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貧しい人は神の国を受け継ぐ(第二説教集11章1部試訳) #140

原題:An Homily of Aims-Deeds, and Mercifulness toward the Poor and Needy. (助けを求める貧しい人々に対する施しと慈善についての説教)

※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(12分14秒付近まで):


貧しい人に施しをするべきである

 み名に栄えが向けられ、み心に適う生活となるように、全能の神が信仰深き僕である真のキリスト教徒にお求めになっている大きな務めがあります。あらゆる悲惨に喘いでいる貧しい人々に対して慈しみや憐れみを持つということほど、神にいたく受け入れられ、み恵みに与れるものはありません。しかしながら、善にしてみ心に適った業をなすことに怠惰で緩慢であるという愚鈍さがあまりに大きく、わたしたちはそのような貧しい人々に対してあるべき姿から遠く離れ、むしろ無関心で不注意でいます。極めて大切なのは、神の民が自身の心の中に眠っているものを目覚めさせて、この愚鈍さから抜け出し、自身の務めについてよく考えることです。そして望ましくは、神が聖なるみ言葉の中でお求めになっている事柄を真のキリスト教徒すべてが心から理解することです。多くの人は怠惰によって自身の務めに無知なのですが、これをよく理解すれば、自身の務めを果たすべく勤勉に励むことができるでしょう。そうすることによって、み心に適う慈愛に満ちた人々は貧しい人々に対して、施しという憐れみ深い行為をすすんで行い続けることができるようになります。またこの説教を聞くことによって、この行為がどれほど自身をみ心に適った者にすることができるかを知り、これまではこの行為を否定し非難してきたとしても、今日からは知恵を持ってよく考え、美徳をもって自身をみ心に適う者とすることができます。

この説教で述べたいこと

 みなさんそれぞれが、これから説かれる事柄をよく理解して飲み込み、諭される言葉から多くの果実を得るには、物事をひとつずつわけてお話するのがよいと思います。わかりやすく順序だてて丁寧にお話していきたいと思います。第一にわたしは全能の神が聖なるみ言葉の中で、施しを行うことがどれほど強く求められていて、またどれほどみ心に適っているのかをお話します。第二に施しを行うことがどれほど有益なことであり、どれほどの恩典や果実がわたしたちにもたらされるのかをお話します。そして第三に、神ご自身を十分に見せるだけではなく、貧しい人々に対して大いに救いとなり、もはや極貧や欠乏という恐れなどなくなるものをみ言葉の中からお示ししましょう。

小さな者にしたのは私にしたこと

 第一のこと、つまり、神のみ前では施しがとても重要で、み心に適って聖であるということにかかわってわかってほしいことがあります。欠乏や悲惨のただ中にある貧しい人々を扶けることは神を大いに喜ばせるものであり、聖書が多くの箇所で述べているように、それ以上に神に喜ばしく受け取られるものなどありえません。全能の神はご自身に献げられるものは貧しい人々にも向けられているものであると述べられています。聖霊はかの賢者を通じて「弱い人を憐れむのは主に貸しを作ること(箴19・17)」であるとわたしたちに証ししています。極めて確かな真によってこれと繋がるものですが、福音を述べるなかでキリストは、貧しい人々に向けられる施しはご自身に向けられたものであり、それは最後の日に報われるものであるとはっきりと誓っておられます。キリストは慈善をもって施しをする人々について「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである(マタ25・40)」と荒れ地に座して人々に述べられています。わたしたちが貧しい人々の飢えを和らげているときはご自分を和らげていて、そのような人々に服を着せているときはご自分に服を着せていて、宿を貸すときはご自分に宿を貸していて、病にあったり牢にあったりする人々を訪ねるときはご自分を訪ねているのであると語られています(同25・34~36)。

貧しい人はキリストの代わりである

君主からの使者を受け入れてよくもてなす人は、その使者を遣わしている君主を崇めていることになるというのと同じで、貧しく助けを求める人々を受け入れ、痛みや苦しみを持つその人々に手を差し伸べる人は、その上に立つキリストを受け入れて讃えていることになります。キリストご自身はこの世でわたしたちとともに生きて救済の神秘のためにお働きになられていたときは貧しくて助けられるべき方でした。この世から昇天なされたとき、キリストはご自身のかわりとして、ご自身がこの世におられないかわりとして、貧しい人々を送ると約束なされました。したがってわたしたちはキリストに対して為すことを貧しい人々に対して為さねばならないのです。これと同じように、全能の神はモーセに対し「この地から貧しい者がいなくなることはない(申15・11)」と述べられています。神はご自身を愛しているかどうかについて、絶えず民を試みにあわせられ、み心に従うようにとされるのですが、それによって民は自分たちの中に神への愛があることを強く確信することができます。そして「あなたの同胞、苦しむ者、貧しい者にあなたの手を大きく広げなさい(同15・11)」と命じる神の律法と戒めを理解し、喜びをもってそのように行うことができます。これをご覧になって神は愛をもって民を受け入れられ、ご自身が示された約束を真に成し遂げられます。

