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偽預言者に注意せよ(7)(第二説教集2章3部試訳7) #97

原題: An homily against Peril of Idolatry, and superfluous Decking of Churches. (教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教)

※第3部の試訳は10回にわけてお届けしています。その7回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(1時間12分23秒付近から1時間26分00秒付近まで):


偶像崇拝は淫婦にへつらうことと同じ

 人間が情欲にまみれて淫婦のそばに座れば神の御心に逆らうことになりますが、これと同じく、偶像崇拝に向かう人間が偶像を立てるということも、神の御心に逆らうことに他なりません(レビ17・7、同20・3)。この両者を並べても何も感じるところがないと言う人には、その証しをしている神の御言葉に触れてもらいましょう。神の御言葉では偶像崇拝が心の姦淫であるとされていないでしょうか(申31・16)。彫像などの偶像に彩色を施すという罪は、淫婦の顔に彩色を施すことであるとされていないでしょうか(シリアバルク6・9、同6・39)。偶像の誘惑にのる精神的な邪さは、ふしだらな淫婦にへつらうようなものであるとされていないでしょうか(民25・1~2)。男も女も、偶像崇拝という精神的な姦淫を犯すことは肉的な姦淫を犯すのと同じであるとされていないでしょうか。

人間のそのような行いは聖書にもある

これらを否定するなら、偶像崇拝を行う地上のあらゆる国々にすべてを語ってもらい、自分たちがそのとおりであることに気付いてもらいましょう。神の民であるユダヤ人のうち、偶像崇拝を幾度となく警告され、強く戒められ厳しく罰せられていながらそれでもそこに陥ってしまった者たちに、自分たちがそのとおりであることを見てもらいましょう。こういったことは旧約聖書のほとんどすべてのところで、特に『列王記』や『歴代誌』や様々の預言書の中で、極めて明白に書かれています。

王や学識のある人々も偶像崇拝をする

賢い人々も学識のある人々も、君主たちも、知恵も学識もない人々なども含めて、すべての時代のあらゆる位階や境遇の人々がそのとおりであったことを見てみましょう。具体的な例をお示ししていきます。賢い人々についてはエジプト人やインドの裸行者という、極めて賢い人々の例があります。ただ、誰よりも賢い人としては、ソロモン王をご存じでしょう。学識のある人々としては、ギリシア人たちが、特に迷信と偶像崇拝において他の国々を凌駕するアテネの人々の例があります。『使徒言行録』の中で、聖パウロが彼らについて述べています(使17・16)。君主や為政者たちについては、支配者を自称するローマ人たちの例があります(ロマ1・23)。ソロモン王などイスラエルやユダヤのさまざまな王たちについては、ダビデやヒゼキヤやヨシュアなど、みなさんは一人か二人の名を挙げることができるでしょう。

学識のない人々はさらに危うい

こういった人々すべてはもとより、他にもたくさんの賢くて学識のある君主や為政者たちが偶像崇拝者であるということからして、みなさんは人間が偶像崇拝に傾くことの実感を持てているでしょう。また、ここまで触れてきませんでしたが、無数にいる知恵や学識のない人々、すなわち無知で粗野な人々は「分別のない馬やらばのよう(詩32・9)」であるとされています。その危うさのは、たまたま偶像に接することによって偶像崇拝に陥るというところであると、聖書で特に示され警告されてもいます(知13・17~19、同14・1、同14・27)。

聖職者は偶像崇拝にかかわる判事

実に、極めて賢く学識のある人々でさえもが足をすくわれ、捕えられて取り込まれる偶像の網や罠に、学識がなく信じやすくて騙されやすい人々がどのようにすればかからないでいられるというのでしょうか。その答えはつまるところ、人間には肉体によると同じように、精神的なところで姦淫を犯す腐敗した本性があるのだというところにあります。神の智慧はこれを予見して「堕落して、自分のためにどのような形の彫像も造ってはならない(申4・16)」と戒めていますし、人間の腐敗した本性に関わって「それらに惑わされ、ひれ伏し、仕えないようにしなさい(同4・19)」と付け加えています。人間がこのような腐敗した本性から肉的な姦淫に加えて精神的な姦淫に向かってしまうことのあとに必要になるのが、誠実さを愛し不品行を嫌う信仰に篤い判事たちの義務としてある事柄です。それは肉的な姦淫をさせないために、すべての淫婦や売春婦を、淫らな者たちが集まって姦淫が起きやすいと大いに考えられる場所から外に出すということです。

