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テオドール〜もう1人のゴッホ〜《後半》

本屋を3軒ハシゴし、ようやく目当ての雑誌は見つかった。
力を込めて、テオは雑誌をラックから引き抜いた。

1890年、2月。
曇天のモンマルトルに、雪が舞っていた。
画廊に着くのを待てず、テオは雑誌を開いた。
風にページがなびき、なかなかめくれない。
求めていた記事は、期待していたほど大きくはなかった。

しかし。
大きさは問題ではない。
テオは、ページが濡れるのも構わず、手袋の上から何度もその文字をなぞった。
「LesIsolés:Vincent van Gogh」
間違いない。
思わずページを叩き、何度も小さくガッツポーズを繰り返した。
雪が目に入り、目をつぶったら、涙がこぼれた。

文芸誌『メルキュール・ド・フランス』の1月号に、フィンセントを紹介する記事が載ったのだ。

早く、兄さんに知らせなくては。
これで兄さんの気持ちも安定し、発作も収まるかもしれない。

弾む気持ちで画廊の扉を開けると、既に男は待っていた。
そうだ、今日は朝からインタビューを入れていたんだった。

壁の絵を見上げて男が言う。
「この踊り子の絵は、ドガですか?」
「えぇ。お待たせしました」
「いや、私もさっき着いたところです。参りましたね、朝から雪とは」
「全くです。どうぞこちらへ。今、熱いカプチーノを持って来させましょう」
「それはありがたい」

10分後、コートを脱ぎ、髪を整えた私は、インタビュアーの男と執務室で向き合った。
オークの机には、湯気を立てたカプチーノのカップが2つ。それと、雪で濡れた『メルキュール・ド・フランス』が置かれていた。

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こうして、1980年、2月。
3回目となるテオへのインタビューは始まった。
ここからは、再び、インタビューアーである私の視点で話を進めよう。
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私はテオが机に置いた雑誌を目にして言った。
私:「拝見しましたよ。評論家のアルベール・オーリエに評価されるとは、お兄様の実力は本物です」

私の言葉に、普段、冷静さを崩さないテオも口を綻ばせた。

テオ:「嬉しいです。自分のことのように。耳の早いあなたなら知っているかもしれないが、今、兄はサン=レミの療養所にいます」
私:「えぇ。お兄様は、精神的にご自身を追い込んで仕事をされる方のようだ。お身体への負担も相当でしょう」
テオ:「焦らないようにと伝えてはいるのですが…」

私:「あなたはパリで共に暮らしていた時から、アルル、そして現在に至るまでお兄様を金銭的に支えてらっしゃいます。もちろん、精神的にも」
テオ:「えぇ…。でもそんなことは、たいしたことじゃない。兄は、私にそれ以上のものを与えてくれます」
私:「それは、本心でしょうか?」
テオ:「どういう意味です?」

私:「そういえば、お子様が生まれたとか。おめでとうございます。このあいだのご結婚といい、めでたいことが続きますね」
テオ:「……」
私:「そんなに警戒しないでください。あなたはこんな立派な画廊の経営者だ。家に帰れば美しい妻と可愛い娘がいる。これからお金も必要だ。家族との時間も取りたい。そしてあなたはふとこう思う」
テオ:「……」
私:「邪魔だな、と。最初は支援もしていたが、家族ができれば気持ちも変わる。働きもせず、稼ぎもなく、その上精神を病んでいて、金だけ貪る4つ歳上の絵描きが疎ましくなってくる」
テオ:「ハハッ。面白い妄想です」

私:「そうですか。では戯れついでに1つ聞かせてください」
テオ:「何でもどうぞ」
私:「お兄様が、フィンセントが、精神を病んだのはあなたのせいなのでは?」
テオ:「さっきから、どういう意味で質問されてるのか、わかりません」
私:「そうでしょうか?あなたは気づいてるはずです。あなたから結婚や子供が産まれたと聞いて、お兄様が内心どう思ったか」
テオ:「喜んでくれましたよ。娘が生まれた時は、アーモンドの花の絵も送ってくれました。背景のブルーがとても美しいんです」

