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偽預言者に注意せよ(2)(第二説教集2章3部試訳2) #92

原題: An homily against Peril of Idolatry, and superfluous Decking of Churches. (教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教)

※第3部の試訳は10回にわけてお届けしています。その2回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(11分08秒付近から22分52秒付近まで):


キリストの像は偶像崇拝につながる

 次に、仮にキリストの像が正しく造られ、聖人の像も同じように造られるとしても、それらが神殿に置かれれば偶像崇拝という不可避の大いなる危険に陥るのであり、律法に適わないということをお話したいと思います。そもそもキリストの像については、仮に正しい姿で造られるとしても、教会堂にこれを置くことが律法に適わないというのは、エイレナイオスの有名な論にみることができます。彼はピラトの時代にそうであったとされるキリストの体格を再現し、現在のわたしたちが目にしている偽りのキリスト像よりも尊ばれる偶像を造っていた異端者たちを論破し、それをグノーシス主義と断じました。グノーシス主義者はキリストの偶像の頭に花輪を頂かせて、その像への敬意を示していました。

自分のために偶像を造ってはならない

しかし神の御言葉をみてみましょう。聖書にははっきりとこう書かれています。「あなたがたは自分のために偶像や彫像を造ってはならない。また、石柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を置いて、それにひれ伏してはならない(レビ26・1、申3・8)。」今わたしたちが目にしている偶像はそのようなものではないでしょうか。キリストや聖人たちの像は、彫られたり型をとられて鋳造されたりして、男や女の姿となってはいないでしょうか(同27・15)。幸せなことに、わたしたちは異教徒が獣や魚や鳥の像を造ることに倣ってはいません。しかしながら、キリストが乗った驢馬の像があまたの土地で神の神殿である教会堂に持ち込まれています。これについては神の聖なる律法のはじめに記され、日々みなさんに対して読み上げられていて、極めて明白なものとなってはいないでしょうか。

いかなる形も造ってはならない

「あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない(出20・4)。」彫られたり鋳型をとられたりして似せて造られたさまざまの偶像にしても、そもそも偶像が造られるべきではないとされていることにしても、聖書のこの言葉よりも強く語られて禁じられ得るでしょうか。すべてのものは天や地や地の下の水の中にあるのではないのでしょうか。キリストや聖人たちも天や地や水の中にあったのではないのでしょうか。もしそういったものが、先ほどの聖書の言葉の中にあるというのなら、それを禁じることは異教徒の偶像に関わるものであり、わたしたちの持つ偶像には関わりのないものとなります。まず、そのような考えはキリストに関わるとともに、三位一体である神の像にまで関わって、エイレナイオスによって大いに論駁されています。また、神の律法では、キリストのものはもとより聖人たちのものも含めて、教会堂という神殿に偶像があるべきではないとされていると理解できます。

偶像を否定する初期教会の思想

もちろんこれは遠く古代の博士や初期教会の思想にもみられます。すでにお話しましたとおり、エピファニオスはキリストや聖人の誰かの絵が描かれていた色のついた布を拝借し、それをわたしたちの信じる教えに反するものとして、そのようないかなる偶像も教会堂という神殿の中に置かれるべきではないと断じました。異教徒の偶像だけでなくキリストや他の聖人の像もすべて、神の御言葉とわたしたちの信じる教えに照らして禁じられるべきであるとしました。ラクタンティウスについてもすでにお話しましたが、いかなる真の教えを表すとしても、絵画も含めて偶像は存在してならないとはっきりと述べた上で、異教徒のものも含めてあらゆる偶像が禁じられるべきであるとしています。このような状態になっていなければ、彼は偶像についてそう語りはしなかったでしょう。これもすでにお話しましたとおり、聖アウグスティヌスに至っては、宗教が偶像のないところで極めて純粋なものとなるのだとウァロが断じていることを大いに認めて、彼自身も偶像は不幸な魂を諭して教化するどころか、それをさらに歪める力を持っているのであると述べています。さらに彼は、すべての子どもも、またすべての獣さえも、自分たちが目にしているのは神ではないと知っているのだとも言っています。

