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悔い改めよ、天の国は近づいた(2)(第二説教集20章1部試訳2) #184

原題:An Homily of Repentance, and of true Reconciliation unto God. (悔い改めと神との真の和解についての説教)

※第1部の試訳は2回に分けてお届けしています。その2回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です):
(11分22秒付近から22分33秒付近まで)




衣でなく心を裂いて立ち帰るべし

 ダビデは自身の罪を私的に嘆き悲しむに甘んじることはなかったのですが、このことを知っていて、罪を罰するにおいて『詩編』のなかで公に神の義を明らかにしています(詩25・16~18、同31・19、同51・3、同102・2~3、同142・7)。ここで彼は神の教えを乱用してしまった者に、より大胆に罪を犯させるままにしてもいます。そのような者は真の悔い改めから遠く離れ、自身の罪をよく知ることも告白することもなく、また罪を嘆くこともなく、極めて不敬な栄光をもって罪のなかで生きることになります。悔い改めは表向きの嘆きや悲しみの行いのみで成り立つのではありません。神は問題の根本がどこにあるかを明らかにされ、「あなたがたの衣でなく心を裂き、あなたがたの神、主に立ち帰れ(ヨエ2・13)」と述べられています。自身にとって耐えられないことが起こったとき、東方世界では自身の衣服を引き裂くのが常でした。しかし偽善者は時としてこのことを曲げて、あたかも悔い改めがすべて表立った行いによって成り立つかのようにしました。神は目に見えないものこそ悔い改めとなると教えておられます。人は心のなかでこそ悔いるべきで、また罪を大いに憎んで嫌うべきであり、罪から身を守るために、自身が離れてしまった主なる神に立ち帰るべきです。ダビデが証ししているように、神は表面だけの行いに喜ばれることはなく(詩52・6~7)、深く悔いる慎ましい心を求められており、決してそれを蔑むなどなされません。表向きだけの行いになど全く意味はなく、わたしたちはそこから遠く離れて、そうではない方法で神の栄光のために仕えるべきです。

真の悔い改めには益も実りもある

 ヨエルはこの教えに加え、神の本性や権能に拠って立つところのみ心に適った道理を説き、真の悔い改めは決して益のないものでも実りのないものでもないとしています。もし悔い改めが無駄であるなら、人間の心はすべてにおいて弱く脆いものであるということになります。極めて特別によく気をつけて、自分のする悔い改めがすべて無駄なことであるなどと思い込むことのないようにしなければなりません。そうなってしまうことで突然の絶望が起こったり、性欲に任せた放縦さが罪を招いてさらに絶望に至ったりしないようにしなければなりません。そのようなことにならないようにと、ヨエルは神のみ恵みと善性を明らかにしています。神はいつも、速やかにご自身に立ち帰る人々をふたたび愛をもって受け入れる準備をなされています。ヨエルは神がモーセに対して「主、主、憐れみ深く、恵みに満ちた神。怒るに遅く、慈しみとまことに富み(出34・6)」と述べられたのと同じ言葉をもって、このことを明らかにしています(ヨエ2・13)。神はみなさんの苦しみとともにあってくださる方です。

神は恵み深く慈悲にあふれている

第一に、ヨエルは神が柔和でみ恵み深い方であられ、その本性から、罰するよりもむしろ善をなす準備をなされているのだとしています。これについては預言者イザヤのこの言葉も同じことを述べています。「悪しき者はその道を捨て、不正な者は自らの思いを捨てよ。主に立ち帰れ。そうすれば主は憐れんでくださる。私たちの神に立ち帰れ。主は寛大に赦してくださる(イザ55・7)。」第二に、ヨエルは神が慈悲によって、ヘブル語のとおりに言えば、慈悲のはらわたによってあられ、そこに子に対して親が持つ本来の愛情をみることができるとしています。ダビデもこのことについてはっきりと語っています。「父が子らに憐れみをもたらすように、主を畏れる者らに憐れみをもたらす。主は私たちが造られた様を知り、私たちが塵にすぎないことを覚えておられる(詩103・13~14)。」第三に、ヨエルが神は「怒るに遅く(ヨエ2・13)」と語っているのは「怒るに遅く、慈しみとまことに富む方(詩86・15)」であるということです。第四に、神は大いなる寛容によってある方であり、あらゆる善性をもった底のない愛によってあられ、わたしたちに善をなさることを喜ばれます。神は人間をお造りになってご自身の善を注がれ、天にある富を受け継ぐ者となされています。第五に、神は災いを思い直されます。言い換えますと人が悔い改めて神に立ち帰れば、神は思い返されてご自身が下そうとされた罰を取り消されるのです(エレ26・13)。