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私:「喜んだ?表面上はそうでしょう。けれど内心どう思ったか。あなたに家族ができて、自分への経済的な支援が打ち切られるのではないか、そんな不安に襲われたんじゃないでしょうか?誰よりもお兄様を理解しているあなただ、そのことに気づかないはずがない」

テオは、私を見ると、ゆっくりカプチーノを飲んだ。
カップをソーサーに戻すと、優雅にハンカチで口を拭った。

テオ:「仮にそうだとして、それは私たち家族の問題です。あなたには、関係がない」
私:「またそれですか。しかし、お兄様はこれから世の中に認められていく存在です。そのお兄様をあなたが精神的に苦しめているとなれば、これは、「パリの芸術界にとっての問題」です」

テオはじっと私を見つめた。
そして俯くと、僅かに、微笑んだように思えた。

テオ:「では、私に、フィンセントの為に殉死しろと?」
私:「……」
テオ:「自分の幸せも何もかも犠牲にして、兄の為だけに尽くせと?」
私:「いえ、そんなことは言ってない。あなたは、あなたの人生を生きればいい」

テオ:「私に『自分の人生』など、あったためしがない。兄を追って画廊に入り、兄が画家を目指したあとは兄の代わりに店を支えた。そして画商として、兄を世に出す為に力を尽くしてきた」
私:「ご苦労様なことです」
テオ:「ふざけるな!!」
握られたテオの拳がわなわな震えていた。

私:「気に障られたのは、私が言ったことがあながち「妄想」でもなかったからでは?」
テオ:「あなたにはわからない。わかるはずがない、わかられてたまるものか。兄が舐めさせられてきた辛酸を。兄が問題を起こすたび、後始末をさせられてきた私の苛立ちを。それでも兄を嫌うことも無視することもできない私の苦しみを。そして、世界を変えうる才能に、世界でただ1人気づいた時の身が震えるほどの喜びを。それが自分の兄であることの誇りと畏れを」
私:「………」
テオ:「その全てを。あなたにわかるはずがない」
私:「……」

私:「せっかくなので、冷めないうちにカプチーノを頂いてもいいですか?」
テオ:「………どうぞ。うちのは蜂蜜を混ぜているんです。きっと温まるでしょう」

私:「これは美味しい。カフェでお金を払うのが嫌になる味だ」
テオ:「いつでも、『カフェ・ブッソ=ヴァラドン』へどうぞ」
私:「ハハッ。それはありがたい。ところで、ブリュッセルで開かれた20人展、拝見しましたよ」
テオ:「兄も6点出品していました」
私:「えぇ。いつかあなたが仰っていた、燃えるようなひまわりの絵も、出品されていましたね」
テオ:「あの展覧会で、初めて兄の絵が売れたんです。葡萄畑の絵です」

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私:「それは素晴らしい。今回の雑誌掲載といい、お兄様の絵は着実に評価されつつありますね」
テオ:「えぇ。もう少しです。もう少しで、私たち兄弟の夢が叶います」
私:「お兄様の画家としての成功が、あなた自身の夢でもあると?」
テオ:「私は私の人生を兄の為に犠牲にしたつもりはありません。兄の為に出来る限りのことをすること、それがそのまま私の人生であり、その意義なのです。妻も、それは理解してくれています」
私:「素晴らしい。あなたの支えと、画商としての力があれば、きっとお兄様は成功するでしょう」
テオ:「私も、そう信じています。この画廊の、一番大きな壁に、兄の絵が飾られるのも、そう先のことではない。皆が、兄の絵を見にやってくる。そんな日も、そう遠くはない。私とフィンセントは、10年前からそんな日を目指して歩き続けてきました」

