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暴飲と暴食を避けよ(1)(第二説教集5章試訳1) #111

原題:An Homily against Gluttony and Drunkenness. (暴飲と暴食を戒める説教)

※第5章の試訳は2回に分けてお届けします。その1回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(12分37秒付近まで):


第4章の振り返りと第5章の目的

 親愛なる者たちよ、前回の説教では断食という美徳の何たるかを、その正しい行い方とあわせてお話しました。これからみなさんは、暴食と暴飲が神の御前にあってどれほど愚かなことであるのかについての話をきき、より勤勉に断食をするようになることでしょう。みなさんは聖書の中で全能なる神が多くの人々に対し、救い主キリストの栄えある御姿を求めて自身の生をあらゆる穏健と貞節と節制のなかへと向かわせるようにと命じられたことを知るべきです。そうすることによって、わたしたちは御言葉にあるように自身を汚れのないままにして、聖と義において神に仕えることができます。そしてわたしたちは、救い主キリストが来られることを待ち望まないはずのないすべてのキリスト教徒にとって、この現世において穏健な心をもって生きることがどれほど大切であるのかを知ることができます(テト2・13~14)。

あらゆる行き過ぎは御心に適わない

それを待ち望まない者はキリストとともに栄えに至ることはできませんし、それを待ち望まず戦おうともしない者は、使徒ペトロが言うところの、わたしたちが常に慎みをもって備え、信仰を堅く守って抵抗する相手である吠え猛る獅子という残忍な敵がもたらす危険に絶えずさらされてしまいます(一ペト5・8)。このような穏健さがわたしたちのあらゆる行いのなかにあるためには、あらゆる行き過ぎというものがどれほど全能なる神の御心に適わないものであるのかを知らなければなりません。日用の生を保つために神が創られた肉や酒や衣服を慎みなく濫用すれば神がどれほど恐ろしくわたしたちを罰せられるのかについて、みなさんに明らかにしておくべきでしょう。加えて、そういった行き過ぎの先には贅沢な衣服にお金をかけるなどといった豪奢に贅を尽くすという享楽があり、それによって自身を真っ逆さまに落とす不快な病や大きな災難が起こるということもお示ししたいと思います。

暴飲も暴食も「肉の行い」である

 まずみなさんは、全能なる神の御前で食べすぎたり飲みすぎたりするということがどれほど忌み嫌われて憎まれるものであるのかを知る必要があります。聖パウロがガラテヤの人々に宛てて書いたことを思い起こしましょう。彼は暴食や暴飲というものを恐ろしい罪の一つであるとしていて、そのようなことをする者は誰も天の国を受け継ぐことはできないと言っています(ガラ5・21)。暴食や暴飲を「肉の行い(同5・19)」として、不貞や不品行や殺人など人々の間で大きな罪であるとされているものとともに挙げています。というのは、これは第一に神の誉れを汚し、第二に聖なる神殿であるわたしたちの身体を辱しめ、第三にわたしたちを弟殺しのカインと同じにしてしまうからです。聖パウロが言うとおり、そのようなことを犯す者たちは神の国を受け継ぐことはできません(一コリ6・10)。実に、そのような罪は神の御前にあって極めて憎むべき忌まわしいものであり、それを犯す者は神の御恵みから遠く離されて天の国の戸口を入ることを許されず、それを受け継ぐことはありません。神は贅を尽くした大食をおおいに忌み嫌われています。御子である救い主キリストをとおして福音の中で、あらゆる食欲の神々に対しての激しい怒りを明らかにされ、「今食べ飽きている人々、あなたがたに災いあれ、あなたがたは飢えるようになる(ルカ6・25)」と断じておられます。

飲み物も食べ物も神がつくられた

また、預言者イザヤを通しては次のように言われています。「災いあれ、朝早くに起きて麦の酒を求め、夜遅くまでぶどう酒に身を焦がす者に。彼らの宴席には、琴と竪琴、タンバリンと笛、そしてぶどう酒がある。彼らは主の働きを顧みず、御手の業を見ようとしない(イザ5・11~12)。」「災いあれ、ぶどう酒を飲むことでは勇者、麦の酒を混ぜて飲むことにかけては豪快な者に(同5・22)。」この預言者がここでわかりやすく説いているのは、贅を尽くした饗宴を行うと人間は神へのあるべき務めを忘れてわが身の楽しみにのみ耽ってしまうということです。肉や酒を創り出された神の御業に何の思いも致さず、聖パウロが言うように、それらを感謝をもって受け真理を信じて知るべきであるのにそうしなくなってしまうということです(一テモ4・3)。全能なる神の御手によって創られた物を正しく受け取ることによって、わたしたちは神が定められたとおりにそれに感謝することができます。

