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何をもって身を飾るか(1)(第二説教集6章試訳1) #114

原題:An Homily against Excess of Apparel. (過度に着飾ることを戒める説教)

※第6章の試訳は2回に分けてお届けします。その1回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(11分21秒付近まで):


第5章の振り返りと第6章の目的

 みなさんは前回の説教をきき、節度をもって肉や酒を取り過ぎることのないように、節度を持とうとする気持ちを大いに高めたことと思います。さまざまな形の行き過ぎは国家にとって有害であり、肉や酒をお創りになり与えてくださった全能なる神の御前にあって、あまりに憎むべきものです。神への感謝をもって、わたしたちが誘惑に負けやすい本性を正していれば、肉や酒を過度にとって神の寛大さを挑発し、世の秩序を乱して厳しい罰に至るなどということはなくなります。このことと同じく、みなさんはまた別の愚かで挑発的な行き過ぎを忌み嫌うべきです。服を着ることが今日あまりに豪奢になり過ぎています。全能なる神の御言葉をもってしても、そのことへのわたしたちの高慢な好奇心を遠ざけることができていませんし、神の御心に適った法律によって君主が定めた罰を繰り返し執行しても、この嫌悪すべき行き過ぎを抑えることができていません。神がおおいに侮辱され、君主の法が堂々と破られ、この国土に大いなる危機を招くことになっています。この服にかかわる行き過ぎについても、やはり節制がわたしたちの中にあってしかるべきです。節度をもって服を着るべきであると神の聖なる御言葉のなかで説かれています。神は過度に着飾ることをよしとされないどころかそれを禁じられているということを、わたしはみなさんにはっきりとお伝えしたいのです。神ご自身の定められた律法が守られず、神の御心に適わない事柄が日々増えていることがよくわかると思います。

神は人間に節度を持つことを望まれる

 全能なる神が人間の目的として定められたところを考えれば、神がわたしたちに服を着ることをお許しになっているのは、その必要があるためだけではなく、誠実な端正さを求められているためであると容易に理解できます。草花や木やいろいろな実についてもそうで、わたしたちはあまたの必要からそれを使うのみならず、その喜ばしい見目の麗しさや甘い香りを楽しみ、そこに人類に対する神のひたすらな愛を感じます。神はそうしてわたしたちの日用を満たされるとともに、誠実にして節度のある楽しみをもってわたしたちの感覚を生気あるものにしてくださっています。ダビデは『詩編』の百四編で神の細やかな摂理について告白するとき、神は草花や肉を人間の必要からだけではなく、人間の喜びや楽しみとしても与えてくださっているとしてこう語っています。「こうして主は地からパンと人の心を喜ばせるぶどう酒を生み出し、油で人の顔を輝かせる(詩104・14~15)。」

聖書には節度を守るための教訓がある

これはただ必要に傾くのみで神の御恵みという素晴らしい果実を感じ取らない人間の理解を超えるものです。しかし、わたしたちがそのような間違いに導かれることはないでしょう。聖パウロはコロサイの信徒たちに宛てて「手を付けるな、味わうな、触れるな(コロ2・21)」と述べ、神が創られたものの御恵みを迷信的に奪う者に従ってはならないとしており、そこによく耳を傾けるべきです。キリスト教徒の自由であるとして、したいだけのことをする許しを得ていると考え、過度に着飾って他を見下し、奔放で淫らで慎みのない振る舞いに至ることのないように用心しなければなりません。そういったことをしないようにするために、また、自分自身を穏やかにして節度のない執着をなくすために、神の定められたところに照らして聖書に書かれている四つの教訓を心しておくべきです。

第一の教訓と第二の教訓

 第一に、わたしたちは欲を満たそうとして、高価な衣服をもって、肉体のための糧を作り出そうとしてはいけません(ロマ13・14)。そのようなことは、ソロモン王が『箴言』の第七章で「長椅子を上掛けで覆いました。エジプトの亜麻布で織った上掛けで。寝台には没薬の香りをまきました(箴7・16~17)」と述べているとおり、淫婦がすることです。わたしたちはそうではなく、適切な節制をもって、肉が勝利を得ることにつながるあらゆる誘惑を断つべきです。第二は聖パウロがコリントの信徒たちに宛てた第一の書簡の第七章にあることです。ここで彼は「この世を利用する人は利用しない人のようになりなさい(一コリ7・31)」と説いています。彼はここで、着飾ることについてのあらゆる野心や高慢さや虚栄のみならず、そういったものへの過度の関心や執着を捨てて天上の事柄について思い考えることや、神への務めについて考えることから遠ざからないようにとしています。肉にかかわる事柄への関心であまりに心がいっぱいになっている者は、魂にかかわる事柄に対しては往々にして怠惰であり散漫です。救い主キリストは次のように言われています。「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って思い煩ってはならない(マタ6・31)。」「まず神の国と神の義とを求めなさい(同6・33)。」ここでわたしたちが心得るべきは、神がわたしたちを御国に至らしめるための慰めと推奨のために定められた事柄を後まわしにしてはいけないということです。

