見出し画像

何をもって身を飾るか(2)(第二説教集6章試訳2) #115

原題:An Homily against Excess of Apparel. (過度に着飾ることを戒める説教)

※第6章の試訳は2回に分けてお届けします。その2回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(11分21秒付近から):


神から授かるもので静かに満足すべし

 シラの子であるイエススが説いていることに耳を傾けましょう。「身に着けている服を自慢するな。栄誉を受ける日にも威張るな。主の業は不思議。その御業は人々に隠されているからだ(シラ11・4)。」キリスト教徒は肉を喜ばそうとする気持ちを消すことに自身を向けなければなりません。わたしたちはこの世にあって、肉のために事を為そうなどと思わずに、神の御恵みを受けなければなりません。わたしたちは神が授けてくださるもので静かに自身を満たさねばなりません。しかしそれはけっして少ないものではありません。また仮にそれがあまたあるものであったとしても、わたしたちはそれによって高慢になってはいけません。そうではなく節度をもってそれを受け、自分自身の慰めのためのみならず、それを必要とする人々の安心につなげなければなりません。「裸の人を見れば服を着せ、自分の肉親を助けることではないのか(イザ58・7)」と預言者イザヤは言っています。わたしたちは自身をよく知るべきであり、他者を蔑んではいけません。わたしたちはみな全能なる神の御前に立っていることを忘れてはなりません。神は聖なる御言葉によってわたしたちを審かれるのですが、そのなかで神は男性だけではなく女性についても行き過ぎを禁じられています。誰も自身の財産がどれほどであるかによっての言い訳はできません。

自身を実直と貞節と穏健に委ねよ

テルトゥリアヌスが言っているように、わたしたちは御座の前で自分自身を神に委ねるのですが、それはかの使徒が語っている装身具を伴うものです。『エフェソの信徒への手紙』の第六章には、「真理の帯を締め、正義の胸当てを着け、平和の福音を告げる備えを履物としなさい(エフェ6・14~15)」とあります。わたしたちは自身を実直と貞節と穏健とに委ねて、自身の首をキリストの甘美なる軛につながねばなりません(マタ11・30)。女性は夫に従うべきであり(エフェ5・22)、その上で着飾るものであるとテルトゥリアヌスは言っています。異教徒の哲学者であるフィロンの妻は、なぜ金を身につけていないのかを問われ、夫の美徳をもってして、十分な装飾であると考えているのだと答えました。キリスト教徒の女性たちは神の御言葉に導かれているのですから、どれだけ多くのものについて夫において満足するべきでありましょうか。そうです、すべてのキリスト教徒は、自身が天上の美徳で飾られていることを考えれば、どれだけ多くのものについて、救い主キリストにおいて満足するべきであるのでしょうか。しかしここで、何人かの美しく身をよく整えている女性たちからは、自分たちが顔に化粧を施し、髪の毛を染め、身体に香水をふり、見栄えの良い衣服で飾り立てているのはすべて、夫の目に喜ばれ、その愛を一身に受けるためなのであると反論されるでしょう。

神が創られた以上に美しくはなれない

とはいえこれは、ああ、拙い言い訳であり、極めて恥ずべき反論であって、夫の叱責を招くものです。悪魔の衣服でもって夫を喜ばせること以上に夫の愚かさを明らかにすることを、みなさんは何か思いつくでしょうか。誰が妻の顔に化粧を施し、髪の毛を巻き、それをもととは違う色に変え、その妻を造り出した創造主を超えることができるというのでしょうか。その妻は神が美しくお造りになった以上に、自身を美しくできるというのでしょうか。このような女性たちは、神がお造りになったものを作り直そうとでもしているのでしょうか。自然にあるものはすべて神の御業であるものの、自然にない偽りのものは悪魔の所業であることを知らないのでしょうか。賢明なキリスト教徒の夫が、売春婦たちがその愛人を淫らなほうに導くべくよくするような仕方で、自分の妻が化粧やこびへつらいをするのを見て喜ぶのでしょうか。誠実な女性が自ら売春婦のように夫を楽しませることをよしとすることなどありえるのでしょうか。いや、そのようなはずがありません。ここで述べたことは、夫以外の者を楽しませようとするための虚しい方便にすぎません。過度に装飾のは、他者を誘惑するため気を引こうとして自身を見せつけるためのものでしかありません。