暴飲と暴食は神の御恵みを貶める

神の御前にあって、御言葉と祈りによる聖別を尊ばずに人が淫らに飲んで食べること、すなわち暴飲や暴食によって感謝の念を持たずに神の善き被造物を濫用することがあってはいけません。これらは神の定めによってそもそも禁じられています。酒をのべつ幕なしに飲んで饗宴に耽る者は、神の裁きなどまったく考えずにいるので、いよいよという時になって突如として罰を受けることになります。キリストは弟子たちにこのように言われました。「二日酔いや泥酔や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が罠のように、突如あなたがたを襲うことになる(ルカ21・24)。」キリストに戒めを求める者はみな、自分自身に気を留めなければいけません。心が暴食に負け暴飲に溺れてしまうと、自身が「主人の帰りは遅れると思い、男女の召し使いを叩いたり、食べたり飲んだり、酔ったりし始める(ルカ12・45)」というみっともない行いをする者とともにあることに気付かなくなってしまいます。そのような信じ難い行いに対し突如として報いを受けます。

アダムとイブが慎ましくあったら

 深酒をして大食いをしてあらゆる邪さに身を委ねることを常とする者は、神の聖なる御心と戒めを忘れ、まどろんで寝入ってしまいます。全能なる神は預言者ヨエルを通して「酔いどれよ、目を覚まして、泣け。ぶどう酒に溺れる者よ、皆泣き叫べ。甘いぶどう酒はあなたがたの口から絶たれたからだ(ヨエ1・5)」と言われています。ここでは神が御恵みに対して節度を持たない者からその御恵みを取り上げ、大酒飲みの口から杯を引き離すと厳しく宣べられています。ここでわたしたちが学ぶのは、神のお創りになったものに対して節度を持たないでいれば神はそれを取り去られてしまうので、わたしたちは暴飲や暴食に溺れてはならないということです。わたしたちの主なる神は、ご自身の与えられた御恵みが、感謝もされず節度をもって受け取られてもいないとなると、それをわたしたちから取り去られるだけではなく、怒りと強い失望から、野放図にして節度を持たない者に対し、復讐をなされます。わたしたちの始祖であるアダムとイブは禁断の実を食べるという醜い食欲に従っていなかったら、楽園で享受していた神の豊かな御恵みを失うこともなかったでしょうし、自身にもまたその後の子孫にも、多くの災禍をもたらすこともなかったでしょう(創3・6)。

淫らな食欲に従う者に罰が下る

神がこの二人に対して定められていた約束は神の御恵みであったというのにこの二人がそれを価値のないものとしたので、二人は楽園を追われることになりました。この二人はもはや楽園の木の実を食べることもなくなってしまったのですが、それは二人が節度をもって御恵みを受け取らなかったためです。神の戒めを破った者として、この二人とその子孫は永遠の恥辱と悲惨の中に置かれて神の呪いを受け、かつてはふんだんに楽しめたはずの糧を、いまや額に汗して得なければならなくなりました(同3・23)。無辺の寛大さを持つ神は余りあるものを与えてくださりますが、わたしたちがものを食べたり飲んだりすることにおいて行き過ぎがあれば、神はすぐにそれを無のものとなされてしまいます。ものが十分にあるなかで栄えを受けるはずであるのに、神はわたしたちを何も持たない者となされ、赤貧をもってわたしたちを懲らしめられます。そうです、わたしたちはかつて容易に手に入れていたはずのものを得るために、苦痛を伴う労役を強いられているのです。御心に従わず、思いのまま淫らな食欲に従う者たちに神は罰を下さずにはおかれません。

 かの使徒が言う「義を説いていた(二ペト2・5)」わたしたちの父祖ノアは、神に大いに喜ばれていた人であったのですが、わたしたちが暴飲を避けるようになる逸話を聖書に残しています。ノアは普段よりも多くぶどう酒を飲んで酔い、淫らにも天幕の中で裸になって横たわり、それを息子たちに見られました。かつては深く尊敬されていましたが、いまや邪な息子であるハムの笑いの的となりました。ハムはノアの他の息子であるセムとヤフェトに対して、何のおくびもなく父の放埓な振る舞いを隠しませんでした。ここでわたしたちが気付くべきは、暴飲が恥辱や嘲笑をもたらし、決して罰を免れないということです(創9・21~25)。ロトも同じようにぶどう酒に負けて、自分の二人の娘と忌むべき近親相姦の罪を犯しました。全能なる神は大酒飲みの者を恥ずべき心の情欲に委ねられます。ここでロトはひどく酔いつぶれて、自分の娘たちが隣に寝ているとはわからずにいました(創19・33~34)。ひとりの老人が妻もすべての財産も失った悲惨な状態にあり、自身の汚れた生活ゆえに神の復讐が恐ろしい形で五つの都市に降り注ぐのを見て、自身の務めを忘れてしまうというなどということを誰が考えるでしょうか。しかしセネカが言うとおり、酒に負ける人間はすべて狂っています。ロトは娘たちに欺かれました。いまや多くの者たちが暴飲による恐ろしい罰をもって神が復讐なさるとは考えずに自分自身を欺いています。ロトが暴飲によってもたらした災厄は小さいものではありません。彼は極めて淫らなことに自身の娘たちと交わって身ごもらせ、事が白日の下に晒されもはや隠し立てできなくなります。近親相姦による二人の子が生まれました。ベン・アミとモアブであり、この二人から二つの部族が起こることになります。それがアンモン人とモアブ人であり、ともに神に忌み嫌われ、イスラエルの民にとっての残忍な敵となりました(創19・36~38)。ああ、ロトは酒を飲んだことによって、世の終わりまで不朽の汚名と非難をうけて、自身に不幸と悲嘆をもたらしました。そもそも信仰に篤い男であり、アブラハムの甥であり神の天使たちを迎え入れた僕でありましたが(同19・1~2)、このロトであっても神は容赦されませんでした。ましてあらゆる信仰の篤さや美徳のある振る舞いを一度だけどころか日夜を問わず避け、むしろ酒を飲み饗宴に耽るという獣のような食欲の奴隷たちに対しては、神はどんなことをなさるのでしょうか。そのような尽きない欲望に身を任せる者たちに対して神がお持ちになる恐ろしい怒りの例を見ていきましょう。