新約世界での施しと慈愛のすすめ

 キリストの弟子である聖なる使徒たちは、日頃の言葉のやり取りの中で、キリストがどれほど貧しい人々を愛されていたかについて、み業を見つつ教えを聞いていました。キリスト生誕の前後に生きた信仰に篤い人々も、疑うことなどなく聖霊を信じ、聖なるみ心を極めて強く確信していました。その彼らは、貧しい人々を気に留めて慈愛のある行いを彼らに向けるようにとわたしたちに説いたり、多くの書簡の中でさまざまにわたしたちを諭したりしています。聖パウロは「気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい。すべての人に対して寛大でありなさい(一テサ5・14)」と強く訴えています。また「善い行いと施しとを忘れてはなりません。このようないけにえこそ、神は喜ばれるのです(ヘブ13・16)」とも言っています。預言者イザヤはわたしたちにこう説きます。「飢えた人にパンを分け与え、家がなく苦しむ人々を家に招くこと、裸の人を見れば服を着せ、自分の肉親を助けることではないのか(イザ58・7)。」かのトビトはこのように語っています。「お前の財産のうちから施しをしなさい。施しの際に、お前の目が妬みを抱かないようにし、どんな貧しい人にも顔を背けてはならない(トビ4・7)。」「飢えている人に、お前のパンを、裸の人にはお前の衣服を分け与えなさい(同4・16)。」

慈悲の行いをわたしたちの服とすべし

さらに、極めて学識があって信仰深い博士である聖クリュソストモスは次のように諭しています。「慈悲深い行いをわたしたちの服としよう。つまり、服を着て裸を覆って寒さから身を守り、自分たち自身を見た目によく見せようとするのと同じほどに、いつも慈悲深くあろう。いつもいつの時も慈悲深くあって、貧しい人々に施しをし、そういう人々に対して慈悲深い人間であるようにしよう。」預言者や使徒や教父や博士がこのように繰り返し説諭し熱心に唱道しているのには何の意味があるのでしょうか。間違いなく、彼らは神への信仰を強く持ち、それゆえ真に自らの務めを行い、み心が何を求めておられるかをわたしたちに伝えています。助けを求める貧しい人々に施しを与えることは神に大いに受け入れられるもので、いけにえでもあります。そこに神はいたく喜ばれるのであるということを、彼らはわたしたちに知らせようとしただけでなく、ひとえに愛ゆえに説こうとしました。シラの息子であるかの賢者は「施しをする者は、感謝の献げ物を供えるのに等しい(シラ35・4)とわたしたちに言って、次のように付け加えています。「正しい人の献げ物は祭壇に脂肪を滴らせ、その芳しい香りはいと高き方の御前に届く。正しい人のいけにえは受け入れられ、その記念は忘れられることがない(同35・8~9)。」

旧約世界での施しと慈愛の逸話

 この教えが真であることはわたしたちが聖書のなかで知っている聖にして慈しみを持った族長たちの逸話によって確認されます。彼らは慈悲深い憐れみの気持ちを貧しい人々に向け、その人々が必要とするものを惜しみなく与えています。そのなかの一人がアブラハムであり、神は彼に大いに喜びを持たれ、天使の姿となって彼のもとにやって来られ、彼の天幕で迎え入れられました(創18・1)。同じように彼の甥であるロトも神にいたく愛でられ、さもなければ炉辺で夜を過ごすとこであった御使いたちを自身の天幕に迎え入れたのですが、それがあって神はロトとその家族をソドムとゴモラの滅亡から守られました(同19・29)。また、信仰深いヨブもトビトも、多くの人々とともに、自分たちに向けられる神の特別な愛の証しとなるものを感じ取りました(ヨブ42・5~6、トビ13・6)。これらの人々はすべて、目の前で不自由な状態にある人に対して心からの憐れみ深く愛のある慈悲を見せ、この世の生で得ているいくばくかのものをもってその人を安らげ、助け、支えました。そうして神の愛を受け、神の目に愛らしく受け入れられてその喜びとなりました。彼らは神から与る果実を、つまり天の喜びを享受して、どのようにすればわたしたちがこの死すべき生において神の喜びとなるかを見せています。また、どのようにすればわたしたちが永遠の喜びと幸福において生きるに至るかについては、神の永遠なるみ言葉の中に、全き逸話としてわたしたちの目の前にあります。

