見出し画像

時代の演者 ― 三島由紀夫との邂逅

■近現代のむすび目をさぐりけり

県境の長い航路を終えると犬島であった。
海の上は白くひらけた。
停泊所にフェリーが止まった。

画像1

高松からチャーター便で50分。
小豆島の北西、本州の岡山県にほど近い海に、犬島は浮かぶ。

三島由紀夫の話のはずなのに、なぜ犬島の話から始まるのかは後でわかるはずだから、ここでは少しだけ前置きにつきあってほしい。

直島をはじめとした瀬戸内の島々がアートの聖地となる嚆矢は1985年。ベネッセの前身である福武書店の創業社長 福武哲彦氏と、直島町長 三宅親連氏との出会いに遡る。その後、1992年のホテルと美術館が一体型となったベネッセハウスのオープン、2004年の安藤忠雄建築による地中美術館の開館などを経て、現在では世界中から観光客が訪れる地となっている。

この一連のアートプロジェクトによって、犬島精錬所美術館が開館されたのが2008年である。

近代化産業遺産である犬島精錬所の遺構の保存・再生を目的とし、「在るものを活かし、無いものを創る」というコンセプトのもと、建築家の三分一博志によって自然の力を利用した循環型の建築が実現した。

……ということは、私も知っていた。

実際に外扉を抜けると、カラミ煉瓦による遺構が否が応にも「歴史」を感じさせた。長崎の軍艦島とは似て非なる、びっしりと敷き詰められた黒く重いレンガの層は、うららかな瀬戸内の海に映えながらも、どこか不釣り合いな、不思議な感覚を引き起こさせるのだった。

画像2

すると、同行してくださった福武財団のかたが言う。
「この精錬所は、建てられてからたった10年で閉じられてしまったのです」

なんということだろうか。
自然をここまで切り崩して、使ったのはたった10年だけ。後から調べると、銅価格の大暴落によって操業を終えざるえなかったようだ。

青く輝く水面とは対照的に、この島には人間の「負」が取り残されている。そう気づき始めていた。


■などて三島は犬島にをりたまひし

○イカロスセル
そうこうするうちに精錬所美術館の建物まで辿りつくと、中ははじめ真っ暗で何も見えなかった。しかし、向こうに何かが見えた。

光だ!

長くて狭い通路を光に向かって歩け、と建築がわれわれを仕向けた。
恐る恐る先へ進むと、「光」の出口に辿りつき、「光」をわが手に掴み、全身に「光」を浴びることができる……はずだった。

はずだったのであり、実際には出口はなかった
それはただの光であり、出口ではなかった。

また隘路を進むことになるが、また「光」には辿り着くことができない。
最後の最後まで、永遠に、私たちは本物の「光」には近づけなかった。

画像4

解説を聞くと、この作品はアーティストの柳幸典による「イカロス・セル」というものであった。柳の言葉にはこうある。

犬島精錬所の廃墟を見たとき、僕はイカロスの神話を思い出しました。(中略)この神話はミノスの王によって地下迷宮に幽閉されたイカロスと父のダイダロスが、蝋で固めた翼を作って塔から飛び立って脱出する。けれど、太陽に近づき過ぎたところで蝋の翼が溶けて海に落ちてしまうお話です。はるか昔の神話ですが、近代主義、人間の傲慢さ、テクノロジーの過信に対する批判を表象していると思います。

瀬戸内の島に取り残され、忘れかけられた銅の精錬所という負の遺産を使って、科学の力で神を超越しようとした近代主義下の人間の愚かさを、イカロスの神話に重ね合わせて批判しているというのだ。

そしてここで、やっと三島由紀夫が出てくる。

福武財団のかたの解説によると、「三島由紀夫は近代化を批判した人物であり、『太陽と鉄』という著作の中で「イカロス」という詩も書いていることから、柳さんは犬島精錬所と近代化批判した三島由紀夫を結びつけて作品をつくった」ということだった。

後から調べたが、実際に柳も次のように語っている。

もうひとつこの神話から着想を得た要素が、小説家であり政治活動家の三島由紀夫です。1967年3月14日、自衛隊の戦闘機F104DJ機の後部座席に搭乗した三島は、即興で「イカロス」という長詩を作っています。(中略)文化を顧みず、経済成長のみを追及していた戦後日本を批判し、最後には自害するような「パフォーマンス」まで行った芸術家・三島を、近代化の過程で置き去りになり廃虚と化した犬島精錬所、そしてイカロスの神話と融合させたいと模索していたんです。

