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自分史

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2018年9月の記事一覧

自分史第2弾~長い闘病生活~

自分史第2弾~長い闘病生活~

鹿児島大学病院(以下鹿大)に転院した僕は、約4年間も入院・退院を繰り返す日々を母と送ることになりました。母は、基本的に病院で寝泊まりを一緒にしてくれました。父は、母と僕を守るために仕事が終わった後に鹿児島まで高速で車を走らせて毎日のように来てくれていました。父は、この時のことを僕が大きくなった時に以下のように話してくれました。
「大輔のことはもちろんのことだが、母が体を壊さないか心配だった。でも、

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自分史第1弾~生まれた日~

僕は、1994年07月19日午後5時39分にこの世に生まれました。母のお腹から帝王切開で取り上げてもらいました。親戚一同喜んでくれていたと話を後々聞きました。
体重3195g・身長50㎝と至って普通の赤ちゃんとして元気に生まれたはずでした。ですが、生後7日で生まれた病院から国立都城病院に転院し最終的には鹿児島大学病院に転院することになりました。
転院の理由は、生後7日間ミルクを与えてもあまり飲まな

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自分史第4弾~教育熱心の母~

自分史第4弾~教育熱心の母~

5歳から6歳の3月にかけて「ひかり園」と「名峰保育園」に通わせてもらいました。どちらとも楽しかったです。
 ひかり園では、同じような障害を抱えた同世代の子やそのお母さんと一緒に遊ばせてもらいました。ひかり園での好きな遊びは、高速ブランコでした。高速ブランコというのは、自分で食わることができない推進力を先生にかけてもらって、ブランコで遊ぶというものです。それは、僕は超楽しかったんですが、先生たちは必

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自分史第3弾~4歳から問題児本領発揮~

僕が入院生活を終え、自宅での生活をするためには、母の努力がありました。今はNGらしいですが、当時の母は点滴の仕方といったような処置を看護師さんから学んでいました。今でも母は、病院にいき注射の処置を見てると、「あの看護師さんよりも私のほうがうまいわ~。教えてあげようかしら」ということを言います。処置を学んだ母の努力のおかげもあり、僕は月2・3回のペースで鹿児島大学病院への通院で退院を許されました。当

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自分史第5弾~保育園で得た経験から僕からのメッセージ~

5歳半からひかり園と並行して通いだした名峰保育園は、何も抱えてない人たちとの生活でした。僕は、それまで俗にいう健常児と一日の大半を生活することはありませんでした。通いだしたとき、僕自身が周囲の子たちから不思議そうな目で見られるのが不思議でした。僕にとっては生まれてからこの体が普通で、周囲の子たちのほうが異常に見えました。この時は、何が普通かわかりませんでした。並行して通っていたひかり園は、障がい児

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自分史第6弾~6歳児の大きな決断~

5歳児半から通いだした1年半の保育園生活はあっという間でした。年長組になったときぐらいから、周囲の友達は「来年から小学校だね」と騒ぎ始めました。僕は、この楽しい保育園生活がずっと続くと思っていたので「え?何のこと」って感じでした。僕は、なんとなくこのまま同じように学校も通うんだと思ってました。でも、決断を迫られることになります。それは、支援学校に通うか一般の学校に通うかのどちらを選ぶ権利を得たので

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