私:「ところで、サン=レミでのお兄様の様子はいかがですか?時折、発作も出ているようですが」
テオ:「えぇ。私もそれが心配で。発作が起きない時に、集中して作品を描いているようですが…今、無理しては元も子もない。兄には、焦って欲しくないんです。焦らなくとも、描いていれば、いずれ世界の方から兄に気づく。彼の才能は、世界を振り向かせる力がある」
私:「それは流石に、買い被り過ぎでは?まだ、絵が一枚、売れたに過ぎません。雑誌に小さく、紹介されたに過ぎません。なのになぜ、そこまで言い切れるのですか?」
テオ:「それは私が、テオドール・ファン・ゴッホだからです」

私は彼を見つめた。
自信に満ちた言葉とは裏腹に、どこか寂しそうな瞳だった。

私:「あなたは月のようだ。私も、お兄様のこれからの活躍には、大いに期待しています。また、話を聞かせてください。そうだ、今度はお兄様も一緒がいい」
テオ:「わかりました」

私はポケットから小さなハリネズミのぬいぐるみを取り出すと、机に置いた。
私:「オルゴールです。娘さんに、聴かせてあげてください」
----------------------------------------------------------------雪の舞う、モンマルトルから半年後。

1890年、8月。
オーヴェル=シュル=オワーズの、麦畑は風に哭いていた。
1人の絵描きの死を悼むように。

こんな時なので、流石に断られるかと思ったが、意外にもテオは私のインタビューを受けてくれた。

オーヴェルの麦畑を見下ろす丘で、最後となったテオへのインタビューは始まった。
----------------------------------------------------------------私:「この度は、その、何と言えばいいいか…。とにかく、こんな時にインタビューを受けていただき、ありがとうございます。今日は、お兄様の話を沢山聞かせてください。それを記事にすること、それが私にできる弔いです」
テオ:「ありがとう」

私:「少し、やつれたように見えますが、お身体は大丈夫ですか?」
テオ:「心配ありがとう。兄が亡くなってから、色々、バタバタしていてね」

私:「お兄様の回顧展をやられる予定だとか?」
テオ:「えぇ、それで走り回っていてね、実際、悲しんでる暇などありません、ハハ」
私:「……」
テオ:「会場については、ポールに協力を求めたのですが、良い返事をもらえませんでした」
私:「画商の、ポール・デュラン=リュエルですか?」
テオ:「えぇ、彼は印象派の画家達の味方です。沢山の画家が彼の恩恵と支援を受けています」
私:「きっと、良い場所が見つかりますよ」
テオ:「えぇ。もし見つからなかったら、その時は私のアパートでやります。どうしたって、最後に兄の作品を皆に見てもらいたいんです」

私:「最後ではないですよ。これからだって、お兄様の作品は人に見られるでしょう」
テオ:「そうでしょうか…。私は、約束を果たせなかった。世界が振り向くどころか、自分の画廊の、一番良い壁にさえ、兄の絵を飾ってやれなかった。私は…私は…」

私:「あまり、自分を責めないことです。まだ何も、終わってやしない。これからです」
テオ:「兄に、言われたことがあるんです。お前は嘘つきだって。ハハ。ほんと、その通りでした。私は、自分だけ幸せになって、兄をここ、オーヴェル=シュル=オワーズに置き去りにしてきてしまった」
私:「そんなことはない。「星月夜」も「二本の糸杉」も「夜のカフェテラス」も「ひまわり」の連作も、みんなみんな、あなたがいなければ生まれなかった」

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テオ:「私は、何もしてない。描いたのは、フィンセントです」
私:「そんなことはない!あなたはお兄様を経済的にも精神的にも支え続けた。あなたでなければ、出来なかったことです。今回のことは、誰のせいでもない。もう、自分を責めるのは、やめてください」

