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時をよく用いよ(1)(第二説教集17章3部試訳1) #172

原題:An Homily for the Days of Rogation Week.  That all good things cometh from God. (祈願節週間のための説教~あらゆる善きものは神より出る)

※第3部の試訳は2回に分けてお届けします。その1回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(30分10秒付近から39分3秒付近まで):



第2部の振り返り~信仰は神の賜物

 わたしはみなさんに、あらゆる霊的な賜物やみ恵みは神のみから出るということについてお話することを約束しました。このことの真について考え、キリスト教徒の生活へのまさに入り口であり、それなしには神に喜ばれることのない信仰の賜物によって、まずもって証しされていることに耳を傾けましょう。聖パウロは神からのこの賜物にかかわり、信仰は「神の賜物です(エフェ2・8)」とはっきり述べています。また彼は「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています(一ペト1・5)」とも述べています。わたしたちが神への望みをなくさないでいられるのは神の善性によります。慈善をもって兄弟を愛することができるのも、まさにわたしたちに働く神のみ業です。堕落したわたしたちが悔い改め、わたしたちを引き上げてくださる神のご慈悲に手を伸ばせるのも神のみ業です。わたしたちが引き上げられたいと思っているとき、その思いを砕かれてわたしたちを再び落とされるのも神です。悔い改めたのち、わたしたちは罪の赦しによって平安にあって良心を持ち、再びみ心に適うように神と和解し、永遠の命を授かる神の子となることを望むに至るのですが、わたしたちにこういった大いなる奇跡をもたらされるのはどなたでしょうか。わたしたちの功徳や行いや努力や知恵や美徳がそういったものをもたらすというのでしょうか。そうではありません。

神はみ子によって世に恵みを与える

まさに聖パウロは肉や土くれがそのような傲慢な考えを持つべきではないとして、「これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ(二コリ5・18~19)」られたと言っています。あらゆる慈悲の父であられる神はわたしたちにこの大いなるみ恵みをもたらされました。ただそれは神ご自身でではなく、仲立ちをもってであり、その仲立ちとはたった独りのみ子にほかなりません。神はわたしたちに善をもたらされるべく、そのみ子にあらゆる痛みや苦しみを負わせられました。神はキリストにわたしたちの罪を負わせられ、わたしたちの身代金を支払わせられました。神はキリストをご自身とわたしたちを仲立ちする方とされましたが、キリストのこの仲保は完全にして徹底した服従を通して父なる神に受け入れられました。神はキリストの仲保をわたしたちの不従順や反抗を打ち消すものとして受け取られ、キリストの義をわたしたちの罪を補うものとされました。キリストの贖いがあることによってわたしたちの破滅は避けられました。

み子は神の栄光の輝きで神の本質

 善良なるみなさん、この点において、わたしたちが深く考える必要があるのは何でしょうか。それは神のこの大いなる善性を思って聖パウロが次のように言っていることにほかならないとわたしは思います。「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します(ロマ7・25)。」「あなたがたの救われたのは恵みによるのです(エフェ2・5)。」「それは、キリスト・イエスにおいて私たちが賜わった慈しみにより、神の限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に現すためでした(同2・7)。」そうしてキリストのみによって完全に、神は「天にあるものも地にあるものも(コロ1・16)」すべてを再び取り戻されます。天なるわたしたちのこの仲保者によって、わたしたちは父なる神の愛とご慈悲を覚えます。この仲保者によって、わたしたちはみ心がわたしたちに望まれるところを知ります。「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の現れ(ヘブ1・3)」です。天の父が心から愛されるみ子であり、わたしたちの教師として定められるのは(マタ3・18)、また「これに聞け(同17・5)」と言われてわたしたちが耳を傾けるべきはこの仲保者です。

キリストの秤よって恵みが与えられる

天の父があらゆる霊的な天の賜物をもってわたしたちを祝福されるのはキリストによってですし(エフェ1・3)、聖ヨハネが述べているとおり、キリストの愛によってわたしたちはみ恵みを受けています(ヨハ1・16)。父なる神は救い主であるこの仲保者に天と地の力と完全な権威を授けられ、賜物を与えられました。かくしてかの使徒が「私たち一人一人に、キリストの賜物の秤に従って、恵みが与えられています(同4・7)」と述べるとおりになります。そこにおいてキリストはご自身に委ねられた権威を実行するために、罪や悪魔を閉じ込め、ご自身の成員には何の痛みもないようになされます。父のもとに再び昇って天からたくさんの賜物をその愛する従者たちへと送り、なおかつ世界の終わりに至るまで、教会の確立と充実を期して父の賜物を絶えず分け与える力を持たれます。キリストによって、全能の神はこの世の終わりを告げられ、ご自身の前にすべての人々を集められ、生ける者と死せる者の両方を裁かれます。キリストによって神は邪な者を地獄の業火に定められ、一方で善良なる人に永遠の命を授けられ、永遠に天においてご自身とともにあることを確かにされます。いかにすべてのものが神から、またそのみ子である救い主キリストから出ているのかがおわかりでしょう。

