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宥めの献げ物(2)(第二説教集12章試訳2) #147

原題:An Homily or Sermon concerning the Nativity and Birth of our Savior Jesus Christ. (主イエス・キリストの降誕についての説教)

※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(12分56秒付近から):


神にして人であることを否定する異端

 救い主の本性や実体にかかわっては、サタンの動きや働きかけにより、あまたあるたくさんの異端がわたしたちのこの時代に起こっています。このことについても一言か二言かお話しするのが、みなさんを導くのに必要であり意味があると思います。わたしたちは聖書のなかで、救い主キリストには、ひとりの人間としてある人性と、まったき神としてある神性という、二つの本性があるのだとはっきりと教えられています。「言は肉となって(ヨハ1・14)」三位一体のうちの第二のものとなりました。「神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです(ロマ8・3)。」「キリストは神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の形をとり、人間と同じ者になられました(フィリ2・6~7)。」「キリストは肉において現れ、霊において義とされ、天使たちに見られ、諸民族の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられ(一テモ3・16)」ました。また、「神は唯一であり、神と人との仲介者も唯一であって、それは人であるキリスト・イエスです(同2・5)」ともあります。これらは一人のキリストのなかに編み合わせられた二つの本性についてはっきりと語られている箇所です。

聖書をもって異端に反駁する

 キリストがこの世にあったときになされたみ業を真摯に受け止めてよく考えてみれば、わたしたちはこの二つの本性を極めて真のものと考えることができます。この世にあってキリストは飢えと渇きに苦しまれ、ものを食べて飲まれ、寝起きもなされました。この世にあってエルサレムのために涙を流して悲しまれ、ペトロに敬意を示され、この世にあって死を受けられました。キリストがわたしたちと同じくひとりの人間であられたのではないと言えるのでしょうか。人であられるので、キリストは聖書においてときにダビデの子と、またマリアの子と、あるいはヨセフの子など呼ばれています。キリストはこの世にあって罪をお赦しになり、奇跡を起こされ、この世で悪魔を取り除かれ、み言葉をもって病人を癒され、人の心を読まれました。この世で魚をたくさん獲られ、水の上を歩かれ、死からよみがえられ、天へと昇られました。またキリストは神性において神と同一であるまったき神であられるのではないと言えるのでしょうか。キリストが「私と父は一つである(ヨハ10・30)」と言われるのはその神性を示すものと理解できます。一方で人性を示すものとしては、「父は私よりも偉大な方だからである(同14・28)」というキリストの言葉があります。キリストが肉においてお生まれになったことやひとりの人間であられたことを否定するあのマルキオン派の思想ではどう言われているでしょうか。キリストがまったき神であって父と同一の実体を持たれたことを否定するあのアリウス派の思想ではどう言われているでしょうか。これらに対し、わたしたちは神のみ言葉による証しをもって、容易に反駁することができます。その反駁に彼らは答えることなどできないとわたしは信じています。

なぜ救い主が人でなければならないか

わたしたちの救済のためには、ひとつの人格において二つの本性を持つ仲保者や救い主が必要なのであり、その方は人間であるとともに、神でもあることが求められます。罪を犯すのは人間なのですから、その贖罪は人間によってなされるべきです。聖パウロによれば、死は神の怒りを宥めてその義を満たすためにある罪の代価であり報いですので、わたしたちの仲保者が人間の罪を引き受けて、そのために定められた死という罰に服するのは相応しいことです。さらにその仲保者は肉においてやって来て、その肉において天に昇り、その方を固く信じる信仰深い人々はすべて、わたしたちを導くその方がすでにおられる館に来ることになるのであると、わたしたちに対して明らかにされ証しされます。もうひとつ言えば、わたしたちと同じ虚弱さを持ち、誘惑もされるひとりの人間としての仲保者は、わたしたちが祈っているときはもちろんのこと、困難にあるときであっても、わたしたちに大いなる平安をもたらす方になられました。その方はわたしたちと同じように、肉において世に来られることが必要であったのです。