第三の教訓と第四の教訓

第三は、わたしたちが自分たちの財産や置かれている立場を、それがどのようなものであれよくみて、神が与えてくださったものであるとして喜ぶべきということです。粗末で質素な服装を恥じる者は豪奢な衣装を得ればそれに満足するのでしょう。わたしたちは物をふんだんに使うということと赤貧に耐えるということの両方を、使徒である聖パウロから学ぶべきです(フィリ4・12)。わたしたちが受け取った物の代金を、あらゆる行き過ぎや高慢や、見せびらかしや、虚栄を忌み嫌われる神に対して支払わなければならないことを覚えておかなければなりません。また、ご自身に対する義務を行うことからわたしたちを遠ざけるものや、自分たちと等しく愛すべき隣人や兄弟へのいたわりを失わせるものは何でも完全に非難してお認めになることのない神に対して、代金を支払わなければならないことも覚えておかなければなりません。第四にして最後に挙げる教訓は、誰もが自身の務めについてよく考えるべきということです。神はすべての人に位階と務めとを定められたのですが、その定められた範囲のなかで、人は行いを為すべきです。すべての人々は着飾って自身をよく見せるのではなく、神が定められた位階に応じて衣服を着るべきです。そうしないと、多くの人々が疑いなく、今や絹とベルベットでひだを取られているあずき色のコートを着るようになり、その年ごとに高価な衣服に費やす金銭が、父親たちが自分の土地を売って手に入れることのできる額よりも多くなってしまいます。

人間は教訓に反し華美に執着している

 しかし、ああ、今日どれほど多くの者たちがまったく意に介することなくすっかり肉の求めるままとなっているのをわたしたちは目にしていることでしょう。神はすでに多くのものを与えてくださっているというのに、彼らはその神の善性に反抗し、大いにこの世の華美に対して執着を持って着飾るのみで、自分たちの野放図な欲望を満たし、神が与えてくださったその多くのものに対して感謝の念を持っていません。イスラエルの民は、神が与えてくださった衣服を、質素で素朴なものであったにもかかわらず大切にしていました(申29・4)。神は彼らをいたく祝福され、彼らの靴も服も四十年ももち、父親が身につけたものを、その後は子どもが喜んで身につけました。それにひきかえわたしたちは、まったく満足などすることないのですから栄えるはずもありません。毛皮の衣服にひだをつけ、いつも高価な上着やコルクでできたスリッパや、丁寧に編み上げたブーツやあたたかいミトンを身につける者は、みすぼらしくいくつか穴の空いた服を着て北風が吹くなか一日ずっと外にいて働いている人よりも、寒さに震えやすくなります。わたしたちが父親の残した衣服を着ることを嫌がっているのは、それが自分たちにとって満足のいく良いものであると考えていないからです。わたしたちは昼間にひとつの上着を着て、夜にはまた別のものを着ています。

富は朽ち果て衣には虫が食う

つまり、片方を長く、もう片方を短く着ています。あるものを冬用にして別のものを夏用にしています。毛皮がついているものもあればそうでないものもあります。普段の仕事のための衣服も、聖日のための服もあります。この色の衣服もあれば、あの色の衣服もあります。布でできたものも、絹できたものやダマスク織りのものもあります。夕食の前と後で衣服を変えますし、スペイン風のものやトルコ風のものもあり、つまるところ、十分であると満足することなどないのです。わたしたちの救い主キリストは弟子たちに対して、二枚の上着を持つことを禁じられました(マタ10・10)。そうであるにもかかわらず、ほとんどの人々はキリストの教えから遠く離れ、戸棚には衣服がいっぱいになっていて、自分がどれほど多くのものを持っているかもわかっていないという有様になっています。 こういった状況をみて聖ヤコブは、裕福に暮らす者たちに対して次のような恐ろしい呪いを明らかにしています。「さて、富んでいる人たち、自分に降りかかる不幸を思って、泣き叫びなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣は虫が食い、金銀もさびてしまいます(ヤコ5・1~3)。」「あなたがたは、地上で贅沢に暮らし、快楽にふけり、屠られる日のために自分の心を肥やしたのです(同5・5)。」

