見出し画像

『保健師』というしごと


#自分で選んでよかったこと

これは、この企画がなくても
いずれ書こうと思っていた事だった。
書きたい事だった。

「自分で選んでよかったこと」という企画テーマを見て (前書き)

正直、自分は人生の多くを
自分で決めてこなかった、と思う。
自分のことなのに。
人生なんて大きなことではなくても、
休みの日、何を着るのか、とか。
何を食べる、どっちにする、どこに行く、
塾選び、学校選びなどなど…。あらゆること。

過保護な、過保護・過干渉すぎる親任せにして、
都合よく親のせいにして
自分で決めることなく生きてきた。
その決められたことが、正直嫌なこともあったけど、
いうこと聞いておけば大体大きな間違いはないし、
自分は親任せに生きることが当たり前になっていたせいか、
優柔不断にも程があり、決めてもらったほうが正直楽だった。
いわゆる親が敷いたレールに沿って。と言うやつかな。

父親はとにかく学歴と地位と権力を実力で手に入れてきた人。
それは、ある方面から見れば尊敬。自分にはとてもできない。
そして父は、私に同じことを求め、加えていずれは 「良妻賢母」 という、今や使っていいかわからないようことを求める人だ。
3歳神話を信じている、そしてそれを押し付けてくる、妻と子が何不自由ない暮らしをさせられる相手でないとだめ。と言っている人。

母は、自らのさまざまな惨めな経験から
自分で強くたくましく
何かあったときに、子どもがいてもお金等のためだけに辛い思いをしなくて済むように、『何か資格を取りなさい。』
人のためになることをした方がいい。とそればかり小さい頃から
言われ続けていた。
それだけは頭に残っている。

#自分で選んでよかったこと  を書きたい理由

結果、「資格」ということは母の言うとおりになったが、
それは結果であり、
現在ぺしゃんこになって休職中だけど、
今の仕事を選んだのは、他の誰でもない自分。
自分で決めた、と自信を持って言えるもの。
そしてその選んだ道は、いまは行き先不明だけど
とても学びが多い道。
人生で、この職業に巡り会えたことは自分にとって大きな
獲得であり、感謝。
そして、自分の誇りのようなものだった。
自己研鑽は必要不可欠だし、決して楽な仕事でもない、
とても責任のあるしごと。
だけど。人として生きていることを感じられる、自分にとっては魅力あふれる職業だ。

いまは、こんなぺしゃんこでボロボロだけど。
だから #自分で選んでよかったこと として書きたかった。

『保健師』という仕事に行きついた道のり


将来何になろう。
そんなことをぼんやりと考え始め、夏休みの宿題にも
オープンキャンパス見学、なんかがあった、高校一年生の夏。
医療職かな、心理系かな、普通に理系の学部かな…。とぼんやり。

祖父の突然の末期膵臓癌の告知

亡くなる前年末に末期の膵臓癌がわかった祖父。
祖母や母、皆総出でいろいろな病院や治療法を探したが
沈黙の臓器、と言われる膵臓癌の末期。
希望はほぼなく、
時間は刻一刻と過ぎていった。

食事量、体力、活動量が瞬く間に低下し、
今思い返せば、どう考えても
自宅で最期まで過ごしたかっただろう祖父は、
祖母にこれ以上迷惑をかけたくはない、と
自らホスピスに入ることを決めた。
つまり、施設での緩和ケアを選んだ。

祖父がホスピスに入所したのは、この夏の暑い8月初旬。
運がいい、とこんな時に使っていい言葉なのか、
高校生だった自分も夏休みだったため、
母が片道約80キロの道を高速を使って運転し
ほぼ毎日通えるだけ通った。
その日々の中には、いろいろな思い出があるが
ここでは割愛する。

だけど、看護師さんを含め、主治医の先生、いろいろなスタッフの方々が
患者である祖父だけでなく、
わたしたち親族にも同様に、
わたしみたいな、ただ親についてきた子どもにも、声をかけ、
心を向けてくださっていたことを覚えている。

将来を決める大きな体験

祖父はどんどん弱り、入所時は自立歩行も可能だったが、
あっという間に寝たきり、
そして痛みを緩和するための、モルヒネ等鎮痛剤の使用によって
確実に終わりが近づいていた。

