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解説 宥めの献げ物(第二説教集12章) #145

原題:An Homily or Sermon concerning the Nativity and Birth of our Savior Jesus Christ. (主イエス・キリストの降誕についての説教)

第12章に入ります。この章は部に分かれていません。聖句でいうテーマはこれでしょう。

神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。(ヨハネの手紙一 第4章10節)

第12章のポイントは次の4点です。
①楽園追放と救世主の降誕にみる神の罰と愛
②ユダヤ教とキリスト教の救世主観の違い
③キリスト教における異端的な救世主観
④救世主はイエスのみ~まとめと結びの祈り

冒頭で、人間は神によって素晴らしいものに創られたことが述べられます。

人間は神を象った似姿として創られ、天からのあらゆる賜物を授かり、ただ一点の不浄なしみもなく、外も内もあらゆる点で優れていて十全でした。

人間は狡猾な蛇の誘惑によって罪を犯し、楽園を追放されますが、神はこの罪にまみれた悲惨な人間を実のところ見捨てはしませんでした。

人間には来たるべき時に望みも喜びもまったく欠けているわけではないとなさるべく、神は新しい契約を定め、それによって確かな約束をなされました。具体的には、神は仲保者である救世主を世に遣わされ、その方が神との執り成しをなされました。

この救世主がイエス・キリストであるわけですが、救世主とはどのようなものかについて、キリスト教の考えとユダヤ教の考えが対置されて説教が進められます。

ユダヤ教徒というのは、いつの時代も頑迷に自信を持っていたものなのですが、現在もそうで、今に至ってもどうしてもイエスを認めようとせず、別の方が来ることをずっと待ち望んできています。救世主は必ずやって来るが、キリストがなされたように、貧しい巡礼者のようにへりくだってろばに乗ってやって来るのではなく、勇敢で力強い王のように威容と名誉をもってやって来るのだと、彼らは心の中に勝手な想像を描いています。

ユダヤ教でも救世主は待望されているものの、それはイエス・キリストのような柔和な存在でも、また、この世で蔑まれる存在でもない。キリスト教徒はそのような救い主を信じるべきであり、けっしてユダヤ教の誤謬に惑わされてはいけないということが、聖書からのいろいろな引用をもって説かれます。同時にキリスト教のなかの異端思想に釘を刺すようなことも説かれます。三位一体のことと、神がキリストを人間の姿で世に遣わしたということが強く説かれ、具体的な異端の名を挙げてそれを批判しています。

救い主の本性や実体にかかわっては、サタンの動きや働きかけにより、あまたあるたくさんの異端がわたしたちのこの時代に起こっています。(略)わたしたちは聖書のなかで、救い主キリストには、ひとりの人間としてある人性と、まったき神としてある神性という、二つの本性があるのだとはっきりと教えられています。「言は肉となって(ヨハ1・14)」三位一体のうちの第二のものとなりました。「神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです(ロマ8・3)。」

キリストが肉においてお生まれになったことやひとりの人間であられたことを否定するあのマルキオン派の思想ではどう言われているでしょうか。キリストがまったき神であって父と同一の実体を持たれたことを否定するあのアリウス派の思想ではどう言われているでしょうか。これらに対し、わたしたちは神のみ言葉による証しをもって、容易に反駁することができます。

また、神がなぜ御子を人間の姿にして世に遣わしたのかについては、次のように述べられます。

どんな人間であれ、所詮は被造物に過ぎないのですから、死に打ち勝って命をもたらすということや、地獄を征服し天国にあるということや、罪を取り除いて義をもたらすということはできませんし、できようもありません。それゆえに、そのために必要な務めを果たすべき救世主が、五体をもったひとりの人間であり、まったき神ともなって、人間の救済のために十分に業をなされることが求められるのです。

この上にたって、結びに向かうなかでキリストへの信仰を持つことが強く訴えられます。

キリストは道であり、わたしたちはその道に従うべきです。キリストはわたしたちにとって唯一の主人であり、教師であり、牧者であり、隊長でありますから、わたしたちはその従者であり、生徒であり、羊であり、兵士です。キリストがこの世に来られる前にわたしたちが従者や奴隷となっていた罪や肉や言葉という悪魔を、わたしたちは魂の大いなる敵となるものとして捨て去り、打ち消さなければなりません。

この世の悪に打ち勝つのはキリストへの信仰であるとし、結びの祈りをもって第12章は終わります。


今回は第二説教集第12章「宥めの献げ物」の解説でした。次はこの試訳となりますが、一度でお届けするには長いので、2回に分けることとします。

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