偶像が崇拝されれば悪が生まれる

 ではなぜ聖霊はすべての人間が知っているはずのことを諭しているのでしょうか。これについて聖アウグスティヌスは次のように答えています。偶像が神殿に置かれ、誉れのある荘厳さのなかでひとたび崇拝を向けられれば、極めて悪意のある愛という過ちを育ててしまうことになるからです。これが教会堂における偶像についての聖アウグスティヌスの考えです。偶像はしだいに偶像崇拝という過ちを育んでいきました。七百年か八百年か前に、キリスト教国の皇帝たちや学識ある司教たちや、アジアとギリシアやスペインのあらゆる知識人たちがコンスタンティノープルやスペインに集まり、キリスト教徒が置いたキリストや聖人たちの偶像を、非難をこめてすべて破壊するに至りました。

禁じられるのは異教の偶像のみならず

すでにお話しましたとおり、神が御言葉によって禁じられているのは異教徒の偶像だけではなく、わたしたちが信を向けるものの偶像でもあります。『知恵の書』の第十四章には、「偶像は初めからあったものではなく、永遠に続くものでもない(知14・13)」と書かれています。つまり偶像は教会に初めからあったものではなく、やがて破壊されるものであると神は言われています。オリゲネスがケルソスに反駁しキプリアヌスやアルノビウスが述べているように、初期教会のすべてのキリスト教徒は神の代わりとなる偶像はないと強く諭されていました。偶像を置くことが神の御言葉に照らして律法に適うと考えていたなら、彼らは偶像を造ることにおいて異教徒に倣わず、偶像を置かないことによって異教徒の不興を買うということはしなかったでしょう。彼らが教会という神殿において、あらゆる偶像が律法に適わないとみなしていたのは明らかです。異教徒にとって極めて不満ではあったでしょうが、彼らは「人に従うより、神に従うべきです(使5・29)」という言葉に従っていました。

偶像は教会堂にあってはならない

ゼフィリウスはテルトゥリアヌスの弁明についての文章を残しています。そこでの彼の強い説得はすべて厳しい以外の何物でもなく、わたしたちはただ彼の時代に生きたすべてのキリスト教徒が、装飾を施された偶像を極めて嫌っていたことを知ることができます。さきほど名前を挙げましたエイレナイオスは異端者をグノーシス主義者と断じましたが、それはキリストの偶像を有していたためでした。このあとの教会は極めて腐敗がなく純粋であり、教会堂の中では異教徒の偶像も含めてあらゆる偶像が神の御言葉によって厳しく禁じられるものとなりました。つまり、神の御言葉と、博士たちの文言と、極めて純粋で真摯であった初期教会の考えにおいて明らかであるのは、異教徒の偶像はもとより、わたしたちが信じるものの偶像も、神の御言葉によって禁じられているということです。特に神殿である教会堂に置くことは律法に適わないとされています。

崇拝なく偶像を持つこともいけない

 偶像は神に崇敬を向けるために造られるものであるのだから、神は偶像を造ることを御言葉によって完全に禁じられているわけではないはずだという理屈に彼らは走るかもしれません。そうであるならわたしたちは偶像を有していてもそれを崇拝しないでいるということになります。しかし偶像は誤用されるのであれ正しく用いられるのであれ、人を惑わすものです。すでにお話しておりますが、このことはダマスカスのヨハネやグレゴリウス一世の例にみるとおりです。この理屈は偶像を正当化することについてグレゴリウス一世の時代から引き合いに出されてきたもののひとつです。

偶像を置けば偶像崇拝に至る

 彼らのもう一つの理屈へと話を進めます。認めることのできないところがあります。わたしたちは迷信的でも信じやすくもないので、絨毯や籠や壁掛けに施された花々も、硬貨におされた君主たちの像も忌み嫌いますが、キリストが君主の像をローマの硬貨にご覧になったとしても、キリストがそれを咎められるとは思っていません。それはわたしたちが描画や造形の技術それ自体を邪なものとは思っていないからです。わたしたちは偶像が迷信のために使われないのならば、それを認めて受け入れもしています。偶像が何ら崇拝の対象とならず、何ら崇拝される可能性もないのならば害とはなりません。しかし神殿で人目を引くように置かれる偶像は崇拝を向けられてしまうものであり、偶像崇拝の可能性なしには存在しえません。偶像が神殿である教会堂に公に置かれ崇められるべきではないのです。