節度ある美しさに満足を持つべし

 これは大きな問題に至ります。出来の悪い妻となり、その務めを果たすことが見られなくなっていき、夫が倹約に励むのを無視することにつながる華美な衣装を持つことについて、妻は夫と口論になります。家庭に無駄遣いと野放図という大いなる危険を持ち込みながら、妻は自身の虚栄さと同時に夫の愚かさを見せびらかして外を歩き回ることになります。高慢さによって、妻は自身と同じほどに虚しい喜びを持つ周囲の者たちからの羨望を掻き立てます。そのような妻には嘲りと軽蔑のみが似つかわしいものとなります。そのさきにあるのはユダヤ人や異教徒の衣服への執着であり、キリスト教徒たるところから離れていってしまいます。このような贅沢によって、妻は夫が蓄えたものを存分に無駄遣いしているにすぎず、時には夫の商売において収賄や、ゆすりたかりや、詐欺の原因となりかねません。そうすることで妻は虚しいこの世にあって豪奢に見受けられるのですが、これは悪魔の目を喜ばすものであって、すべての被造物に十分にして節度のある美しさを与える神の目に喜ばれるものではありません。わたしたちは神によってあるのですから、節度ある美しさに満足を持たなければなりません。

外面を飾るほど内面を磨かなくなる

そのようなことをして、みなさんの豪華さや高慢さを掻き立てることによって、みなさんの魂を騙そうとしてくる他の者たちからの誘惑に抗うこと以外に、みなさんは何をするというのでしょう。自身の高慢さを表に出し、上品さのない外見の身体から悪魔の網を編みだして、みなさんを見つめる他の者たちの魂を捕えること以外に、みなさんは何をするというのでしょう。ああ、女性たちよ、これはもはやキリスト教徒ではないどころか、イスラム教徒にも劣るものであり、悪魔の手先となるものです。なぜみなさんはそのような腐った肉を欲っするままに食べ、行く先々で腐った悪臭を放っているのでしょうか。みなさんが自身に香水を振りかけても、その獣性を隠すことはできず、その匂いでもってみなさんを美しくみせるどころか、むしろみなさんの美しさを損ない、ますます獣性を際立たせてしまいます。女性たちのそのような虚しい振る舞いについては、ソロモン王が「豚の鼻に金の輪、美しいが聡明さに欠ける女(箴11・22)」と言っています。みなさんがこのような見た目に良いきらめきで自身を飾れば飾るほど、みなさんは内なる心を磨かなくなくなり、みなさん自身を美しくすることなく、むしろ衣装によって自身を貶めることになります。

柔和で朽ちない霊を内面に持つべし

聖なる使徒が次のように語っていますのでどうか耳を傾けてください。聖ペトロが言っています。「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りを身につけたり、衣服を着飾ったりするような外面的なものではなく、柔和で穏やかな霊という朽ちないものを心の内に秘めた人でありなさい。これこそ、神の前でまことに価値があることです。かつて、神に望みを置いた聖なる女たちも、このように装って、夫に従いました(一ペト3・3~5)。」また、聖パウロはこのように述べています。「女は折り目正しく、控え目に慎み深く身を飾りなさい。髪を編んだり、金や真珠や高価な服で身を飾ったりするのではなく、むしろ、善い行いで身を飾るのが、神を敬うと公言する女にふさわしいことです(一テモ9~10)。」もしみなさんがこの使徒たちの教えを心に留められないというのであれば、少なくとも、キリストを敬わない異教徒たちが次のように言っていることを覚えておきましょう。デモクリトスは「女性を飾り立てるものは言葉と衣服の慎みである」と言っています。ソフォクレスは「慎み深さを表に出すことが女たちの飾りである」と言っています。ギリシア人のことわざには「女性にとっての美しさは金や真珠ではなく、健康であることだ」とあります。

華美に走らなかった古代の人々

 女性は法律が定めているよりも控え目に衣服をまとうべきであるとアリストテレスは述べています。賛美を受けようとして女性が過度に華麗さを求めたり、金をふんだんに身につけたりするという、衣服の見た目について言っているのではなく、あらゆる物事において慎ましく生きようと謙遜する心構えについて言っています。今やこのような見苦しい虚栄があまりに蔓延っていて、まったく恥というものがありません。歴史をひも解きますと、ディオニュシオス一世がスパルタの女性たちに豪華なローブを贈ったとき、女性たちはそれが自分たちに名誉よりも恥をもたらすものであるとして、受け取ることを拒むとの返事を出しました。古代のローマの女性たちはピュロス王が贈ってよこした華麗な衣服を忌み嫌って、誰ひとりとして強欲にそれを受け取る者はいませんでした。元老院で作られた法律のなかに、長きにわたって守られていたものがあったのですが、それは、女性は半オンスの金も身につけてはならず、色とりどりの衣服をまとってもいけないというものでした。

華美は高慢さを満たそうとする

しかし、あるいは誰か上品なご婦人がわたしに対して、女性というのは自身の生まれや血統を示し、夫の豊かさを見せるものを持つべきなのだと言ったとしたらどうでしょう。あたかも気高さというものが、そういった極めて堕落した者たちにとってなじみのあるものによって示されるかのようです。また、あたかも夫の財力による贅沢のなかで与えられるものであるかのようであり、あたかも洗礼を受けるとき、この世にある誇りや肉の虚栄を捨てることがないかのようです。わたしはどこの国でも認められる適切な衣服についてではなく、華美による虚しい喜びについて言っています。華美は虚栄をむやみに求めるものであり、高慢さを満たそうとする流行を新たに作り出し、自らの身体のために多くを費やし、多額の費用をかけてみなさんとみなさんの夫を疲弊させるものです。かの高貴な王妃エステルは豪華な衣服を着せられていたのですが、それが肉的な愚か者の目を見えなくするのに相応しいものであると知っていたので、神の民を救うべくその華麗な衣を脱ぎました。