貧しい人は天国への道である

実際に聖アウグスティヌスは貧しい人々に施しを与えて安らげることがまさに天国に至る道であると述べています。「ヴィア・コエリ・パウペル・エスト」と彼は言っており、これは「貧しい人は天国への道である」という意味です。この言葉はかつて街道の脇に置かれたマーキュリーの絵の中で、その指が町への道を指し示すところで用いられていました。わたしたちはこの言葉を、道の交わるところに木や石の十字架を置くべきとき、そこを通る人が彼方からやってきて旅路を確認しようとするにあたり、どちらへ曲がるべきかを示すために使っていました。しかし、聖アウグスティヌスが用いているこのみ言葉の意味は、彼方へ向かう人が誰も道を外れることなく貧しい人とともにあるために、天国に至る道に貧しい人とその家を置くということです。貧しい人はわたしたちに正しい道を示すマーキュリーであるのです。その指し示す方向をよく見れば、わたしたちは自分が正しい道を踏み外してしまうのではないかと思い悩むことはありません。

利己的に生きる者への戒め

 ところが、わたしたちのまわりにいるこの世の知恵に明るい者たちのやり方はこうです。財産のある者は自分の愛して恐れてもいる君主や有力者の寵愛を受けるべく、まずその人を喜ばせようとします。そして自分が困ったときには代弁者になってもらい、自分が利益を得たり、不都合を避けたりすることができるようにしています。このようなことは明らかに恥ずべきことです。この世にある者が天国にあるものを求めず、束の間のはかない物を求め、それを得ようとして知恵を働かせて策を巡らせています。救い主キリストは貧しい人々をご自分に近い人であるとされ、したがって彼らを特に愛されると明言しておられます。キリストは彼らを「小さな者(マタ10・42、同25・40、マコ9・41)」と呼ばれ、愛情を込めて同胞であると言われています。聖ヤコブは神が貧しい人々を神の国を受け継ぐ人々とされたと言っています。「神は、世の貧しい人を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか(ヤコ2・5)」と彼は述べています。わたしたちは貧しい人々がわたしたちのために為す祈りが神に届いて受け入れられ、彼らの訴えも聞き届けられると知っています。シラの子であるイエススは次のように言ってわたしたちを確かにしています。「彼が苦々しく思ってお前を呪えば、彼をお造りになった方は、その願いを聞き入れられる(シラ4・6)。」

施しの報いは天の国~結びの短い祈り

 貧しい人々を大切にしなければなりません。わたしたちはまた、自身を貧しい人々の主人であり擁護者であるとして、そのような人々を召し使いとして抱えることを厭わない者が、わたしたちを喜ばせもするし失望させもすることを知っています。わたしたちには貧しい人々が必要です。なぜわたしたちは、自分の利益や富に結びつくあらゆる喜びをもたらす者の歓心を得ようとしていながら、貧しい人々の友情や愛情を得るのに怠惰で億劫であるのでしょうか。キリストはご自身の名において必要とする人々に冷たい水を一杯でも与えた人には報いを約束されています。その報いは天の国であり、わたしたちが貧しい人々に対して持つ慈悲をもった愛情をどれほど強く受け入れておられるのかを明らかにされています(マタ10・42)。これは疑いなく、神ご自身が大いに報いを与えてくださるということです。神は貧しい人々への慈悲に対するみ子の報いを約束なされ、ご自身はそれを受けることではなく与えることに喜ばれていることと、貧しい人々への慈悲ある行いそれ自体が果実であり恩典であるとことを明らかにされています。これまで貧しい人々に施しを与えてこなかった人は、神がそれをお求めになっていることに思いを致しましょう。貧しい人々に対して慈悲をもってきた人は、み心に適った自身の行為が正しいもので、愛をもってみ手に受け取られ、神が二倍にも三倍にも報いを与えられることに思いを致しましょう。かの賢者が「弱い人を憐れむのは主に貸しを作ること。主はその行いに報いてくださる(箴19・17)」と言っています。永遠の命を得ることができるよう、救い主キリストの功徳によって、キリストに、父と聖霊とともに、すべての誉れと栄えとがとこしえにありますように。アーメン。


今回は第二説教集第11章第1部「貧しい人は神の国を受け継ぐ」の試訳でした。次回は第2部に入ります。まずは解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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