律法のはじめでは偶像は排斥された

律法はまずユダヤ人に授けられたのですが、これはすべての博士たちが考えるに、儀式の上でではなく心の中に持つ戒律であり、ユダヤ人のみならずわたしたちも守るべきものです。真の意味での神の律法を持っているはずのユダヤ人は、自分たちにそれが与えられたはじめのうちは神殿にどんな偶像も置きはしませんでした。オリゲネスやヨセフスが詳しく述べているように、彼らは崇拝を向けないまでも、ともかく偶像がエルサレムの神殿に置かれることをヘロデやピラトやペトロニウスに同意してよしとすることもありませんでした。むしろ偶像が神の神殿に置かれることを認めるくらいならば、死を選ぶことも辞さないとしました。もちろん、自分たちの間でいかなる偶像を造ることも許容しませんでした。オリゲネスが言っているように、自分たちの精神が神のもとから離され、地にあるものと同じくならないようにとしていたのです。

神の律法に従うべきである

ユダヤ人は神の誉れと真の教えを守ろうとして、このような熱心さを重んじています。ただユダヤ人とトルコ人はともに偶像や彫像を避けてはいますが、神に固く禁じられたこととしてわたしたちが忌み嫌っているほどではありません。わたしたちには偶像という躓きとなるものがあり、確かに彼らの行く道にもそれはあります。しかしモーセが作った青銅の蛇や自分たちで神殿に置いたケルビムなどの像を彼らが崇めるのを見れば、このように言うことができます。わたしたちはあらゆる人々をつなぐ神の律法に従うべきであって、自分たちに都合のよいものに従うべきではありません。さもなければ、わたしたちは割礼や、獣を生贄に捧げることなど、ユダヤ人がよしとしていることを始めてしまうことになります。

偶像は真の信仰を歪曲するだけである

誰も立ち入らないであろうところにケルビムの像を密かに置くことも、もちろんそこでそれを見ることも、わたしたちが神殿である教会堂に、誰からも見えるように偶像を置くということを正当化する例とはなりえません。しかし、ユダヤ人はそうしています。崇拝の対象とはならず無害である偶像を神殿や教会堂に置くことはできると彼らが言うとき、わたしたちはこれに対抗して次のようにはっきりと言います。教会堂という神殿に置かれた神や救い主キリストや聖人たちの偶像はすべて、明らかに神への真の崇敬を表そうとしてしまうものであって、無害と言えるものではありません。許容できるものではなく、神の律法と戒めに反し、真の信仰を歪曲するだけのものです。

偶像が持つ問題点のまとめ

 第一に、公のところに置かれた偶像はすべて、結局は学識のない人々や信じ込みやすい人々からの崇拝を受けていますが、それに加えて学問を収めた博学の人々からも崇拝を受けてしまいます。
 第二に、そういったものはこれまで多くの場所で崇拝されてきていますが、今日においてもそうであるままです。
 第三に、神やキリストや聖人たちの像は、特に教会堂という神殿において、いずこでもいつの時でも、崇拝を向けられずにはありえません。

偶像と偶像崇拝は不可分である

偶像崇拝は、神の御前においては最も忌み嫌われるべきものであるのですが、特に神殿である教会堂においては彫像や絵画を破壊して打ち捨てることなしにはおそらく避けられ得ません。偶像崇拝は特に教会堂という神殿においては、その言葉のとおり偶像とは不可分のものです。教会堂の偶像と偶像崇拝はともにあるもので、したがって一方は、特に公共の場でもう一方が破壊されない限りは避けられ得ません。偶像を造り、それを神への務めをするべき場である教会堂という神殿に公に置くことは、わたしたちの信じる宗教に照らせば、「あなたは自分のために彫像を造ってはならない(申5・8)」という言葉に反する像を造ることとなります。また、こうも言われています。「それにひれ伏し、それに仕えてはならない(同5・9)。」というのは、偶像が置かれれば、これまでも今もこれからも偶像が崇拝されることになるからです。この説教の第一部の冒頭でも触れたことがここにあります。

宗教は違っても偶像は同じもの

わたしたちが目にしている偶像とユダヤ人の偶像は同じものです。わたしたちが目にしている偶像も彼らの偶像も、形や作法において、異教徒の偶像が崇拝されているように、これまでも今もこれらかも崇拝されて、教会堂である神殿において受け入れられることになります。わたしたちの教会堂にある偶像は、これまでも今もこれからも忌むべき彫像であるに他ならず、まったく無価値なものであるということになります。こういったことのひとつひとつについては、これからお話することの中で明らかにしていきます。


今回は第二説教集第2章「教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教」の第3部「偽預言者に注意せよ」の試訳2でした。次回は試訳3をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。


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