私の愛する子、私の心に適う者

 しかし、どんな人間であれ、所詮は被造物に過ぎないのですから、死に打ち勝って命をもたらすということや、地獄を征服し天国にあるということや、罪を取り除いて義をもたらすということはできませんし、できようもありません。それゆえに、そのために必要な務めを果たすべき救世主が、五体をもったひとりの人間であり、まったき神ともなって、人間の救済のために十分に業をなされることが求められるのです。神は「これは私の愛する子、私の心に適う者(マタ3・17)」と言われています。ここからわたしたちが学べるのは、キリストが父の怒りを宥めて和らげられるものの、そこにおいてはただ人の子であられたというだけではなく、それ以上に神のみ子であられたということです。
 みなさんは聖書を通して、イエス・キリストが世の救い主である真の救世主であり、本性と実体においてまったき神でありひとりの人間でもあり、さまざまな理由からそのように言えるのだということを知りました。この点において、わたしたちは神に対してさらに感謝を示し、これから少しの時間になりますが、わたしたちの救い主であるメシアの降誕つまり誕生によってわたしたちが受け取った、神の極めて大いなるみ恵みに思いを致すこととしましょう。

キリストは人間の罪を一身に負った

 キリストがこの世に来られるまで、そもそもアダムにつながるすべての人間は、邪で歪んだ者たちでしかなく、腐って朽ちそうな木であり、石のように硬い土であり、棘ばかりの枝でした。迷える羊であり、放蕩息子であり、躾のなされていない不従順な僕であり、不誠実な従者であり、怠け者であり、陰険な毒蛇であり、死の闇という暗がりにある者でした。つまり、永劫の罰を受ける子であり、地獄の業火に焼かれるべき者でした。このことについては聖パウロがその書簡の多くの箇所で述べていますし、キリストご自身も福音書の多くのところで語られています。しかし、キリストが天から来られ、わたしたちの悪しき本性を取り去り、ご自身を心から信じてみ言葉を受け取った人々すべてを、良き木に、良き土に、実を多くつける枝になされました。光の子に、天の国に住まう者に、ご自身が飼われる羊に、ご自身の身体の一部に、み国を受け継ぐ者に、真の友や兄弟に、香しく生けるパンに、そして、神に選ばれる者になされました。聖ペトロは第一の書簡の第二章でキリストが「自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒されたのです。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです(一ペト2・24~25)。」「あなたがたは選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です(同2・9)」と述べています。「イエスは、私たちの過ちのために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられ(ロマ4・25)」ました。聖パウロはテモテに宛てた書簡の第三章で「私たち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、さまざまの欲望と快楽の奴隷になり、悪意と妬みのうちに日々を過ごし(テト3・3)」などと述べています。

神は慈悲をもって救い主を遣わした

 神の寛大なるみ心によって、わたしたちの救い主が世に遣わされました。これはわたしたちがしたことの正しさゆえではなく、神の大いなる慈悲のゆえであり、神が新しい誕生という泉により、聖霊の新生により、溢れんばかりにわたしたちに注いだものでした。救い主イエス・キリストを通し、その血に希望と信仰をもって、わたしたちは神のみ恵みによって義とされ、永遠の命を授かるのです。
 いま聖書の言葉がわたしたちの目の前にあって、まるでグラスに溢れんばかりにある神のみ恵みがキリスト・イエスにおいて受け取られています。これが極めて素晴らしいのは、わたしたちのどんな荒れた土からも出るものではなく、仮にわたしたちが神に真っ向から歯向かう者であるとしても、神の極めて愛に満ちた慈悲から出るものであるというところです。しかし、このことをよりよく理解して飲み込むために、キリストの降誕によってもたらされたものをよくみて、キリストの降誕によって、わたしたち悲惨で罪深い者たちにどれほどの大きなみ恵みや恩寵がもたらされたのかを知ることが大切です。キリストがこの世に来られたことの目的は、「自分の民を罪から救う(マタ1・21)」ためであり、律法を「完成するため(同5・17)」であり、「真理について証しをするため(ヨハ18・37)」であり、「福音を告げ知らせるため(ルカ4・18)」でした。世に光をもたらすためであり(ヨハ8・12)、「罪人を招くため(マタ9・13)」であり、重荷を負って苦労している人を休ませるためであり(同11・28)、この世の支配者を追放するためであり(ヨハ12・31)、その肉体においてわたしたちを和解させるためでした(コロ1・22)。また「悪魔の働きを滅ぼすため(一ヨハ3・8)」であり、「私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物(同2・2)」となるためでした(ロマ3・25)。