テオ:「あなたもご存知の通り、私は画廊の上層部と対立していました」
私:「えぇ。新しい画家達の為に壁を割くこと、それがこれからの画廊の役割だと、あなたは常に仰っています」
テオ:「けれど、それはなかなか理解してもらえません。だから私は思い悩んで兄に相談したんです。いっそ、ブッソ=ヴァラドン商会を辞めて、独立しようかと」
私:「……」
テオ:「兄なら、喜んで賛成してくれると思ったんです。兄はもともと、今の画廊の在り方には否定的でしたから」
私:「なるほど。でも、そうなると、あなたまで経済的に不安定になりますね」
テオ:「その通りです。兄はそのことを心配しているようでした。また、私の独立のことで、妻と私が揉めることも心配していました」
私:「想像は、つきます」
テオ:「私はその時少しだけ、ほんの、少しだけ…兄を軽蔑しました」
私:「……」
テオ:「私は兄が画家として成功する夢を支えてきました。だから1つくらい、1回くらい、私の夢だって、応援してくれてもいいと思った。なのに、自分への仕送りの心配をするなんて…」
私:「……気持ちは、わかります。そう思ったところで、誰もあなたを責めないでしょう」

テオ:「私は…私は…結局最後の最後で、兄を裏切ったんです」
私:「話が、飛躍し過ぎのような気がします。あなたが独立を考えたのだって、長い目で見ればお兄様の為です。自由に壁が使えるようになれば、お兄様の絵だって掛けられる。何もブレてはいません。何も、あなたが恥じることはない。お兄様だって、あなたを責めなどしない」

私:「最期に、お兄様と話は出来たのですか?」
テオ:「えぇ、7/28にガシェ医師からの手紙を受け取り、オーヴェルへ向かいました。私が行った時、兄はまだ生きていました」
私:「お兄様はラヴー旅館の屋根裏を借りていたんですよね?」
テオ:「はい、その部屋のベッドで、兄は横になっていました。私と兄は、色んな話をしました」
私:「差し支えなければ、どんな話か、聞かせてくれませんか?」

テオ:「兄は、私と妻と、子供のことを心配していました。自分の身体がこんなことになってるのに…ほんと呆れた…優しいんです、フィンセントは…誰よりも優しいんです…何で、何で…」
テオはここで、被っていたハットで顔を覆った。

私:「私はあなたが羨ましい」
テオ:「……」
私:「結局私は、会うことができなかった。私も、会ってみたかった。フィンセント・ファン・ゴッホ……あなたが慕い続けた、自慢のお兄様に」

テオはここでようやく笑顔を見せた。
テオ:「ハハ、きっと、実際会ったら5分で嫌気がさしますよ。なんせ兄ときたら口が悪い。人の神経を逆撫ですることばかり言うんです。それにこっちの話は聞いてくれない、自分の話ばかりです」
私:「……」
テオ:「ほんと、酷いんです。いつかの夜なんて、部屋でいきなり、アブサンの空き瓶を投げつけられたんです。とんでもないですよ、全く、本当に、勘弁して欲しいです。あんな兄と関わるなんて、もう2度と2度と…」
私:「………」
テオ:「どれだけ願ったって、もう2度と、兄は私の前に、現れてくれないんです」

テオは、それから暫く黙っていたが、ぽつんと呟くように言った。

テオ:「寂しいです」

その一言が、今の彼の全部に思えた。

テオ:「回顧展に、来てください」
私:「必ず」

オーヴェル=シュル=オワーズの丘を渡る風に吹かれて、テオの髪がたなびいていた。
その横顔は心持ち、インタビューが始まる前よりは、スッキリして見えた。
----------------------------------------------------------------これで彼との物語は終わりだ。
最後のインタビューから数ヶ月後、慕い、支え続けた兄を追うように、結局テオも彼岸へ渡ってしまった。

私はあの夏の日から一度も、オーヴェル=シュル=オワーズへは行っていない。


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