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悔い改めよ、天の国は近づいた(1)(第二説教集20章1部試訳1) #183

原題:An Homily of Repentance, and of true Reconciliation unto God. (悔い改めと神との真の和解についての説教)

※第1部の試訳は2回に分けてお届けします。その1回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です):
(11分22秒付近まで)




悔い改めよ、神の国は近づいた

 悔い改めてすぐさま万軍の主なる神に回帰せよということほどに、聖書すべてを通して聖霊が人間の脳裏に働きかけていることはありません。いまさら驚くに値しないことですが、わたしたちは日々刻々と邪さや頑なな不服従によって恐ろしくも神から離れています。神がご自身の正義に基づいてわたしたちを処されるとするならば、わたしたちは自身を永遠の破滅に向かわせていることになります。神の教会において、悔い改めて神に向かうことほどに大切な教義はありません。天の国の福音や救いの喜ばしい知らせを真に説く者は、信仰に満ちた説教や説諭のなかでいつも人々に二つのことを述べてきました。それは悔い改めと罪の赦しであり、救い主イエス・キリストも「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる(ルカ24・46~47)」と述べておられます。『使徒言行録』ではかの聖なる使徒が、自身が「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきた(使20・21)」と言っています。ザカリアの子である洗礼者ヨハネは悔い改めの教義に関する説教を「悔い改めよ。天の国は近づいた(マタ3・2)」と言って始めてはいなかったでしょうか。救い主イエス・キリストもこの教義について説き、使徒たちによく説くようにとされました(同4・17)。

神は怒るに遅く、慈しみに富む

 わたしはここで、悔い改めというこの大いなる教義が極めて大切なものとしてあらゆる位階の人々に強く説かれている箇所を預言者たちの言葉から数多くお示しすることができますが、今日はそのなかからひとつだけお示しします。
 それは預言者ヨエルの言葉です。「しかし、今からでも、心を尽くし、断食と泣き叫びと嘆きをもって、私に立ち帰れ。主の仰せ。あなたがたの衣でなく心を裂き、あなたがたの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、怒るに遅く、慈しみに富み、災いを下そうとしても、思い直される(ヨエ2・12~13)。」この言葉によってわたしたちが理解できるのは、わたしたちには定められた不変の規則があって、いつの時代もそれを守らなければならないということです。また、神の怒りが宥められて和らげられるほかに、その激しい怒りゆえの正しい裁きによってわたしたちに向けられることとなった災厄や破壊が止んだり取り除かれてなくなったりする術は他にないということです。「私に立ち帰れ。主の仰せ」とこの預言者が語っているところに大きな意味などないということはありません。

罪を告白して神に赦され清められる

彼はこの前のところで、誰も耐えられないほどの神の恐ろしい復讐について大いに語り、悔い改めて神の慈悲に与るようにと説いています(同2・11)。それは彼がまるで「わたしは恵みに与る望みがない者のようにそういったものをもたらされたくはない」と言っているかのようです。しかし罪を犯したことによって完全に破滅に至らしめられてもそうです。神が正しい裁きをもって決して小さくはない破滅をもたらされてもそうですし、みなさんがまるで剣の先にいる者となっていてもそうです。ただちに神に立ち帰れば、神は極めて穏やかにまた慈悲深くも、ふたたび愛をもってみなさんを受け入れてくださります。わたしたちは悔い改めが真に誠からのものであるのなら、そうするに遅すぎるということはないと教えられています。神は聖書のなかでわたしたちの父と呼ばれ、疑いなく穏やかで慈悲深い父親としての本性をお持ちです。キリストが放蕩息子の喩えで大いに説いておられるように、神は子を正すにあたり、ふたたび立ち帰ってくること以外に何もお求めにはなりません(ルカ15・31~32)。神ご自身は預言者を通して「私は悪しき者の死を喜ぶだろうか。主なる神の仰せ。私は、彼がその道から立ち帰り、生きることを喜ばないだろうか(エゼ18・23)」と言われなかったでしょうか。また「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます(一ヨハ1・9、イザ1・16)」とも言われています。