もういつ終わりが来ても不思議でない、ある日。
母と私が祖父の部屋に泊まり込む日だった。
祖父の状態は非常に悪かったらしい。

夜中、怖くて眠れなくて起きていたら、
看護師さんが巡回に来た。
わたしはその様子を黙って見ていた。

祖父の聴診や観察を終えると
看護師さんが「○○ちゃん、こっちにきて」
と私をよんだ。
そして、
「おじいさまの心臓はいま動いているよ、
これを使うときこえるよ。きいてみる?」と。
あまりに初めての状況に戸惑っていると、
看護師さんが尋ねるように、聴診器をわたしに差し出してくれた。
耳に当ててくれた。
聴診器で人の心臓の音をきくことも初めての私。
祖父の心臓は確かに「ドクっ。ドクっ。」と音を立てていた。
ずっと眠ったまま、時々苦しそうにうめくだけ、と思っていたけれど
祖父の心臓は動いていて、まだ生きているんだ、
と、自分の耳できいて、きかせてもらって、
実感することができた。

明くる日、親族皆に連絡をし、
朝から、祖父の部屋に集まった。
そして、お昼過ぎ、
妻、子、孫、甥や姪など
多くの親族に囲まれて祖父は旅立った。

祖父は、寝たきりでも、いま確かに生きているよ、
ということを
きっと看護師さんは教えてくれたのかな、と思っている。
一生、忘れることができない体験だ。

祖父の心臓の音をきいたのはわたしだけ。

あの時の看護師さんの家族へのケアが、
わたしが将来を決めるきっかけを作ってくれた。

看護の道を志した

この出来事をきっかけに、
もちろん祖父へのケアにも感謝しているが、
わたしたち家族への気配りも自然としてくれていた、
いつも穏やかで、でも的確は看護師さんの姿、行動は
わたしの頭から離れなくなった。
そして、
わたしは看護の道を目指すことを決めた。

紆余曲折あり保健師に

無事、看護学科なるものに入学。
看護といっても
学ぶ分野は実にさまざま。
恥ずかしながら、看護学科に入るまで
「保健師」という職種を知らなかったわたし。
看護学科に入ったものの、正直現実を見て
挫けそうになり、将来を真剣に悩んだ。
退学し、別の道を探そうと本気で考えたこともある。
そんなとき。
『公衆衛生看護』という分野の、魅力と奥深さを感じ、
地域で生活するひとたちの、
「困ったときはとりあえずこの人」の一人になりたい、
地域に住むすべての人たちにより良い生活を送ってほしい。
そう、こころから思って保健師として働くことを目指した。
自分のこれまでのさまざまな人生の経験から、
特に母子保健や精神保健、そして、
何よりも、予防的視点から関わること、
生活に寄り添うこと、の大切さを感じ、
興味関心を持った。

看護師に加えて、保健師の資格も取ることを決め、
無事希望していた今の職場からも内定をもらい、
国家試験も通過し、
保健師として人生を歩んでいた。
歩んで行く予定だった。のです。が。

おわりに

人生は何があるかわからない。
新型コロナ感染症(COVID-19)のように
突然の災害のようなものに見舞われ、
そのせいにするつもりは毛頭ないけれど、あの時の業務はいま冷静になって思い返すと、普通とは言えなかった。
けれど、仕方のないこともある。
あのときはあれが、あれも、わたしの仕事だった。
業務命令、突然の兼務命令。
そして、まだ経験や人格未熟なわたしは
それゆえにいとも簡単につぶれてしまっていまに至る。
自分の未熟さゆえ。それがすべて。

ただいま休職中。
はっきり言って、ぼろぼろのぺしゃんこです。
だけど。保健師の仕事を選んだことは後悔していないし、
むしろ誇り、のようなもの。
仕事をしていた時には多くのことを、多くの人々から
教えてもらい、多くの経験と学びを得た。
これは保健師として働いていなければ得られなかった人生の学び。

幾度となく人生を諦め、放り出そうとしたけれど、
心のどこかで、
いつか再起して、
また何らかの形で社会に貢献できるようになりたいと
思っている。

いつかだれかのために、あなたの持っているいのちという時間を差し出すときに、あなたの耐えた経験が必ず生きる。ですからそのためにも、耐えることをあきらめてはなりません。

いのちの使いかた【新版】日野原 重明    

人生は失敗ばかり、後悔ばかり、
という人ほど
いのちの使いかたがあるのです

いのちの使いかた【新版】日野原 重明

祖父は日野原先生が設立された、緩和ケア施設で旅立ちました。
当時、日野原先生はご存命で、施設へ定期的にいらっしゃっており、
お会いできるのを祖父は楽しみにしていました。
しかし、タイミング悪く、願いは叶いませんでした。
後に、日野原先生は、祖父の主治医の先生や看護師さんから祖父の話を聞き
立派な台紙に祖父へのメッセージを書いてくださいました。
今でも仏間の遺影の横に大きく飾ってあります。
みなさま、本当にありがとうございました。


#自分で選んでよかったこと

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?