時をよく用いよ(2)(第二説教集17章3部試訳2) #173
原題:An Homily for the Days of Rogation Week. That all good things cometh from God. (祈願節週間のための説教~あらゆる善きものは神より出る)
※第3部の試訳は2回に分けてお届けしています。その2回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(39分3秒付近から47分37秒付近まで):
神の知恵を求め神の戒めに従順になる
わたしたちは聖書でキリストに会い、キリストにおいて神に会います。それはキリストこそが父のまさに似姿であるからです(ヘブ1・3)。キリストを見る人は神を見ています(ヨハ14・9、同5・23)。見方を変えれば、聖ヒエロニムスも言うように聖書を知らない者はキリストを知らないということになります。キリストを覚えていなければ暗闇の中にあることになるのであり、ただ哲学をもってこじつけるというこの世の肉的な闇のただ中にあることになります。キリストがおられなければ愚かさの中に身を置くことになります。キリストは父なる神による唯一の知恵であり、神は「満ち溢れるものを余すところなく御子の内に宿らせ(コロ1・19)、」ご自身の喜ぶところとなされました。キリストとともにあれば誰もが信仰を心に抱き、「愛に根ざし、愛に基づく者となることによって、すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟(エフェ3・17~18)」ることができます。この普遍にして絶対の真理は聖パウロがエフェソの信徒たちに持つようにと望んだもので、天の下にあって得ることのできる極めて大きな宝物です。これについてかの賢者は自身の経験を踏まえてこう述べています。「知恵とともにすべての善いものが一時に私を訪れた。知恵の手の中には数えきれない富がある(知7・14)。」同じところでさらに「知恵がそれらの母だ(同7・12)」とした上で、「知恵は人間にとって尽きることのない宝であり、それを手に入れた者は、知恵の教えがもたらす賜物を通して神に引き合わされ、神の友とされる(同7・14)」と付け加えてもいます。わたしはここにお集まりのみなさんのうちの何人かでも、こじつけを捨てて神の知恵を求め、頭で考え出される小賢しさから遠ざかって神の戒めに従い、この世の知恵や策略を排して神に従順になり、神がわたしたちに楽しむようにとされている美味を享受してほしいと思っています。とはいえこの説教の第三部の先を急ぐ必要があります。
信仰を持てば無駄に時を過ごさない
この第三部では、神がご自身で選ばれた人々に、どのように天の動きや時の移り変わりや循環について理解するようにされているのかを、神のみ恵みによってより詳しくお話します(知7・17~18)。このことはわたしがすでにみなさんにお話したことに続くものですので、霊的な知恵を知りたいと願う人には聞いていただく必要があります。霊的な知恵をどこに見出そうとするべきなかを探り、それをどなたに求めるべきであるかを知ることができます。この世の時のなかで霊的な知恵が見出されることを知れば、来たる時に向けて自身を鍛えることができ、いたずらに時が過ぎるのをよしとするのではなくそのなかにあってこの知恵を求めて行いを為すことができます。そうして自身を高めていけば、神が無辺のご慈悲と寛大さから、どのようにしてすべての人にこの世で悔い改めの時と場所を与えてくださっているのかを知ることができます。ヨブが述べていますが、邪な者がどのようにして霊的な知恵を勝手に乱用しているのかを見て信仰深い人はよりよく時を過ごすことができ、邪な者のように時を無駄にすることはなくなります(ヨブ24・1)。
山鳩や燕でも自身の時を知っている
神の知恵を求める人はこの世の生について真摯かつ熱心に探究して集い、来るべき時を待ちながら富を得て自分たちの土地を広げ、いつ何事が起こってもよいようにしています。時が過ぎゆくなかで時をとらえ、ともすれば眠ったりくつろいだりする時間を削り、多くの痛みに耐え、過ぎてしまった時は当然のこととして再び戻らないということを知っています。後悔を持ってもそれを癒す手立てはありません。自身の生を霊的に生きる人が時を待ちながら財産に執着し、永遠の勝利を収めないでしまうということがあり得るのでしょうか。世の物事をこじつけて考える者には野蛮な無知があり、山鳩やこうのとりや燕でも時を待っているというのに、自身の時や潮目には無知でいます。エレミヤはこう言っています。「空のこうのとりも自分の季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も自分の帰る時を守る。しかし、わが民は主の法を知ろうとしない(エレ8・7)。」聖パウロはわたしたちに「時をよく用いなさい。今は悪い時代だからです(エフェ5・16)」と言っています。この言葉は聖パウロだけのものではなく、神の知恵を求めるすべての人のものであるのです。
勤勉さをもって時を得て光に向かう
