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ASD女子の悩み (昔から今までの困難)

 私はASDの特性を持つ20歳の女子大学生です。ASDとは"自閉スペクトラム症"という発達障害を指しています。この記事では私と同じようにASDとして頑張って生きている方々のために書こうと思いました。

 ASDの基本症状は3つあります。
①対人・社会性の問題 (これが中核障害)
②コミュニケーションの障害 (異質さ)
③反復的行動などの行動の柔軟性の欠如 (執着や常同、想像性の障害)

このことによって生まれる困難は

 ・「助けて」「嫌だ」が言えない。
 ・言葉に裏があるのが分からない。
 ・"友達"より"もの"が好き。
 ・限定された興味への過度な没頭
 ・自分の感情をうまく対処できない。(感情の起伏が激しい)
 ・集団行動が苦手、孤立しやすい
 ・同じものばかり食べる。
 ・好奇心から衝動性を引き起こし、抑えられない。
 ・女の子は同性と仲良くするのが苦手

などがあります。


 私自身、今思い返せば保育園の時から困っていたと勉強を通して気付かされました。そんなASD女子の私の今までの人生についてまずは書いていこうと思います。




5歳 ~大好きだった父との別れ~


 私が5歳のとき父と母は離婚をしました。5歳なりにとても悲しんだのを今でも覚えています。原因は父のDV・虐待でした。父は衝動性と多動性が強い人間でした。父から叩かれた記憶は今でも微かに残っています。それでも父のことを嫌いになった事は本当にありませんでした。そんな私にとって私の意思が何一つ尊重されない突然の別れは本当にしんどいものでした。

 6月頃だった記憶があります。母の祖父母の家に行こうと母に言われ、久しぶりに祖父母の家へ行けるとワクワクしながら子供なりに自分の支度をしていたのを今でも覚えています。ピンク色のミニーちゃんが描いてある小さいスーツケースを大人に憧れて外で持ち歩く事が好きでした。泊まりだからこそスーツケースが使えるため、嬉しく思っていました。
家の雰囲気と私の気持ちは異なっていました。普段泣かない父が泣いていました。嘔吐していました。私はいつも通り父も一緒に行くと思っていたためなぜ泣いているのか全く分かりませんでした。今後の人生で実父と会う日が二度と、絶対に来ないなど分かっていませんでした。家の中で母に言われたことは「今日はお兄ちゃんと3人で行くんよ。」でした。

 本当のことを母から聞いたのは最寄りの在来線に乗った時でした。電車に乗る前、当時テレビで放送されていたアニメ『バトルスピリッツ』のカードが購入出来るガチャガチャを兄と回した記憶があります。きっと近くのショッピングモールに寄ったのでしょう。兄がレアなカードを出して喜んだのを覚えています。何より「パパに教えたい!」と言った事を1番覚えています。

電車に乗った時、母が正直に今後のことを言いました。「ずっとおじいちゃんの家に泊まるからもうお父さんとは会えないよ。」と言われ兄と電車の中で泣いたのを覚えています。
電車の中で父と最後の電話をしました。泣きながら「バトスピのレアカードがあたったんだよ。」と父に伝えました。私が父の声を最後に聞いたのはこの日でした。

先生に「助けて」が言えなかった保育園児時代

 園児の頃同じクラスの男子複数人に皆が遊ぶホールで「裸を見せて、服をあげて。」と言われたことがありました。今思い返せば、心の奥底では嫌だと思っていたけどあの状況で「嫌だ」と言うといじめられるのか、すんなりやめてもらえるのか先のことが何も分からなくて言われたことをそのまましていました。その頃の私には選択肢がそれしか無かったなと思います。そんな日が数日経ってから担任の先生が気付き、止めてくれて「嫌なら先生に話しにきてよ?」と言われました。
 今思い返すとその男子数名が腹立たしいしいですが当時は状況と自分の感情が理解できず、本当に何も分からなかったんですよね笑。