悔い改めて赦された聖書の人物たち

 このような極めて香しい約束は聖書の多くの箇所にあります。ユダヤ人が預言者イザヤの言葉を喜んで受け入れたのち(イザ37・6~7)、神は少しずつその救いのみ手を伸ばされ、天使を遣わしてセンナケリブの陣営にいた精兵たちを一晩で打ち殺されました(同37・36)。またマナセ王の逸話もあります。彼は酷く邪なあらゆる行いをしたのちに神に立ち帰り、神に願いを聞き入れられ、自身の王国に帰されました(代下33・12~13)。同じようにみ恵みや恩寵を感じたのが罪深きマグダラの女や(ルカ7・48)、徴税人ザアカイや(同19・9)、イエスとともに磔にされた犯罪人(同23・43)などでした。どの逸話もわたしたちの信仰を揺さぶったり、ときにはそれを滅ぼしたりしてしまうという、わたしたちの良心に対する悪魔の誘惑に抗うための慰めとして覚えておくことのできるものです。

何から、誰に、誰により、どのように

わたしたちひとりひとりがこれらを自身に当てはめ、このように言うべきです。「悪から離れ、善を行え。平和を求め、これを追え。主の目は正しい者に注がれ、その耳は彼らの祈りに傾けられる(一ペト3・12)。」しかしわたしたちはこのことについての神の戒律をより狭めて見なければなりません。かの聖なる預言者ヨエルは「心を尽くし、断食と泣き叫びと嘆きをもって、私に立ち帰れ(ヨエ2・12)。」「あなたがたの衣でなく心を裂き、あなたがたの神、主に立ち帰れ(同2・13)」などと言っています。この言葉のなかで、彼は悔い改めによって語られうるすべてのことをまとめています。自身の罪によって離れてしまった神に自身のすべてをもって立ち帰るということです。この言葉はよく考えられなければなりません。具体的には四つの重要な点を考える必要があります。わたしたちは何から立ち帰るのか、誰に立ち帰るのか、誰によって立ち帰ることができるのか、そしてどのようにして神に立ち帰るのかということです。

何から神に立ち帰るのか~罪から

 第一に、どこからつまり何からわたしたちは立ち帰るべきであるかについてお話しましょう。わたしたちは神から離れることによって遠ざかってしまういろいろな物事から立ち帰るべきです。往々にしてそれらはわたしたちの罪であり、聖なる預言者イザヤが証ししているように、神とわたしたちを引き離し、神が「御顔を隠し、聞こえないようにしている(イザ59・2)」ものです。罪という名には、淫らで律法に適わず忌み嫌われるものと考えられる下劣な言葉や行いだけが当てはまるのではありません。淫らな情欲や肉体の内にある性欲もまた、聖パウロが証ししているとおり、神のみ心に反していて強く慎まれなければならないものです(ガラ5・16~17)。加えてわたしたちは神について持っている偽りの誤った考えや、そこから生じている邪な迷信である、律法に適わない神への崇拝や礼拝なども悔い改めなければなりません。真に神に立ち帰って正しく悔い改めようとする人は、これらすべてを捨て去らなければなりません。そのようなものがあるために神の怒りが「不従順の子らに下る(エフェ5・6)」のであり、そのような中にわたしたちがいる限り、終わりのない罰が続きます。見かけだけ悔い改めているようにして、偶像崇拝などの迷信を捨てない罪人は咎められることになります。

誰に立ち帰るのか~神にのみ

第二に、わたしたちは誰に立ち帰るべきであるのかを考えましょう。神は「レヴェルティミニ・ウスク・アド・メ」すなわち「私のところに立ち帰りなさい」と言われています。わたしたちは神に立ち帰るべきです。そうです、わたしたちは神のみに立ち帰るべきであるのです。なぜなら、神のみが真でありあらゆる善の泉であるからです。わたしたちは神のみもとに立ち帰ることのできるように、また神のみ手に受け取られるまで歩みを止めることのないように励むべきです。
 とはいえこれは信仰によってなされるべきものです。神は霊であられますから、どのような方法をもってしても触れることもつかむこともできません。この神に立ち帰らず、神の被造物や人の手で作り出した物や功績に立ち帰る者は大きな過ちを犯しています。神に立ち帰り始めている人は自身に定められたところに至る途上におぼろげなまま立っています。わたしたちは楽園の追放からこれまで、罪を犯したときに自身を神の目から隠そうとした父祖アダム以上に神から遠ざかっています。