時を知るということほどに真剣に与えられ命じられている教えはありません。そうです、キリスト教徒は神がどれほど大いにご不快になられ、神を知らない者に聖書において脅威を示されていることを知っているのですから、進んで時を知ろうと努めるべきです。救い主キリストは涙を流してエルサレムの破壊を預言したのち、「それは、お前が神の訪れの時を知らなかったからである(ルカ19・44)」と言われてその道理を明らかにされています。ああイングランドよ、日々みなさんに示されていながら、みなさんが思いを致そうとしない神の慈悲深い訪れの時についてよく考えるべきです。みなさんは神の罰によって駆り立てられているのではなく、神のみ恵みに感謝するようにとされています。感謝の心がなければ自身に災厄が降りかかることになると思っているのなら、みなさんには心の平安を持つ必要があります。みなさん、この世は往々にして神を忘れがちではありますが、この世の時をよく用い、勤勉さをもって時を得て、わたしたちに注がれる光と恵みに自身を適わせましょう。神の愛と裁きは、この世において神が為されている業であるのですが、決してわたしたちに救い至るためのものを得させないように働いてはいません。最悪でも、この危険な時代にあって、世を危ういものにしようとしている醜悪な悪魔の企みに負けて、わたしたちが神の訪れを望んでもその中を歩むことができなくさせているものではありません。
神の霊を前に不浄と偽善を排すべし
この時代の悪弊に見られる悲惨やかりそめの喜びを自らの手の中に持ってしまっていても、行いをもって賢くなって、わたしたちに向けられている神の大いなる善なるみ心に適うように真剣に努めるべきです。かの預言者が言うように、神は昼夜を問わずみ手によって、多くの場合は慈悲深いみ手で、ときには罰するみ手で、わたしたちにみ心を示されています(イザ65・2)。わたしたちはそれによって学び、神のみ心を覚えずに毎日をただ享楽のなかに過ごして突如として地獄へ落ちる正しくない者に降りかかるような危険を避けることができます。わたしたちは神の平安の中にあって、最後の日にしみも欠点もなくあるように、絶えず努めるべきです。善良なるキリスト教徒よ、神の聖なる霊の存在を覚えるべく真摯に務めましょう。神の霊は純なる霊ですので、わたしたちはあらゆる不浄を排さなければなりません。神の霊は偽りのものから遠くにありますので、わたしたちはあらゆる偽善を排さなければなりません(知1・5)。神の霊は決して邪悪な魂には宿りませんので、わたしたちはあらゆる悪意や邪な考えを排さなければなりません。
罪の塊を排し神の霊に感謝を献げる
神の霊は罪に従う肉体には宿りませんので、わたしたちのまわりにある罪の塊を排さなければなりません(ヘブ12・1)。全能の神に感謝を献げていなければ、わたしたちを聖としてくださるみ恵みの霊に感謝を献げることもできません(同10・29)。しかしそうしようと努めれば、わたしたちには恐れる必要はなくなります。わたしたちは対抗するあらゆる敵に打ち勝つことができます。わたしたちに示されるみ恵みを受け取れるようになりましょう。神の善性によってわたしたちは全能の神に安らぎ、救い主キリストの仲保を確信しています。この聖なる霊がわたしたちに示しているのは、これが十全のものであり、あらゆるものにおいてわたしたちを確かにしているということです。聖パウロが語ることは真のほかの何物でもないのです。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです(ロマ11・36)。」このかりそめの世が終わったのち、わたしたちは神においてすべてのものを得ます。聖パウロはこうも言っています。「万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです(一コリ15・28)。」
神は至るところにあってすべてである
神はすべてにおいてすべてであると覚え、この意味するところを理解すれば、この世においてわたしたちが必要とする多くのものをあらゆる被造物から喜んで借りることができます。わたしたちは必要とするあらゆるものを一つで満たすものはないからです。飢えていれば、わたしたちにはパンが必要です。喉の渇きがあればエールやぶどう酒を欲しがります。寒ければ衣服が要りますし、病になれば医師を求めます。気分が沈めばわたしたちは友や仲間に癒しを求めます。一つでわたしたちの望みや必要のすべてを満たす被造物などありません。しかし来たる世では永遠の幸福にあって、わたしたちはもはやあまたの被造物に何か特定の安らぎや利便を求めたり願ったりする必要はありません。わたしたちは求めて望むものすべてを神において持つのであり、神がわたしたちにとっての万物となられるからです。神はわたしたちにとって父であり母となられます。神はパンにも飲み物にも、衣服や医師にもなられます。神はわたしたちにとって万物となられるのですが、これはそういった被造物がそうであるよりも比べるべくもなくはるかに祝福されたものであり、すべての人間の理性が思うことのできる以上の快適さをもたらします。「目が見えもせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された(同2・9)」のです。
結びの短い祈り
しめくくりに聖パウロの言葉を引用します。「私たちの内に働く力によって、私たちが願い、考えることすべてをはるかに超えてかなえることのできる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々にわたって、とこしえにありますように。アーメン(エフェ3・20~21)。」
今回は第二説教集第17章第3部「時をよく用いよ」の試訳2でした。これで第3部を終わります。次回は第4部の解説となります。最後までお読みいただきありがとうございました。
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