ADHDの兄と同じ学校に通うのが苦しかった小学生時代

 小学生になり兄と登下校を一緒にするようになりました。兄はADHDで父と似ており、暴言・暴力が絶えない人でした。家の中で毎日暴言暴力を受けていました。そんな兄と学校でも会う、過ごす時間が増える。
低学年の私なりに地獄を感じていました。綺麗な勉強机・ランドセルを買って貰えた事で生まれたドキドキも消えて不安と恐怖を背負うようになりました。下校前、生徒全員が集まる会のときに皆の前で暴力を振るわれ、暴言を吐かれてとても恥ずかしい思いをした事を今でも覚えています。低学年なりに周りの生徒との違い・劣等感や兄と過ごす時間が増えた事で苦痛を感じ、その時から「死にたい、消えたいな。」と思っていました。なんで先生は止めてくれなかったんだろう、なんで見つけてくれなかったんだろうと今なら思います。そんな生活を送っていたのでストレスも異常でした。小学二年生の時、眠る前に胸が苦しくなり、泣いて過呼吸のように息をしないと危ないと感じて号泣した夜を覚えています。毎日一方的に受け続けないといけなかった兄の暴言暴力に限界を感じていました。

 小学生のときは特性の凹凸が目立たず、女の子とも仲良くしていました。男子とサッカーをして遊ぶ日もありました。田舎に引っ越してきたので保育園の時からクラスは一つしかなかったので同じメンバーで数年過ごしました。
小6のときは女の子とよく外で遊んでいました。その時によく遊ぶ施設の職員の男性と仲良くなっていました。

居場所を失う中学生時代

中学生の時は思春期に入ったことでも悩みも増えました。ですが、

 ・高校生になった兄の非行に巻き込まれる
 ・止まない兄と母との喧嘩
 ・祖父母の離婚による家庭崩壊 

などで本当に死にそうになっていました。学校でも部活の先輩から高圧的な態度をとられてどうしたらいいのか分からなり頭が真っ白になったり、1つしかないクラスの女子のグループ化が始まりASDの私はそこから女の子と馴染めなくなって学校が徐々に嫌になっていきました。
興味が無い話は建前であっても共感はできない上に興味がどうしても持てない、話が合わない、空気が読めないため徐々に他の女の子とのズレを感じ始めていました。
 家も地元も嫌いになり、高校生になったら遠くの高校に行き家から離れるつもりでしたが母が「どうせ家から出たいんでしょ!」と怒り、もう家も学校も安らげないし居場所が無いから保健室によく行ったり、どんどんネットにハマり居場所を求めるようになりました。
SNSに依存して使用時間が長くなると母から端末を取り上げられ、"母に居場所をとられた"と認知してよくパニックになっていました。

はぶられた夢のJK時代

 高校は地元の人が少ない高校を選びました。私にとって人生の転換期でした。憧れだったJKになれることが楽しみで楽しみで仕方がなかったです。その興奮が私にとってよくありませんでした。ASDの積極奇異型になり同級生と距離を詰めていました。
クラス変えが今まで一度も無かった学校生活だったという事もあり、距離感をつかむのが下手な上に女子が盛り上がるドラマや俳優の話題には全く興味が無いし、入学してすぐにいじめのターゲットになったクラスの子を女子の集合写真にわざと周りの女子が呼んでいなかったのに気付き、「一緒に行こ?」と彼女を誘った事や「なんで仲間外れにするの?」「まだ何も知らないのにどこが嫌いなの?」と当時仲良くしていたいわゆる1軍女子に言ったりして私が"空気が読めなくて、距離感がおかしい子"のように思われたのか、いじめのターゲットが私になっていきました。
当時彼女から聞いた言葉は「だってみんなで嫌おうって決めたもん。」でした。他にも私には考えられなかった言動をとっていたので馴染めませんでした。
「私は間違ったことはしていない。」と強く自分を信じようとしていましたが時間がたつにつれ劣等感が強くなり、ボロボロになっていきました笑。

 劣等感しか感じなくなった私は「どうしたら皆みたいに皆と仲良くできるのか、仲間に入れてもらえるのか。」とずっと授業中も考えていました。行き着いた答えが"可愛くなれば仲間に入れてもらえる"でした。
 兄から毎日暴言を吐かれていた当時の私は兄から受けた暴言を幹として自我を形成していました。「私が可愛くないから皆私を仲間外れにするんだ、可愛くなれば皆と対等に接してくれるんだ。」と考えた私は美容に執着しました。

 ・高値の美容液を買う。
 ・洗顔などスキンケアを見直す。
 ・ヘアケアを行う。

仲間外れからしんどい思いはしていましたが、ここまではJKの悩みらしいと思います。ですが何より私を一番苦しめたことはダイエットでした。

「1gでも重さが変われば計算しているカロリーがかわるから私のご飯には手つけないで。」と家族を困らせ、夕食を食べる時にはかりを用意して重さを計測してカロリー計算をしての繰り返しでした。