エステルとユディトの例

彼女は次のように祈りました。「主よ、あなたのほかに誰もおりません。独りきりの私を助けに来てください。あなたはすべてを知っておられます(エス・ギC25)。」「あなたは私の不自由をご存じです。私は、人前に出るときに頭に戴く高位のしるしを忌み嫌います。私は、月のもので汚れた布のようにそれを忌み嫌い、休息の日にはそれを着けません(同C27)。」またホロフェルネスは、かの聖なるユディトが本意によるものではなく、虚しい肉欲の喜びを掻き立てるために身につけていた眩いばかりの衣服に、どのようにして欺かれたことでしょうか(ユディ10・3~4、同10・23)。ただし彼女は、神の摂理によって、純粋な必要があってその衣服をまとったのであり、神に仇なす者の目をくらませるために虚飾に満ちた衣服を用いました。このように、他の者たちに我を忘れさせてしまうような豪華な衣服を着るのが嫌でありできれば避けたいと思いながらも、神の御心に適おうとする望みが高貴な女性たちのなかにありました。虚栄を嫌っていて本心には反するものの、大いなる目的のために致し方のない必要があり、一時的にそのようなものを身にまとおうと望むことは聖書で推奨されています。

虚栄はすべて影のように過ぎ去る

 とはいえ、このような女性たちとは気高さにおいて比べようもなく、神や、喜ばしい変化のなかで栄えることを日々の楽しみや求めるところとする神の民への熱意においても比べようもないとしたらどうでしょうか。決して満ち足りることなく、自分たちのまとっている衣服によって誰が罰を受けるのかも知らないでいながら、その衣服を手に入れることは推奨されるのでしょうか。ああ、このような常軌を逸した執着を持った妻とともにある愚かな男性たちよ。ああ、自身を傷つけている愚かな女性たちよ。そうしてこの世の悲惨を求めれば、神に忌み嫌われ、賢い人々からは疎まれ遠ざけられて、ついには地獄にある者たちと同じようになり、遅きに失しつつも後悔してこう口を開くことになります。「高慢さによってどうなったというのだろう。」「富の持つ華やかさによってどうなったというのだろう。」そのようなものはすべて影のように過ぎ去っていきます。

淫らな慣習があればそれを捨てるべし

美徳ということについて言えば、わたしたちは何らの徴もそれらのなかに見ることはありません。わたしたちは邪さのなかで削がれています。もしみなさんのなかに、慣習によってそうなっているのであり、世界が自分をそのような好奇心へと駆り立てていると言う人がいるのなら、わたしはこう尋ねます。わたしたちはどのような人々の慣習に従うべきなのでしょうか。賢い人々でしょうか、あるいはそうでない人々でしょうか。もし賢い人であると言うのなら、わたしは言います。そうしなさい。そうでない人々について言えば、誰がそうするというのでしょう。賢い人々の考えは慣習に引用されます。何らかの淫らな慣習があるのなら、みなさんにはそれを第一に破る人々であってほしいですし、それを打ち捨てて消し去るために励むことを望みます。余分なものを持って喜ぶのではなく、神の御前にあって祈り、そうすることによって報奨を得るべきです。

まとめと結びの祈り

 みなさんはこの説教で、被造物の節度ある使用にかかわって神が御言葉のなかで述べられていることについて知りました。神が定められているように、神がお造りになったものを、節度をもって使いましょう。全能なる神はわたしたちに、衣服をどのような目的やめあてのために着るべきかについて教えてくださりました。キリスト教徒として、その大いなる慈しみ深い御恵みについて、常に天なる父に感謝し、衣服をまとって振る舞うことができるようになりましょう。神はわたしたちに日用の糧を与えてくださっています。つまり、わたしたちの日々の生活に必要なものをすべて与えてくださっているのです。そのすべての御恵みに感謝しましょう。救い主キリストの栄光において、父と聖霊とに、あらゆる誉れと讃美と御栄えとが、とこしえにありますように。アーメン。


今回は第二説教集第6章「過度に着飾ることを戒める説教」の試訳2でした。次回は第7章に入ります。まずは解説をします。最後までお読みいただきありがとうございました。


Twitterもご訪問ください。
高校英語教師が翻訳した説教集(@sermons218tm) / Twitter
高校英語教師が選んだ聖書名言(@bible218tm) / Twitter
翻訳出版を目指す高校英語教師(@tmtm218tm) / Twitter

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?