悔い改めを無意味とする誤った考え

 この点にかかわって言えば、わたしたちはある一部の者の忌々しい考えをたいした根拠もなく忌み嫌っているのではありません。神のもとに来て、み子イエス・キリストに接がれたのち、まちがって恐ろしい罪に落ちたら、そののちに悔い改めても何の益もなく、わたしたちにはもはや神と和解してふたたび恩寵や慈悲に受け取られるという望みはないと、邪なことにも無学で信じ込みやすい人々に説いている者たちがいます。彼らは人々に害を与える自分たちの誤りについて都合のよい根拠を示すべく、『ヘブライ人への手紙』の第六章と第十章、そして『ペトロの第二の手紙』の第二章を引き合いに出しています(ヘブ6・6、同10・26~27、二ペト2・20~22)。しかし聖なる使徒たちはこれらの箇所で、わたしたちがこの罪ある肉体を持っている限りにおいてついてまわる日々の過ちについて語っているのではありません。キリストとその福音から離れての、聖霊に対するもはや赦されることの決してない罪について語っています。知っているはずの真を完全に捨ててキリストとそのみ言葉を疎む者こそがキリストを磔にして嘲る者で、自身の完全な破滅に向かっている者であり、そのような者が悔い改めようのない絶望へと落ちます(マタ12・31、マコ3・28~29)。

心から悔い改める者は赦される

これが聖霊にかかわるものであることは聖書の多くの箇所からわかることであり、心のすべてをもって主なる神に立ち帰ることによって罪の完全な赦しに与ることが真に悔い改める罪人すべてに対して約束されています。このことの証左として、わたしたちは聖なる預言者エレミヤが語っていることを読んで知っています。「イスラエルよ、もし立ち帰るなら、私のもとに立ち帰れ‐主の仰せ。憎むべきものを私の前から除くなら、あなたは決してさまようことはない(エレ4・1)。」また、イザヤの言葉にはこうあります。「悪しき者はその道を捨て、不正な者は自らの思いを捨てよ。主に立ち帰れ。そうすれば主は憐れんでくださる。私たちの神に立ち帰れ。主は寛大に赦してくださる(イザ55・7)。」さらに、ホセアもこのように信仰深く訴えています。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂いたが、癒し、我々を打たれたが、包んでくださる(ホセ6・1)。」こういったことが、かつて神とともにありながら自身の罪や邪さによって神から離れてしまった人にとってよく合点のいくものであることは、極めて自然であり明白なことであるのです。

罪あるダビデは悔い改めて赦された

 わたしたちが立ち帰る神はわたしたちがともにあったことのない神ではありません。わたしたちは神のもとに立ち帰るのです。主なる神のもとに確固として立ち帰る人すべてに、罪の赦しという神の恩寵と慈悲が大いに与えられます。とはいえいったん神に立ち帰ってみ子イエス・キリストに接がれても、わたしたちは大いなる罪に落ちてしまうことが往々にしてあります。「この世には罪を犯さない正しい人間など存在しないのであり(コへ7・20)、」「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません(一ヨハ1・8)。」しかしわたしたちは悔い改めをもってふたたび立ち、命を向き直す強い意志をもって神のご慈悲へと向かうことができます。神に確かな信頼を置き、み子イエス・キリストへの信仰を持つならば、そこには神の赦しへの確かで揺るがない希望があり、それによってわたしたちはふたたび天の父の愛に受け取られます(使13・37~39)。ダビデは「私は僕ダビデを見いだし、聖なる油を注いだ(詩89・21)」あるいは「私はエッサイの子ダビデを見いだした。彼は私の心に適う者で、私の思うところをすべて行う(使13・22)」と書かれています(サム上13・14、サム下7・8)。これはダビデへの大変な賛辞です。肉体をもってこの世にやって来られるメシアにかかわる約束をダビデが固く信じていたということと、そう信じることによって彼が義とされて、来るべきわたしたちの救い主イエス・キリストに接がれたということもまた、ほぼ確かなことです。しかし後に彼は恐ろしくも堕落し、極めておぞましい不貞と忌むべき殺人を犯しました(サム下11・3~5、同11・14~17)。それでも彼は「私は主に罪を犯しました(同12・13)」と嘆いて赦され、ふたたび神の愛を受けました。