摂食障害になっていきました。

お小遣い全てを食べ物に使いたくさん買って、誰もキッチンにこない深夜に吐き底を作り、吐き気がするまで食べて飲んでトイレで吐く。食べるのが怖くて母の前で泣いたり、食べないとき・食べるときの波が激しくて母も高3のときに娘が摂食障害になっていることに少し気が付きました。
約10kg痩せてもコロナの自粛期間に入ったため人に会わない安心感・あと何日で地獄が始まるという不安や焦りで自暴自棄になりリバウンドして登校日を迎えたので、結局自己肯定感もどんどん下がっていきました。

 夢だった華のJKが今までの学生生活の中で一番しんどかったです。

独りになれた大学生

 高校の卒業式まで嫌な思いをしていましたがようやく嫌だった家・地元を離れて他県で暮らせる大学生になりました。JKの途中から自分がASDだと気付いていたので大学で1番最初に仲良くなった子たちとも結局上手くいきませんでしたが、(当時はもちろん悲しかったけど)今は「そもそも女子のグループが苦手だから離してくれてありがとう」と思っています。一人暮らしもストレスが少なく一番幸せな生活を送れています。

父の突然死のショックから人生を棒にふるう冬

 1年生の秋に、夏から連絡をとっていた父が原因不明で突然亡くなりました。数週間生きた心地がしませんでした。兄は高校生の時に父と再会していましたが私は一度も再会出来ませんでした。大学生になったからずっと会いたかった父の元へ母のことを気にせず一人で会いにいけると思っていました。

ずっと会いたかった人がずっと会えない存在になりました。

その時同時進行で予測出来なかった性被害を受け、ボロボロの精神状態になり「父が死んだなら死んでもかまわない、会いに天国へ行きたい。」と思い続け人生がどうでもよくなり、躊躇なく水商売で働き始めました。
心身共に傷つく事に慣れていた自分、自傷癖があった自分、周囲に適合出来ない自分、性被害に合った自分、可愛くなれば人から愛されると思っていた当時の私には合っていると思っていました。

今は辞めて普通の女子大生として生活を送っています。ですが怖い思いをして社会の現実も知り、19歳にとっては重い経験でした。
それほど辛い思いをしないとまた社会から離れようとするかもしれないので自分を強くするための良い経験だったと学び、飲み込んでいます。

ASDで悩んでる女の子へ

 ASDは生きているだけでたくさん困難があり時には死にたいと思うかもしれません。今の私も悩みが尽きず「いなくなりたい」と思う日もあります。もう「いなくなりたい思考」が癖付いたのかもしれないです。
人間関係がいつまでもいつまでもうまくいかなくて生きている間は終わりが見えないような課題で辛くて理解されにくい悩みで…。
同性と仲良く出来る事に憧れもあるが出来ない。周りの子に何がダメなのか教えてもらえないから分からない。そんな悩み私もありました。

私自身本当は女の子より男の子といる方が楽しいです。嗜好が男性的なので気が合うからです。だから周りの女の子からさらに悪く思われることもありました。
恋人に束縛をされ生きづらくなる時期もあります。大好きな子が男子と仲良くしていたら不安になりますよね。

けど、私は私。あなたはあなたです。

20歳になった今では他の大学生の目は気にならなくなりました。そうさせてくれたきっかけはHIPHOPでした。強くて筋の通った歌詞や生き方、女性でもたくましくて強い"女子の群れ"を一切感じさせない強さが私にはビビッときました。そこからHIPHOPにハマり強い考えを持てるようになり周りの目を気にせず過ごせるようになりました。

きっかけは何でも良いのですが、私は世界を広げる事で生きやすくなった事を伝えたいです

 そして「自分、ASDかも」と思ったら苦手なことから離れる環境づくりをすることも大切だと思います。高校生までは難しいこともありますが

 ・グループワークの授業は履修しない。
 ・全生徒を街で歩いてる他人と一緒だと思い、目も合わせない、気にしない。
 ・悪口を仮に言われても「暇だから言ってるんだろうなかわいそう。私の人生のモブキャラなのに何喋ってんの?」と思う。
 ・好きなことを見つける (これが難しい人もいる…)

このように自分軸で生きられるようにしたら友人関係の悩みは本当になくなりました。恋愛に関しては恋人に執着してしまうところがあるのでなかなか悩みは尽きませんがそんな自分とも頑張って向き合っています。

特性で社会になじみにくいですが
私たちは私たち

自分らしく幸せに生きましょう。


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