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現代の「生きがい」をめぐって④―生きているか、生かされているか―

今の私たちの「生きがい」とは何だろうか?

この答えを求めるべく、神谷美恵子の『生きがいについて』を参考にしつつ、前回は「生きがい」ではなく、「居がい」に焦点をあてるという持論を展開してきました。こんなことはことばにせずとも誰しも感じているかと思うのですが、今のコロナ禍だからこそあえてしたためてみました。

そして今回は、再び神谷の本に戻りつつ、人間の尊厳、生きるということについて深めていこうと思います。

■「他者」によって「存在」する

「居がい」の観点で改めて神谷の本を読み返すと、なんらかの病で、いてもたってもたまらないような苦痛のために、単なる『あえぐ生命の一単位』になってしまった人にも生きる意味というものがありうるのであろうか、という疑問が呈されていることに気づきました。

彼女は次のように続けます。

この問いに対してはっきり肯定の答をなしえないのならば、精神病者を無用の存在として殺りくした、あのナチスの考えかたに戻るほかはない。そしてこの肯定の答をもっともはっきりと与えるのは、やはり宗教的な心の世界に身をおくひとではないであろうか。そのひとは次のように答えるであろう―。
人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ「無償に」存在しているひとも、大きな立場からみたら存在理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の眼にもみとめられないようなひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。そもそも宇宙のなかで、人類の生存とはそれほど重大なものであろうか。人類を万物の中心と考え、生物のなかでの「霊長」と考えることからしてすでにこっけいな思いあがりではなかろうか。(第11章p280-281)

ただ存在しているだけの人間について、利用できるか、有用かといった基準ではかるものではないという物言いは、私が前回述べてきたことと一致しています。しかし、神谷が特徴的である点は、「宗教的な心の世界」に身をおく者がその境地に達しているのではないかと書いていることです。

「大きな立場からみたら存在理由があるにちがいない」というときの「大きな立場」とは「」なのではないかと考えられます。あえて「宗教」という言葉が使われていますので「」などもあてはめられるでしょう。また、彼女はマルクス=アウレリウス=アントニヌスの『自省録』を傍らに置いて愛読していましたから、ストア哲学の「宇宙(コスモス)」を「大きな立場」ととらえているとも考えられます。

現代の私たちが「宗教」といわれると、新興宗教などを想起して距離をおく場面もあるわけですが、それでもこの「大きな立場」というのは何となく想像できます。キリスト教でいえば「最後の審判」「予定説」といったもの、仏教でいえば「輪廻転生」といった考え方が生活のなかに入り込んでいるからです。

こう考えると、神や仏を信じるか信じないかではなく、宗教そのものの根本は「ことば」であり、神谷のいう「宗教的な心の世界」とは、ごく普通の私たちがごく自然にとらえていることばの織り成す「イメージ」であるのかもしれません。「光の体験」など大仰な出来事がなくても、宗教的な心の世界を感じとっているのかもしれませんね。(かといって、私が宗教に入信したいわけではありませんが)

さらには、次のように書かれています。

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