旧約世界での暴飲暴食者の末路

 ダビデの息子であるアムノンは弟であるアブシャロムと酒宴を行い、そこでこの弟に殺害されました(サム下13・28~29)。勇猛な将軍であるホロフェルネスはぶどう酒を浴びるほど飲み、未亡人であるユディトによって首を切り落とされました(ユディ13・2、同13・8)。大祭司シモンはマタティアとユダという二人の息子とともに、アブボスの子でこのシモンの娘婿であったプトレマイオスのもてなしを受けて大いに飲んで食べたのち、自身のこの近親者に策略をもって殺害されました(一マカ16・15~16)。イスラエルの民は食欲を満たすことにわが身を向けないでいたら偶像崇拝にそれほどたやすく落ちはしなかったでしょう(出32・6)。もっとも、わたしたちは今この時代にあって食欲を満たすことにさほど重きを置いていないので、偶像崇拝という迷信に大きく傾くことはないでしょう。

新約世界での暴飲暴食者の末路

イスラエルの民は偶像を前にして「座っては食べて飲み、立っては戯れた(一コリ10・7)」と聖書にあります。自分たちの食欲に仕えようとして、主なる神への務めを捨てたのです。心が暴飲や暴食に傾けば、わたしたちは邪さに溺れてしまいます。ヘロデ王が宴会で夢中になって許してしまったのが、淫婦の娘からの求めによる、かの神に忠実なバプテスマのヨハネの首をはねることでした(マタ14・6~10)。あの裕福な大食家が自身の食欲のままに貪欲でなかったら、哀れなラザロに対してあのように無慈悲ではなかったでしょうし、結果として業火による苦しみを受けることもなかったでしょう(ルカ16・19~23)。神がソドムとゴモラをあれほどにまで大いに罰したのはなぜだったのでしょうか。常に怠惰でありながら豪華に宴会を催し、あまりに生活が淫らで、それでいて貧しい人々に対して無慈悲であったからではないでしょうか(エゼ16・49)。

史実における暴飲暴食者の末路

 アレクサンダー大王は世界を征服した後に暴飲に耽ってしまい、その結果として、酔った状態で忠実な友であるクレイトスを殺害してしまいました。酔いがさめてから彼は大変な慟哭をもって、自分が友人の死を望んだことをいたく恥じ入りました。しかしこのことがあったにもかかわらず、このことがあった後も、彼は宴会を行い続けたのですが、ある晩にぶどう酒をたくさん飲みすぎて熱を出し、しかしそれでもぶどう酒を決して遠ざけようとはせず、悲惨にも数日後に命を落としました。世界の征服者であっても過度な暴飲の奴隷に堕して、気が狂って親友を殺害し、そのようなことをした自身の節度のなさを嘆いて恥じて心から悲しんだにもかかわらず、そこを脱することができませんでした。むしろそこに囚われたままであって、かつては多くの人々を従えていたというのに、いまは自身が食欲などというものの奴隷となったのです。このように大酒飲みや大食家には自分自身を律する力がなく、彼らは酒を飲めば飲むほどにますます輝きが色あせていきます。酒宴が酒宴を呼び、強欲な胃袋を満たそうとするからです。

欲に負け神の怒りを招いてはならない

よく酔う者は常に渇き、大食いする者は決して満たされることはないと言われます。人間の心にある大酒や大食を求める欲望は飽くことを知りません。しかしわたしたちはその獣のような食欲を満たしたくなったとき、自身の欲望に負けて神の怒りを招くことのないようにしなければいけません。聖パウロはわたしたちに「だから、食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい(一コリ10・31)」と説いています。彼が言わんとしているのは、人間はどれほどまで飲んだり食べたりしてよいのかというきまりに従うべきであるということです。身体の中にあまりに多く肉を詰め込んだり酒を注いだりして動きが鈍くなると、神の御栄えを讃美することができなくなります。どんな人間であれ、食べたり飲んだりしすぎることによって神に仕えるのに相応しくなくなれば、罰を受けることを免れないと考えなければなりません。


今回は第二説教集第5章「暴飲と暴食を戒める説教」の試訳1でした。次回は試訳2をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。


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