しかし、恥ずかしながら犬島探訪のときの私はまだ『太陽と鉄』を読んでおらず、「イカロス」がどんな詩かもわからなかったし、そもそも三島は「『仮面の告白』や『金閣寺』といった人間(半ば自分)の深層に肉薄する繊細かつ絢爛豪華な作品を残し、憲法9条に対する主張を全うするため市ヶ谷で自害した人物」というイメージで、具体的にどこで「近代化批判」を書いていたかがピンとこず、もやもやする思いでいたのだった。

そもそも、旅の事前にみたガイドブックでは、三島に関する作品は次の「ソーラー・ロック」のみだと勘違いしていたから、「イカロス・セル」の解説を聞いたときには、かなり虚を衝かれていた。


○ソーラー・ロック
館内はすべて撮影不可だから、ポストカードでしか共有できないのは残念だが、三島が生前に住んでいた渋谷区松濤の家が解体されると聞きつけた柳が、その建具を引き取って犬島に持ち込み、三島の書斎を再現したという作品だ。大きな石に水を張り、黒い太陽が映り込んでいる。

これもまた「太陽」が意識されており、光の差し込みかたが絶妙で、あっと言わせる作品である。

画像3

ただ建具を吊るしただけで、どうしてこのような神秘的な異空間ができあがるのか。しかも三島の家財であるということが、さらに衒気と感傷を引き出しているといえよう。


○ミラー・ノート
かくて三島をモチーフにした作品がいくつもあることに興奮を憶えた私であったが、胸の高鳴りが最高潮に達したのが「ミラー・ノート」という作品だった。

小さな部屋に導かれると、鏡に赤い光で書かれた文字が絶えず流れ続けている。よく見るとすべてこう書かれているのだった。

などてすめろぎは人間(ひと)になりたまひし

!!!

天皇陛下、なぜあなたは人間になってしまわれたのですか。

これは三島の『英霊の聲』に出てくる、天皇のために命を落とした二・二六事件の青年将校や太平洋戦争の特攻隊員たちが、天皇の「人間宣言」に対して憤って放った呪詛の言葉。赤い字は、血をイメージしたのだろう。

画像5

(写真はイメージです)

念のために断っておくが、私は右とか左とかという話からは少し距離をおいている。ただちょうど1週間前に、新潮社から出た『英霊の聲』を読み終えたばかりだったから、あまりの偶然に驚いてしまったのだった。

ここまでくると、もはや犬島精錬所を用いた近代化批判というメッセージからは離れ、三島が半生をかけて主張したメッセージの再現、三島へのオマージュという様相が色濃くなってくる。


○ソーラー・セル
さらに、この様相を引き継いだ次の「ソーラー・セル」にて、柳の表現する三島由紀夫の世界は極限を迎える。

この作品は、三島が自決する直前に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーから読み上げた「激文」を、金メッキの鉄の切り文字にしてぶら下げたものだ。金色で書かれたお経のような、寺院の荘厳具のような、ややおどろおどろしい文字が見る者の胸を引っ掻く。

画像6

(写真はイメージです)

われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。(「檄文」より一部抜粋)

柳は、三島のことが好きなんだろう。
三島が自衛隊に、日本国民に伝えたかった事柄を作品化することで、近代化批判という切り口のみならず、三島の本質を丸ごと表現しようとする意志が感じられた。

彼のアートワークや、犬島プロジェクトの詳細は以下のサイトに詳しい。興味を持たれたかたは是非読まれたい。


■からつぽを満たす恩寵をあたえたまへ

かくて初日に犬島を見学した2泊3日の私の旅は、その後「三島由紀夫」「近代化」「イカロス」というキーワードが常に脳裡にちらつく旅となった。

とくに初日の夜などは、誕生日を祝っていただき、それはそれは至福の時間を過ごしたが、部屋に戻るとインターネットで3つの用語についてひたすら検索しまくり、疲れて眠りにつくほどであった。

だが、どうしても『太陽と鉄』に三島が直接的に近代化を批判した箇所があるのかはわからなかったし、それに類する書籍があるのかどうかも調べ切れなかった。

ネットには書きたい人が書きたい情報を書いているだけだ。本当に知りたいことは、実際に自分の目で確かめてみるしかない。

また、最終日に立ち寄った豊島では、長い年月をかけて産業廃棄物を取り除く活動が行われ、美しい自然とアートの島として再生されつつあるのに、住民95%の反対を押し切ってどこかの業者が強制的にソーラーパネルを設置しようとしている問題が今起こっているらしい。

画像7

これはまさに柳が作品で批判した「近代化」の延長線上にあることではないか? 三島もこれを批判していたのだろうか?

