?
明日 もし晴れたら広い公園へ行こう
そしてブラブラ歩こう
手をつないで 犬も連れて
何も考えないで行こう

子供らを被害者に 加害者にもせずに
この街で暮らすため まず何をすべきだろう?
でももしも被害者に 加害者になったとき
かろうじて出来ることは
相変わらず 性懲りもなく
愛すこと以外にない

タガタメ



例えば誰か一人の命と
引き換えに世界を救えるとして
僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ

小さい頃に身振り手振りを
真似てみせた
憧れになろうだなんて
大それた気持ちはない
でもヒーローになりたい
ただ一人 君にとっての
つまずいたり 転んだりするようなら
そっと手を差し伸べるよ

HERO



今 社会とか世界のどこかで起きる大きな出来事を
取り上げて議論して
少し自分が高尚な人種になれた気がして
夜が明けて また小さな庶民

ただいま
おかえり

なんてことのない作業が この世界を回り回って
何処の誰かも知らない人の笑い声を作ってゆく
そんな些細な生き甲斐が 日常に彩りを加える

彩り



日本人としての、誇りのうた。

日本語を理解出来る事が、幸せだなって思える、素敵な歌詞。



ありがとう、Mr.Children。

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