罪あるペトロも悔い改めて赦された

 また、ペトロに目を向けましょう。彼があの否認の前から救い主イエス・キリストに接がれていたことは誰も疑わないでしょう。これは彼が自身の名において、また他の使徒たちの名において救い主イエス・キリストに返答したことによってよくわかります。キリストは使徒たちに問われました。「イエスは十二人に、『あなたがたも去ろうとするのか』と言われた。シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています』(ヨハ6・67~69)。」神の独り子への生ける信仰をもって彼はこの極めて厳粛で重要な告白をしたのであり、この言葉でペトロがすでに義とされていることを知るのに十分です。彼はキリストから「人々の前で私を拒む者は、私も天の父の前でその人を拒む(マタ10・33、ルカ12・9)」という言葉を聞いていながら、後に臆病にも自身の主を否定しました。しかし、目からの涙と心の痛みをもってこの罪の深さを認め、深い悔い改めをもって神の慈悲を求め、自身が恥ずべきにも否定した方への信仰をもってそこに留まることでその罪は赦され、使徒であるままとされました(マタ26・72~75)。

神の慈悲と善性に絶望してはならない

これだけでなくさらに覚えてほしいことがあります。聖霊が降臨した日に他の使徒とともに聖霊の賜物に満たされた後で(使2・1~4)、この聖なる使徒ペトロはアンティオキアで決して小さいとは言えない罪を犯しました。彼は自分の経験から信仰深い人々の良心を疑い、パウロに面と向かって非難されました(ガラ2・11)。それは彼が「福音の真理に従ってまっすぐ歩いていない(同2・14)」とみなされたからでした。わたしたちはつい、彼は多くの人の躓きの石となるという大きな罪を犯したので、神のみ恵みやご慈悲から遠ざけられて拒まれ、もはや赦され難かったと思いがちではないでしょうか。このような思いが神に聞き届けられますようにと願いもしてしまうところです。これはわたしたちが考えうる神の慈悲や善性に基づけば、罪への不敵というところに帰結するのですが、そうではなく、肉の不確かさや悪魔の誘惑によって罪に落ちても、わたしたちが神のご慈悲や善性に絶望することはないというところに帰結するものであるのです。

まとめと結びの短い祈り~悔い改めよ

わたしたちはよく注意して気をつけなければなりません。感覚的に考えるのではなく正しく悔い改めるべきであり、自身の強さと力によって神に立ち帰ることができているのではないと考えるべきです。これはすべての人に覚えておかれるべきです。「私を離れては、あなたがたは何もできない(ヨハ15・5)」のであり、「何事かを自分のしたことと考える資格は、私たちにはありません(二コリ3・5)。」また、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である(フィリ2・13)」とも言われています。エレミヤは「イスラエルよ、もし立ち帰るなら、私のもとに立ち帰れ‐主の仰せ(エレ4・1)」と言って、後のところで「私を立ち帰らせてください。私は立ち帰りたいのです。あなたこそ私の神、主だからです(同31・18)」と述べています。かの教父アンブロシウスは神ご自身が預言者を通して「私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。こうして、彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。彼らは心を尽くして私に立ち帰るからである(同24・7)」と述べさせられていることに触れ、「心から神に立ち帰るのは神によるものである」と残しています。このようなことをよく考えて、天の父である生ける神に心からの祈りを献げましょう。神は聖霊によってわたしたちの中に確たる悔い改めを授けられたのであり、わたしたちはこの世での苦しい日々の後に、神のみ子イエス・キリストとともに永遠に生きることとなるのです。すべての賞讃と栄光がとこしえに神にありますように。アーメン。



今回は第二説教集第20章第1部「悔い改めよ、天の国は近づいた」の試訳2でした。次回は第2部に入ります。まずは解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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