いよいよ現代社会のひずみ、人間の業の深さを思い知らされた私は、旅行を終えた11月16日から、彼の死後50年を迎える本日25日まで、三島由紀夫もとい平岡公威と、朝に夕にどっぷり向き合うことになる。もう「きみたけ」と呼び捨てしてもいいぐらい、人生で最も三島と蜜月なときを過ごした。

もちろん全作品を読むなんて時間はなかったのだが、三島が何を伝えたかったのか、遺したかったのか、以下はその観点で記したものである。


(1)三島由紀夫と近代化批判

私の読んだ限りにおいて、『太陽と鉄』には近代化を直接批判するような箇所はみられなかった。

作中の「太陽」とは日光浴「鉄」とは鉄アレイなどトレーニング器具総称の比喩であり、三島がボディービルを始めた背景を、生と死に対する信念まで披瀝して、格調高く綴っているというのが当を得た理解ではなかろうか。

ボディービルを始めた理由としては、幼少期に病弱で学校を休みがちだったためとか、通っていた学習院がその建学の歴史から戦中はとくに軍事訓練を強化したが三島は教練以外は苦手だったためとかという劣等感によるものが大きい。

「私は皆と違う」という疎外感を払拭するためにボディービルに勤しみ、結果、「鉄を介して、私が筋肉の上に見出したものは、このような一般性の栄光、『私は皆と同じだ』という栄光の萌芽である(p33)」と書いている。

また、『金閣寺』を書き終えた5日後には、幼少期から夢だった神輿担ぎをし、「あの狂奔する神輿の担ぎ手たちは何を見てゐるのだらうという謎」があったが「彼らは青空を見てゐる」とわかったと、その感懐を『新潮』に嬉々として綴った。

私は二つの相反する傾向を準備していた。一つは言葉の腐食作用を忠実に押し進めて、それを自分の仕事としようとする決心であり、一つは、何とか言葉の全く関与しない領域で現実に出会おうという欲求であった(p10-11)

肉体=力=行動の線上に、私の意識の純粋実験の意欲が賭けられており、一方では、染めなされた無意識の反射作用によって肉体が最高度の技倆を発揮する瞬間に、私の肉体の純粋実験の情熱が賭けられており、この相反する二つの賭の合致する一点、つまり意識の絶対値と肉体の絶対値がぴったりとつながり合う接合点のみが、私にとって真に魅惑的なものだった(p40-41)

これらから、言葉(意識)と行動(肉体)の接合する地点をずっと追い求めていたこともわかる。『金閣寺』などの作品、さらに最後の自決においても、その想念が確かなものであったことは認められることだろう。

また「イカロス」においては、決してたどり着けない「太陽」が「天皇=神」を表していると思われるが、科学を信奉し、近代化を進める人間を直接的に批判しているわけではない。

***

しかし、では、三島はどこで近代化批判をしたのだろうか。

一つは、三島の立つ文学的なバックグラウンドそのものが近代化批判であるという見方ができる。

早熟の平岡公威がその才覚をあらわし、三島由紀夫として文壇にデビューしたのは16歳のときだった。日本浪曼派に属した国語教師の清水文雄に見出され、蓮田善明が編集兼名義人を務める『文藝文化』に「花ざかりの森」が掲載されたのが最初である。この日本浪漫派は、近代化批判古代讃美を基底とし、日本の伝統回帰を謳った文学思想。三島が清水や蓮田からこの思想的影響を受けていることは想像に難くない。

ただし、三島自身は、古林尚との対談で「日本浪漫派からはちょっと離れたところで、いわば精神的国学というか、まあ新国学みたいな潮流の中に身を置いて、ずっと日本の古典を読んでいたのです(『太陽と鉄・私の遍歴時代』p187)」とも述べており、日本浪漫派に骨の髄まで染まっていたというわけでもなさそうである。

少なくとも、幼少期に祖母の夏子から教わった谷崎潤一郎や泉鏡花などといった耽美的・浪漫的な作風、歌舞伎や能の鑑賞から得た古典表現、生涯の師となった清水文雄の中世文学研究は影響していただろう。

対談では「日本語を知っている人間は、おれのゼネレーションでおしまいだろうと思うんです。日本の古典のことばが体に入っている人間というのは、もうこれからは出てこないんでしょうね(p255)」とも言っており、日本の古典文化を大事にしていたことがみてとれる。

また、「ぼくは、自分こそ日本にはまだ生まれていない古典美の世界、それを理性ですべて統御するところの新しい作家になれるだろうと、本当に錯覚していたんですよ。ところが、そのうち、そうでないことがわかってきた。どうしても自分の中には理性で統御できないものがある、と認めざるを得なくなった。つまり一度は否定したロマンティシズムをふたたび復興せざる得なくなった(p194)」とも言い、晩年はとくに理性=近代性を絶対視しない態度が窺える。