キリストによって人間は救われる

 これらはキリストが人となられた主な目的であったのですが、それはキリストご自身に益がもたらされるためではなく、わたしたちに益があるようにとされるためでした。わたしたちが神のみ心に思いを致し、天国の光を受け、悪魔の罠から救われ、罪の重荷から解き放たれ、キリストの血への信仰によって義とされ、ついには永遠の栄光に与り、キリストともにみ国にあるようにするためでした。これはキリストが人間に向ける大いなる純粋な愛ではないでしょうか。神の明らかな生ける姿をとりながら、それにもかかわらずキリストは慎ましくあって、わたしたちを救い贖うために僕となられたのではないでしょうか。ああ、このようにしてわたしたちは神の善性にどれほど強くつながれていることでしょう。神が愛されるひとり子キリストにもたらされるわたしたちの救済にかかわって、わたしたちはどれほどの感謝と賞讃を神に向けることができているのでしょうか。キリストはわたしたちを天に住まう者にすべく、この世で巡礼者となられましたし、わたしたちを律法の呪いから救い出すべく、律法に従う方となられました。また、わたしたちを富ませるべく貧しくあられましたし、わたしたちを高貴なものとすべくご自身は卑しくあられ、わたしたちを永遠に生かすべく死を受けられました。わたしたち愚かな人間は神のみ手にこれ以上の大きな愛を望み求めることができるというのでしょうか。

まとめと結びの祈り~堅固であれ

 愛すべき者たちよ、救い主のこの卓越した愛を忘れてはなりません。救い主に対して感謝の心を見せずにいてはなりません。救い主を愛して畏れ、救い主に従って仕えなければなりません。わたしたち自身の口で救い主に告白し、自分たちの言葉で救い主をほめたたえ、心をもって救い主を信じ、善い行いをもって救い主の栄光を讃えましょう。キリストは真であり、わたしたちはその真を信じるべきです。キリストは道であり、わたしたちはその道に従うべきです。キリストはわたしたちにとって唯一の主人であり、教師であり、牧者であり、隊長でありますから、わたしたちはその従者であり、生徒であり、羊であり、兵士です。キリストがこの世に来られる前にわたしたちが従者や奴隷となっていた罪や肉や言葉という悪魔を、わたしたちは魂の大いなる敵となるものとして捨て去り、打ち消さなければなりません。わたしたちはキリストによっていったんは残忍な暴君たちから解き放たれたのですから、再びその手に落ちて、むしろかつてよりも悪いところに身を置くようであってはなりません。聖書には「最後まで耐え忍ぶ者は救われる(マタ10・22、マコ13・12)」とあります。神は「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう(黙2・10)」と言われています。またこれとは別に、「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない(ルカ9・62)」とも言われています。わたしたちは主のみ業に対して、常に強く、迷いなく、堅固であらなければなりません。一時のことではなく、いつのときもキリストを受け入れましょう。一時のことではなく、いつのときもみ言葉を信じましょう。一時のことではなく、いつのときもキリストの従者となりましょう。キリストがわたしたちを、一時のことではなく、とこしえに救い贖われ、天の国に迎え入れてそこにともにあるようにしてくださったことに思いを致しましょう。キリストに、父と聖霊とともに、すべての誉れと讃美と栄えがとこしえにありますように。アーメン。


今回は第二説教集第12章「宥めの献げ物」の試訳2でした。これで第12章を終わります。次回から第13章に入ります。最後までお読みいただきありがとうございました。

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