判事たる聖職者は偶像を置くべからず

これは信仰に篤い判事たちの義務としてあると同時に、かのヒゼキヤやヨシュアといった立派な王たちの例に倣うことでもあります。精神的な淫婦である偶像を、神殿である教会堂という、偶像が置かれることで危険な偶像崇拝が行われると考えられる場所から外に出すということでもあります。聖アウグスティヌスが言うように、教会堂は本来的には、まさに誉れと崇敬に満ちている場所であって、そこでは死した棒切れや石などにではなく、生ける神のみに崇敬が向けられるべきです。信仰に篤い判事たちの務めは、肉体の姦淫とともに、精神的な姦淫である偶像崇拝を避けるために、それが行われると考えられる場所から精神的な淫婦を外に出すこと、すなわち神殿である教会堂から彫像などの偶像を外に出すことであると言えます。

偶像崇拝の姦淫は肉の姦淫と同じ

 淫婦や売春婦を人目につかないところから人目のある市場へと連れ出し、そこに住まわせて大手を振って淫らな商売をさせる人間は、あらゆる誠実さにとっての敵であります。神の家であり神殿である教会堂に彫像などの偶像を持ち込み、堂々とそれらを崇め、妬む神からその誉れを奪う人間は、神を真に崇敬することに対する敵であります。神はご自身に向けられるべき誉れを他の何者にも向けさせられません。その御栄えを人間の手による偶像に向けさせるなどなさりません。人間と神との愛の結びつきが精神的な姦淫である偶像崇拝によって壊されるのは、肉体的な姦淫によって結婚の絆が壊されるのと同じです。神の御言葉はこういったことを真ではないと強く語っています。真ではなくすべて偽りであると受け取るべきです。神は『申命記』の中で次のように言われます。「職人の手の業である、主の忌み嫌われる彫像と鋳造を造り、ひそかに安置する者は呪われる。民は皆、『アーメン』と言いなさい(申27・15)。」このように神が言われるのは、当時においては誰もが堂々と偶像を有したりそれを崇拝したりとせず、隠れてそうしていたためです。

教会堂での偶像崇拝には二重の呪い

この世界がすべて神の大いなる神殿であるというのに、その片隅で神から御栄えを奪ってそれを棒切れや石などに向ける人間には、神の御言葉によって呪いがかけられます。しかし現在では精神的な淫婦を暗がりの片隅から神殿である教会堂に持ち込んでくる者がいて、そこであらゆる男女におくびもなく堂々と精神的な姦淫を犯させています。その者は疑いなく神の呪いを受けるどころか二重に呪いを受けます。あらゆる善良で信仰に篤い男女が「アーメン」と言い、その「アーメン」がこだまするからです。

巡礼して偶像を崇拝することの愚

キリストへの信仰を告白する人々にみられるそのような狂気は、いまや百年という単位の時間を経て福音の大いなる光の中にあるわたしたちのこの時代にあっても同じです。持てる時間も財産も無駄に使い、妻や子や家族を捨て、肉体や生命の危険があるのに、極めて多くの人々が海でも陸でも一団となって、コンポステラやローマやエルサレムなどはるか遠いところに行きます。そこに安置された偶像を求めて崇拝したいという腐敗した本性のおもむくままに、物言わぬ死した棒切れや石のあるところを訪れています。彫像などの偶像がそもそも持つ本性に偶像崇拝に傾く人間の腐敗した本性が合わされば、もはや偶像と人間が分かたれることはありません。偶像を神殿である教会堂で目にしてしまえば人間は偶像崇拝から遠ざかることはできません。