***

もう一つ、近代化批判の具体的な作品を挙げるのであれば、それは『文化防衛論』にあたるのではなかろうか。

文化における生命の自覚は、生命の法則に則って、生命の連続性を守るための自己放棄という衝動へ人を促す。自我分析と自我への埋没という孤立から、文化が不毛に陥るときに、これからの脱却のみが、文化の蘇生を成就すると考えられ、蘇生は同時に、自己の滅却を要求するのである。このような献身的契機を含まぬ文化の、不毛の自己完結性が、「近代性」と呼ばれたところのものであった。(p53)

文化の全体性には、時間的連続性空間的連続性が不可欠であろう。前者は伝統趣味を保障し、後者は生の多様性を保証するのである。(p64)

「自己の滅却」を要求せず、不遜にあり続けようとする態度が「近代性」であり、それは時間的・空間的に分断され、回収されない。アートプロジェクトが行われる前の犬島は、まさにこの三島のいう「近代性」に侵されていたのではなかったか。

また、サンケイ新聞の1970年7月7日の夕刊には「果し得てゐない約束―私の中の二十五年」と題して、次のような記述もある。

日本はなくなつて、その代はりに、無機質な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。

明らかに、明治維新からさらに加速した、屋台骨なき戦後日本の「近代化」を揶揄した言葉だろう。

この「からつぽ」というのは、『豊饒の海(一)春の雪』の松枝清顕の台詞にも出てくる。

僕は一人取り残されている。愛慾の渇き。運命への呪い。はてしれない心の彷徨。あてどない心の願望。……小さな自己陶酔。小さな自己弁護。小さな自己欺瞞。……失われた時と、失われた物への、炎のように身を灼く未練。年齢の空しい推移。青春の情ない閑日月。人生からの何の結実も得ないこの憤ろしさ。……一人の部屋。一人の夜々。……世界と人間とのこの絶望的な隔たり。……叫び。きかれない叫び。……外面の花やかさ。……空っぽの高貴。…………それが僕だ!

高校生の頃、これを読んだ私は、まさに自分のことを言い当てられたようだと打ち震え、驚きを隠せなかったのを憶えている。

そしてこれは、個人ではなく、日本という国にも置きかえることができるのかもしれない。経済成長という外面の花やかさとは裏腹に、精神的支柱なき空っぽの高貴……それが日本。


(2)三島由紀夫と天皇観

さて、三島のいう日本になき精神的支柱とは天皇制の如何を示唆している。

柳が「ミラー・ノート」や「ソーラー・セル」で天皇に関する三島の主張を扱ったのも手伝って、ここで三島の天皇観について概観してみたい。

『英霊の聲』の最後では、帰神(かむがかり)の会に降り立った二・二六事件の青年将校たちや神風特攻隊の兵士たちの霊の「天皇の人間宣言」に対する怒りがあまりにも強く、霊媒師たる川崎君が命を落とすだけでなく、「その死顔が、川崎君の顔ではない、何者とも知れぬと云おうか、何者かのあいまいな顔に変容して」いた(p285)。

瀬戸内晴美(寂聴)との書簡のやりとりから、この「あいまいな顔」とは「昭和天皇の顔である」と、佐藤秀明は『三島由紀夫 悲劇への欲動』に書いている。先の古林氏との対談で「ぼくは、むしろ天皇個人にたいして反感を持っているんです。ぼくは戦後における天皇人間化という行為を、ぜんぶ否定しているんです」と語ったことからも、佐藤は「殺意の間接性があるにしても」、三島が天皇に対して「殺意ある怨念」を書いたことは明白だという。

また、同じく『英霊の聲』では、霊たちが天皇が人間であることを「それはよい」としながら、次のように書く。

昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。それを二度とも陛下は逸したまうた。もつとも神であらせられるべき時に、人間にましましたのだ(p280)

これより、佐藤は「天皇を人間と認めかつまた神であるべきだとする考えは、人間である天皇個人と天皇制とを分離して見る見方である」(p187)とする。

佐藤は、「リアリズムを基調とする新劇の演技術(スタニフラフスキー・システム)」では役者が役の人物になりきって登場して「事実」を重視するのに対し、三島は「役者は役になりきるのではなく、役者が役に入るところを見せる。なぜなら、ここが劇場であることを意識させ、フィクションであることを意識させねばならないからである」(p189)と続け、三島が唱えたのは人間と天皇を一旦分離する「シアトリカルな天皇論」だと述べている。また、これを鈴木宏三は『三島由紀夫 幻の皇居突入計画』にて、「ザイン(現実)としての天皇」と「ゾルレン(理想)としての天皇」と表現しているようだ。