誰によって立ち帰るのか~み子により

自身で神に訴える術を何も持っていないので、わたしたちには罪にお怒りになっている神との和解をもたらす仲保者がいなければなりません。その方こそがイエス・キリストです。真にして生ける神であり、父と並ぶ一つの位格を持っておられ、定められたときに祝福されたおとめの胎内にそのおとめの汚れのないままに宿られました。わたしたち人間の弱い性質を持たれ、神とわたしたちとの仲保者ととして神の怒りを和らげる方です。この方について父なる神は天から「これは私の愛する子。私の心に適う者(マタ3・17)」と語られています。またキリストご自身も福音のなかで「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない(ヨハ14・6)」と強く言われています(ヨハ1・18)。キリストのみがわたしたちの罪のために、ご自身の肉と血の犠牲によって神の義を満たされました(一ペト1・18~19)。使徒たちはイスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、キリストが高いところに上げられたと証ししています(使5・31)。この二つの事柄をキリストはご自身の名において説かれるべきであるとされました(ルカ24・46~47)。無学で信じやすい人にキリストによらない悔い改めを唱道し、悔い改めが人間の行いのみによって為されるなどと説く者は大いに欺く者です。確かに彼らは善き行いや神に向き直ることについて多くを語ってはいますが、キリストによらなければすべて虚しく益はありません。悔い改めのために自分の力で多くのことをしてきたなどと考えている者は神から大きく離れています。彼らは救い主イエス・キリストご自身やその死と受難と流血という功績に帰される事柄を、自分たちの行いや功績のゆえであるとしています。

どのように立ち帰るのか~心から

 第四に、聖なる預言者ヨエルはわたしたちが悔い改めて神に立ち帰る方法について強く語っているのですが、彼は内と外に見ることのできる事柄をよくつかんでいます。一つには、わたしたちに心のすべてをもって神に立ち帰り、あらゆる偽善を捨て去るようにとしています。これはまさに「この民は口で近づき、唇で私を敬うが、その心は私から遠く離れている(イザ29・13、マタ15・8~9)」とわたしたちが言われないようにするためです。
 二つには、彼は神のみ心に適い、神を正しく崇敬して礼拝するための誠実で純粋な愛を求めています。言い換えれば、神のみ心を重んじずそれに背くような行いをすべて捨て、わたしたちは「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい(申6・5)」と律法にあることに従い、肉体と魂の力の限りを尽くすということです。わたしたちがこの世に対して、また肉的な情欲に対して与えることのできるものなどここには何もありません。心はわたしたちの行いの泉ですから、心のすべてをもって神に向かう限り、わたしたちは神のみに向かって生きることになるのです。

片手間に神に従ってはならない

神とこの世との両方をみて片手間に神に従い、神をさておいてこの世と肉とに仕えるのが律法に適っていると次第に強く考えていく者が真に悔い改めることなどありません。わたしたちはそもそもの肉の腐敗とそれへの邪な執着を持っているので、神は断食をしてご自身に立ち帰るようにとも命じられています。ただし、わたしたちはそれを迷信的な禁欲や食事のとり方をするべきと理解してはなりません。肉を正しい規律によって飼いならし、淫らな情欲や頑なな反抗心や高慢さを抑え、肉から自身を引き離して遠ざけるべきです。神はそこに極めて不可欠であり大切な悔い改めの目に見える行いとして、すすり泣くことや嘆き悲しむことを加えられました。そのようにして自身が神のみ手から罰を受けるべき者であると証しするとき、わたしたちは神の義をもって弱い者に対して与えられる罰を止めることもできるようになります。



今回は第二説教集第20章第1部「悔い改めよ、天の国は近づいた」の試訳1でした。次回は試訳2をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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