偶像を置くことを邪と考えない者たち

しかし人間はすでにそうしてしまっています。古い時代に君主や学識ある賢い人々が偶像に接することによって大いなる偶像崇拝に陥りました。わたしたちのこの時代にあっても、学識があって賢く権威をもった人をはじめとして多くの人々が、彫像などの偶像に心の痛みや嫌悪感を持つこともなく、遠く離れた土地に出向いて偶像を求め、それに崇拝をむけています。彼らは彫像などといった偶像がどのようなものでありどのように使われるのかについて、神殿である教会堂にある偶像などさして重要ではなく悪用されないものであると考えています。この説教の冒頭で引用したように、彼らはただ、騙されやすい人々にとって危険であり善いものと言えないにもかかわらず、神殿である教会堂に偶像を置くことが必ずしも律法に反する邪なものではないとしています。

ソロモン王は偶像崇拝を犯した

 この例としてあげたいのですが、極めて賢いとされるソロモン王もまた、彫像などの偶像がどのようなものであるかをよく知っていました。ただ彼は自身の信仰に篤い言葉のなかで偶像の持つ危険性について人々に警告はしたものの、それによる害悪を大したものであるとは思っていませんでした。しかし、のちにこのソロモン王は、宮殿に自身の淫らな愛人たちが偶像を持ち込むにあたり、その肉的な淫婦たちに唆されてついに偶像への精神的な姦淫を犯すに至りました。最も賢く信仰に篤い王が最も愚かで邪な王となったのです。極めて賢い人々には「賢くありすぎてはならない。どうして自ら滅びてよかろう(コへ7・16)」というのと、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい(一コリ10・12)」という警告が必要です。策をめぐらし、意図して自身の足元にも他人の足元にも躓きとなる石を置いてしまい、ついには自身の首を折ってしまうということもあります。

ヒゼキヤ王は偶像を徹底的に壊した

善良な王であるヒゼキヤは、青銅の蛇など死した偶像にすぎないと十分によくわかっていたので、それへの崇拝によって自身に害を及ぼすことはありませんでした。しかし彼は自分自身に害がないからといって、その像をそのままにしていたでしょうか。決してそうではありません。善良な王である彼は、そのような偶像に惑わされて偶像崇拝を犯してしまう愚かな臣下たちの様子を見て、偶像を打ち砕いただけではなく、粉々に壊しました(王下18・4)。彼は神の戒律によって立てられた偶像に対してそのようなことを行いました。偶像があることによって偉大な奇跡がもたらされるとされてはいたのですが、これを壊したことは、わたしたちを古い蛇であるサタンの毒牙からお救いになるキリストがやって来られるということの表れでした。ヒゼキヤ王は自身より前の歴代の信仰に篤い王たちが大切にしてきた偶像を、七百年以上も前からあった貴重なものではあったとはいえ、残しはしませんでした。

ヒゼキヤ王がいま生きていたら

もし今この信仰に篤い王が生きていたら、神の戒律に真っ向から逆らって置かれた現代の偶像をどのように扱うでしょうか。偶像など、愚かな者たちが眼差しを向ける愚かなものにすぎません。そうしたところで、彼らはせいぜい煉瓦ほどにしか賢くならないか、飛べるようになったばかりのひばりのように落ちるだけです。自分たちは生きているというのに、死した棒切れや石や金や銀を崇拝して、忌み嫌われ呪われるべき偶像崇拝者に堕しています。そもそもそのようなものは何物でもないというのに、生ける神の御前で本来は神と贖い主でもある救い主キリストに向けるべき誉れを、人間の手による命なく物言わぬ偶像に向けています。偶像など自分の力で何をしたわけでもなく、何かをするわけでもなく、それどころか、身動きをすることもできません。これまでにも動いたことさえなく、自力で動くことのできる不快な虫にも劣るものであるのにです。

ヨシュア王も偶像に惑わされなかった

 ヨシュアもまたすばらしい王で、偶像の害悪に惑わされなかったのですが、それはやはり彼も偶像がどのようなものかをわかっていたためです。それをわかっていた彼は偶像を立たせておくままにしていたでしょうか。いやそれどころか、彼はどんな偶像をも立てなかったのではないでしょうか。むしろ、自身の知識と権威により、臣民の破滅につながるあらゆる躓きとなる石を徹底的に取り去り、偶像がどのようなものであるのかについての無知が広がることを止めたのではなかったでしょうか。