さらに、白井聡の『永続敗戦論』や大塚英志の『サブカルチャー文学論』を参照しつつ、『英霊の聲』で「アメリカへの屈折した感情を介在せずに戦後のナショナリズムを披瀝する三島の表現は」「批判の目を外に向けずに内なる日本に向けたことで、人間天皇と大衆との結びつきが経済成長を用意し、戦前戦中の記憶を歪めていると指弾することにもなった」(p188)という。極めてはっとさせられる論である。

***

『文化防衛論』では、次のような「国民文化の三特質」が挙げられている(p46-47)。

①新しい創造の母胎となるべき、伝統と連続する「再帰性」
②あらゆる文化をまるごと容認・保持する「全体性」
③文化の最上の成果へ身を挺する「主体性」

だが、三島は戦後の昭和という時代は、「文化をその血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離して、何か喜ばしい人間主義的成果によって判断しようとする一傾向」である「文化主義」が蔓延り、「そこでは文化とは何か無害で美しい、人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きもの」になってしまっているという(p34)。すなわち、先の国民文化の三特質が奪われている状態と言っていいだろう。

三島はこう続ける。

文化の全体性、再帰性、主体性が、一見雑然たる包括的なその文化概念に、見合うだけの価値自体を見出すためには、その価値自体からの演繹によって、日本文化のあらゆる末端の特殊事実までが推論されなければならないが、明治憲法下の天皇制機構は、ますます西欧的な立憲君主政体へと押しこめられて行き、政治的機構の醇化によって文化的機能を捨象して行ったがために、ついにかかる演繹能力を持たなくなっていたのである。雑多な、広範な、包括的な文化の全体性に、正に見合うだけの唯一の価値自体として、われわれは天皇の真姿である文化概念としての天皇に到達しなければならない。(p73)

文化概念としての天皇」というのが、私にはいまいちわかるようでわかっていないが、「文化を全体的に容認する政体は可能かという問題は、ほとんど、エロティシズムを全体的に容認する政体は可能かという問題に接近している(p64)」「『みやび』の中に包括され、(中略)永久に、卑俗をも包含しつつ霞み渡る、高貴と優雅と月並の故郷であった(p78-79)」などという記述から、佐藤も言うように、三島自身が「世界」、つまり「絶対者」に見立てた「天皇」から、(当時としては)性的な特異性や、抑えきれないエロス(性的欲動)とタナトス(死への欲動)を切に認めてもらいたかったのではないか。

「高貴」と「優雅」を以て人並外れた才能を振りかざして生きるほどに、「月並」な一般社会からは疎外され、生きづらい私。
放つ光が強ければ強いほど、心の闇は深くなる。
三島はそんな人だったのだろう。

だから、自分が「身を挺す」べきもの、自分を埋めるものを「天皇」に求めたのかもしれない。

***

以上から、先の「シアトリカルな天皇論」にもあるように、「現実」と「理想」、「私」と「公」を区別することを三島は重視し、それを自分にも課していたように思えてくる。すなわち、それは彼にとって、私人としての「平岡公威」、公人としての「三島由紀夫」の別である。

「平岡公威」は「三島由紀夫」を演じなければならない。

だから、「裕仁」は「天皇」を演じ、その役を全うし、「平岡公威」と「三島由紀夫」のすべてを包含せねばならない。それゆえ、「天皇」は人間を越えた「現人神」なのである。


■きみたけ/君(コロナ)だけに、歌をばお返しいたしませう

新幹線の車窓から遠い山々を眺め、甘い疲れとともに旅の思い出を反芻するうち、気づくと故郷たる「三島」であった。

わが父母を思い、あえかに過ぐて、近代化の東京へ。

本格的に、富士に白い「ゆき」がかかるころには、また戻って来られるのだろうか。

ひとまず私の思索の旅は終わり、時代の災禍に不安を隠せぬ日々へかえってゆく。さあらば最後に別れを惜しみ、彼の辞世の句に、50年後より返歌で応え、お開きといたしましょう。

【三島の句】
益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜
散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐

【私の返歌】
益荒男の きみたけだけし 晩秋に 幾とせ耐へて いまの災い
散らぬよに 世をも人をも 外避けて 花咲かさむと 急く小夜しずか

「平岡公威/三島由紀夫」からみた、今の世界を教えてください。

(おわり)

サポートいただけると、励みになります。よろしくお願いいたしますm(__)m