感謝にまさる献げものはない

 ぜひ覚えてほしいのです。わたしはもう一度言います。みなさんの感謝の務めは求めることによって得られるものではありません。そうではなくみなさん自身を感謝のなかに置き続けるべきです。みなさんは神に対してこのことに勝る献げものをすることはできません。神ご自身がこう言われています。「感謝を神へのいけにえとせよ。いと高き方に誓いを果たせ(詩50・14)。」聖なる預言者ダビデはこれを踏まえ、自身も熱を込めて語りました。「私の魂よ、主をたたえよ。私の内なるすべてのものよ、その聖なる名をたたえよ。私の魂よ、主をたたえよ。そのすべての計らいを忘れるな(同103・1~2)。」善良なるみなさん、わたしたちがこれを覚え、これがわたしたちの心の中にあると感じるというみ恵みを神がわたしたちに授けてくださりますように祈りましょう。これを覚えて感じることはわたしたちから出ることではありません。わたしたちの力でそれをもたらすことはできません。この恵み深さをわたしたちが持たないのはなんと哀れなことでしょう。わたしたちは柔和に、慈悲あるわたしたちの父から、つまり仲保者キリストから出ている、かの無辺の魂である聖霊を呼び求めるべきです。聖霊においてわたしたちは救いについて明らかにされる神の善性を知ることができます。

聖霊なしには主のみ名を唱えられない

聖霊の神秘の霊感なしに、わたしたちは仲保者の名を唱えることなどできません。聖パウロは簡潔にこう証ししています。「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません(一コリ12・3)。」わたしたちは自分の力ではキリストによって証しされているこの大いなる神秘を覚えることも信じることもできません。聖パウロは言っています。「神の霊以外に神のことを知る者はいません。私たちは世の霊ではなく、神の霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです(同2・11~12)。」かの賢者に至っては、聖霊の力と徳において、神を知って神の喜ばれるところとなるためのあらゆる知恵と力があるのだとしています。彼はこう言っています。「神の御心を知りうる人が誰かいるでしょうか(知9・13)。」「あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みからあなたの聖なる霊を遣わされなかったら、誰が御心を知ることができたでしょうか(同9・15)。」「聖なる天から知恵を遣わし、あなたの栄光の玉座から知恵を送ってください。知恵が私と共にいて働き、あなたが何を喜ばれるのかを私が知ることができるように(同9・10)。」

聖霊によって恵みに相応しい器となる

 この賢者がしているように、善なる心をもって祈りましょう。そうすればわたしたちは神の助けを得ることができ、悪に落ちることはありません。神はご自身を愛する人々の目に、つまり神を求める人々の目にみ姿をお見せになります。これほどに知恵の霊は大にして寛容です。聖霊の力によってわたしたちは神への務めを知るために十分な力を持ちます。聖霊によってわたしたちは自身の務めにおいて穏やかに勇気をもって歩むことができます。聖霊によって、わたしたちは全能の神のみ恵みを受けるに相応しい器となることができます。秘かな働きにより心を清めて純なものにするのも聖霊です。聖霊は至るところにあって、わたしたちの目には見えない力により万物を統理しています。聖霊は全能の神に思いを致すための心を照らし、人間の舌をして神の誉れを口にするようにさせます。どの言語も神から遠くにはありません。神はあらゆる言語の知識をお持ちであり、神のみがわたしたちの魂と肉体への霊的な力を司られています。人生の旅路を正しく歩むために神が準備なさっている道を行くときに、聖霊の力がわたしたちの弱さを補っているということを覚えなければなりません(ロマ8・26)。わたしたちが堂々として祈りを行って全能の神を父と呼び求め嘆声も出せるのは、わたしたちを執り成す聖霊によります(ガラ4・6)。どのような賜物を授かろうと、それをもってわたしたちは神の栄光と隣人の幸福のために働くことができます。あらゆるものは神ご自身の霊によってもたらされ、霊が望むままにすべての人々にあまねく分け与えられます(一コリ12・8~11)。

幸いな者は主の教えを喜びとする

わたしたちにどのような知恵があろうと、それはわたしたち自身から出るものではありません。知恵が自身から出たごとくに誇るのではなく、わたしたちは知恵の源である神において栄えるべきです。預言者エレミヤはこう述べています。「誇る者はただこのことを誇れ。悟りを得て、私を知ることを。私こそ主、この地に慈しみと公正と正義を行う者。これらのことを私は喜ぶ。主の仰せ(エレ9・23)。」この知恵は容易に得られるものではなく、神の霊が定めるところの霊的な知恵と呼ばれます。わたしたちは自身の行いや振る舞いを持つ基となる神のみ心についてのこの知識を、聖書のほかにどこにも確かに求めることができません。救い主キリストは「聖書は私について証しをするものだ(ヨハ5・39)」と言われています。知識や学びと呼ばれるものは神のみ言葉なしには得られません。かの賢者は「神を知るに至らなかった人々は皆、生来空しい者である(知13・1)」とはっきり述べています。古い時代の哲学者たちはこの点で貧しかったために、神のみ言葉を求めてもどれほど空しさを持ったかをわたしたちは見ています。彼らが神のみ言葉をみていながら、神のみ心ではなく、むしろこじつけや慣習による決まりごとや、教父たちの経験や教会の実際を求めたことにより、教義がどれほどの空しさをもって混ぜこぜにされてきたかをわたしたちは見ています。わたしたちは昼も夜も聖書を繰り返し読まなければなりません。「幸いな者(詩1・1)」は「主の教えを喜びと(同1・2)」します。「あなたの言葉は私の足の灯、私の道の光(同119・105)」なのです。神のみ言葉によって無学で無知な人は知恵を授けられます(同19・8)。神のみ言葉の中でわたしたちは永遠の命を見出すことができます。


今回は第二説教集第17章第3部「時をよく用いよ」の試訳1でした。次回は試訳2をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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