ヨシュア王の民も惑わされなかった

ヨシュアの臣民にしても偶像の害悪に惑わされるのが少数の者だけであるとして、「あなたは自分のために彫像を造ってはならない(出20・4)」などといった神の大いなる律法を破ったでしょうか。それどころか、ともに異教徒の女であるとはいえ、モーセがエトロの娘に魅了されず、ボアズもルツに魅了されなかったら(同2・21、ルツ4・13)、彼らはすべてのユダヤ人が神の大いなる律法を破ることになると考えたでしょう。神が異教徒との結婚を禁じられたのは、ご自身の教えに従わない者がご自身の民の子を惑わすことのないようにとされたからです。

偶像に惑わされない人はごく少ない

 公に偶像を置くのが善いことではないにしても律法に背いてはいないと考える者たちは、自分たちの言う偶像の正当さを少数の人々をもって証明しようとします。偶像に惑わされないのはごく少数の人々に過ぎません。偶像をすべての人に対して等しく向ければ、大多数の人々の魂が汚れてしまうことになりますし、ウェルギリウスが言っているとおり、そのような人々の命は守られるものではありません。しかし王たちやこの世の極めて賢い人々や学識のある人々に対してと同じように、そのような人々に対してもキリストは贖いとなられました。そうであるのに、偶像によって大多数の人々が滅んでもごく少数の人々だけがその害悪を受けないでいるのを公平なこととみなす彼らは、キリスト教徒の大半と獰猛な獣たちとの間に違いなどほとんどないと考えています。また、そう考えることの危うさをあまりに軽くみています。

偶像崇拝は人々を滅びに導く

もし、公に偶像を置くことは善くはないとしても律法に背いてはいないと説くのが主教など人々の良心に関わる立場にある人々であったらどうなるでしょう。善いとされてはいないことを説教者がどのように信徒たちに説くというのでしょうか。最後の日に裁きを行う方の御前で、直接の弁明を行う対象となる人々の魂が完全に破滅してしまうことの責任が自分たちにあるとされてしまうのではないでしょうか。実に、そのような躓きとなる石は弱い人々に向けられてその堕落につながり得るものであり、善いものでないだけではなく律法に適ってもおらず、極めて邪なものでしかありません。彼らが偶像を何と呼ぼうと、何の益もないどころか極めて大きな危険しかないというのにそれを神殿である教会堂に置いて、極めて多くの偏狭のない人々に害悪と破滅をもたらしているということに思いが致されるべきです。偶像を置くことはすべての人間に対する罠であるという以前に、神の御旨に逆らうことではないでしょうか。先ほど述べたような理由づけをする人々には、自身の定められた秩序や位階をよく考えてもらうべきです。

誉れと賞讃が向けられるのは神である

神ご自身がすべての男女にも子どもにもお示しになっていることなのですが、聖書は物事をよく考えもしない者たちの口で読まれるべきでもなく、悪意をもった舌で発せられるべきでもありません。よく言われているように、信じ込みやすい人々を過ちに導くのは危ういことです。神に命じられているというよりも、極めて直接的に禁じられているのに、彼らは神殿である教会堂に偶像を置くことをやめていません。偶像によって人々が危険にさらされ、極めて忌まわしい偶像崇拝という過ちに陥ることを目にしながら、教会堂に偶像を置いてそのままにしておくのでしょうか。神の御言葉は、異教による危険を避けるべく、神の御心によってすべての人々に読まれて知られるようにとされているのに、いわば黙らせられてしまうのでしょうか。彫像などの偶像は、神によって禁じられているのに、神殿である教会堂に置かれ、それをよしとされ、置き続けられるのでしょうか。ああ、この世の肉的な知恵が、肉的な理由づけによる人間の造りものや伝統とやらに傾き、それによって聖なる秩序や律法や永遠なる神の誉れに逆らってそれらが無視されることになるのでしょうか。神には誉れと賞讃がとこしえにあるべきなのです。アーメン。


今回は第二説教集第2章「教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教」の第3部「偽預言者に注意せよ」の試訳7でした。次回は試訳8をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。


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