映像化に向き不向きの超え難き壁~「沈黙ーサイレンスー」

宗教というと日本人はなかなか抵抗を持つ人が少なくないように思う。
でも、何を拠り所として生きていくかということでいえば、いわゆる無宗教の人であっても何かしらの「信仰」を持っているはずだ。
その「信仰」の揺らぎについて描いた映画、2016年公開「沈黙ーサイレンスー」。遠藤周作の小説である。

「沈黙」は2016年に公開するということを聞いて、当時先に小説を読んでいた。その時の感想メモがこちら。

沈黙とは、苦しむ信徒に対して救いの手を差しのべない神の「沈黙」を指しているように見える。たが、ロドリゴの目は次第に自分の心に向いていく。
そして最後には、神は沈黙していたのではない、という確信に至るのである。
信仰とは何か、救いとは何か。
一人一人が独立している以上、それぞれのうけとめる「救い」は結局は異なるもの。その時点で、大括りの宗教ではなくなってしまう。

4年前の自分は、いたく感銘を受けたようだ。
本来であれば、読書後すぐに映画を鑑賞したかったのだが、2時間半もあることに躊躇いを覚えているうちに上映は終了してしまったのだ。

今回テレビ放映されていたのを受けて4年越しの悲願を果たしたのだが。
時が経ったせいなのか映像のせいなのか、小説を読んだ時ほどの感動は残念ながら味わうことはできなかった。

信仰とはやはり内面に関わること。最小限にしぼられた情報で、いかに自分の中で膨らませていくか、内省していくか、という点が大切なのだろう。
その点、映画は事象の描写についてはツールとして優れているものの、却って視覚的な情報に留まってしまうのではないだろうか。

「沈黙ーサイレンスー」も、当時の人々の様子や拷問の凄惨さについてはとてもよく描かれているのだが、ロドリゴがどのような葛藤を抱えて「転んだ」のかがイマイチ共感しづらい。モノローグも、結局はそれを補うための苦肉の策とさえ映ってしまうほどだ。

映像に向いている作品と向いていない作品。
巨匠スコセッシをもってしても、その壁は越えがたいものなのか。
ただ、また小説「沈黙」を読みたい気を起こさせてくれたのは収穫だったと言えるだろう。

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