高慢にならず足るを知るべし

みなさんの心に留めてほしいのですが、聖ヤコブは裕福な者たちを、その持てる富や衣服の多さはさておくとしても、自らの肉体を慈しんで滅びに向かう哀れな者であるとしています。大食いをする裕福な者は自分が支払う金銭や贅沢な衣服で何を表しているのでしょうか。そのような者は地獄の業火に苛まれて報いを受けたのではなかったでしょうか(ルカ16・25)。聖パウロが説くように、わたしたちは多くのものを持って豊かであろうとして誘惑や罠やさまざまの無分別な欲望に陥り、そうして永遠の死や破滅に至らないように、食べ物や衣服について足るを知るべきです(一テモ6・9)。まさしく、華美な服装をまとって喜ぶ者は常に高慢さを持っていて、さまざまな虚栄に満ちています。シオンの娘たちやイスラエルの民に対して預言者イザヤがこのように警告しています。「まさにシオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばして歩き、その足首の輪飾りを鳴らす。主はシオンの娘たちの頭をかさぶたで覆い、彼女らの額をあらわにする。その日、主は輝く装飾品、すなわち、足首の輪飾り、髪飾り、三日月形の飾り、耳輪、腕輪、ベール、頭飾り、くるぶしの飾り、飾り帯、香箱、お守り、指輪、鼻輪、晴れ着、羽織着、肩掛け、小物入れ、鏡、上質の亜麻布の服、ターバン、かぶり物を取り去る(イザ3・16~23)。」全能なる神は御恵みが虚しく淫らに受け取られることをよしとはなされず、ご自身がいたく愛された人々について、そうあらないようにとなされました。

イングランドに華美と虚栄が見られる

 今日わたしたちの間にみられる虚栄もこれに勝るとも劣りません。イングランドの娘たちの高慢にして欲深い胃袋は高価な衣服でさまざまに飾られており、それは古い時代の教父であるテルトゥリアヌスが、貞淑な婦人とそのあたりにいる売春婦とに衣服の違いは見られないものであると言った、まさにそのとおりです。そうです、多くの者が退廃的になり、自身を欺くことに自分たちがどれほどのものを費やしているのかを気にすることなどなく、新しい装飾品を買って新しい流行を作り出しています。さまざまな国の人々が普段の衣服を身につけているのを描く人がいたとします。その人がいざそうしようとすると、イングランド人については丸裸に描いた上で、腕の下に布を描き、自分で最も良いと思うままに描くようにします。こうなるのは、とても頻繁に流行が変化するためどう描いたらよいかがわからないからです。わたしたちは浮ついた思い付きでもって、自分たちを他の国々の物笑いの種にしています。ある者は先祖代々に伝わってきた衣服に穴を開けたり鋏を入れたりしてそれを着て、ある者は全身を端正で整ったものにするための衣服を買うのに十分であるより多くの額を、ダンス用のシャツに費やしています。なかには自分の収入を首まわりに費やしてひだえりを立てるなど、多くの者が贅沢な衣服で身を包もうとして、かえって身を危うくしています。

華美に走れば神の罰を受ける

誰も彼もが自身の財産についてろくに考慮せず、高価な衣服で他の人々を凌ごうとしています。そうしてあらゆるものを贅沢にふんだんに使っていながら、わたしたちは窮乏や困窮について不満を口にしています。しかし一方では多くの者を養えるだけのお金を費やす者もいて、そういう者は誰も、自分がたっぷりと受け取ったものを分配せず、結果的にすべての人々が他の人々の必要を満たすのに十分なものまで過度に無駄遣いしています。このような節度のなさに対しては、よく整った包括的な法律において素晴らしい規定が定められており、そのような規定が正しく守られていれば、衣服にかかわるこの狂乱じみた行き過ぎは抑えられるはずです。しかし、ああ、わたしたちには神と法への恐れも服従もほとんどないようです。それゆえ、わたしたちは天からの神の恐ろしい復讐が、自分たちの非礼と高慢さの上に降りかかることを覚悟しなければなりません。かつて神は、王の衣服をまとって神を忘れたヘロデ王を、天使に打たれてうじ虫に食い尽くされるようにされました(使12・21~23)。この恐ろしい逸話にみるように、豪華な衣服をまとって華美に走れば、わたしたちはうじ虫が食べる肉にすぎなくなるとされています。



今回は第二説教集第6章「過度に着飾ることを戒める説教」の試訳1でした。次回は試訳2をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。


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