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麦打ち場を麦で満たせ(第二説教集17章4部試訳) #175

原題:An Exhortation, To be spoken to such Parishes where they use their Perambulation in Rogation Week; for the Oversight of the Bounds and Limits of their Town. (祈願節週間における教区の辺境の地域での巡回で行われる説教)

※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(47分37秒付近から):



この説教の目的~愛を破るなかれ

 善良なるキリスト教徒よ、第一義としては、肉体を食物や栄養で維持するためのあらゆる果実で野原が満たされているのを見て、全能の神の大いなるみ恵みを讃えてそれに感謝するためにわたしたちはここに集っています。また父なる神の存在に対する慎ましい祈りを通して、空が時宜に適った天気となることによって地の果実が保たれるようになるために、わたしたちはいまここに集っています。つまり父なる神の善性によって果実が与えられていて、わたしたちはその果実のために集うことができています。とはいえ、昔からある町はずれのこの地域が、この現代においてなおわたしたちの町の一部でありまた隣人たちのものでもあるということをよく考えれば、第二義として、わたしたちは自分たちに与えられている果実で満足することを覚えるために、いまここに集っているのです。わたしたちは他人が持っている果実をむやみに欲しがってはなりません。わたしたちは愛を破って相手のものを欲しがったり不満を言い合ったりしてはいけません。愛を破ることは利益や満足のために祖先が脈々と継いできた古くからある権利や慣習を破ることよりも重いことです。

この世の富に固執してはならない

救い主キリストの流血によって自分たちひとりひとりに対して贖われる天の相続を日ごと求めているのに、わたしたちはキリスト教徒が一つの信仰告白のなかにあることについて大きな見落としをしているのではないでしょうか。そうであるからわたしたちは自分の住む土地が境の向こうとは違うとして生活に不穏さを持ち、律法において持っているはずのものを空しく無駄遣いすることへと落ちてしまいます。自分がいまここにいるのはこの世の生におけるかりそめの短い間でしかないということを思い出すべきです。さらに恥ずべきは、さもない財産をめぐってわたしたち自身の間で終わることのない憎しみへと落ち、天を永遠に相続するということができなくなるということです。キリスト教徒が権利と称号を穏やかに保つのは愛とともにあるためです。自身のこととして、この地域を、権利を、地境を、つまり町の領域を覚えておくことはあらゆる善良な住民の役割です。キリスト教徒がまとうべき愛や善意の衣を破ってはなりません。また神のひとつの家においてキリストの家族として共にあるようにする平和や平穏を乱し、それを完全に妨げているものをもって、わたしたちの権利や義務を果たそうとしてもいけません。そのようなことを神は忌み嫌われるのであり、そのようなことをして争いや軋轢や不和を持てば、全能の神の怒りによってわたしたちは利益や権利をすべて取り去られることになります。

互いに訴え合うことは敗北である

 聖パウロは、自分たちの間の争いごとがもとで訴え合いキリストの教えに反して中傷し合っているとして、コリントの信徒たちを非難しました。「そもそも、互いに訴え合うことが、あなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正を甘んじて受けないのですか。なぜ、奪われるままでいないのですか(一コリ6・7)。」聖パウロは、キリスト教徒の忍耐という務めを推奨しつつ、コリントの信徒たちを自分の権利のために裁判に訴えたということで非難しています。救い主キリストはわたしたちに悪を受け入れるようにとされました。右の頬を打つ者に左の頬を向けるようにとされ(マタ5・39)、自身を守ろうとして愛を破るよりもむしろ次から次へと悪を受け入れるようにとされたのですから、悪を行う者は神のみ前でどうなることでしょう。偽りの証しによって隣人である町の人々からその当然の権利や所有物を騙し取る者は、どのような呪いの中に落ちることでしょう。彼らはあらゆる真の著者である神の聖なるみ名によって誓いを立てることを許されず、偽りと誤りを行うことになります。聖パウロは「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか(一コリ6・9)」と言っています。この世の地境を変えて財産を少し増やし、それを代々受け継ぐことでわたしたちは何を勝ち得たいのでしょう。他人の土地に入って悪事を為すのではなく、自分の土地の地境や財産を保つことに専心しましょう。疑いをかけられ突如として裁かれることのないように用心しましょう。わたしたちには高い知識などなく、求めることのできる称号もないとはっきりと告白するようにしましょう。

隣人の地境を移す者は呪われる

全能の神は律法においてこう定められています。「あなたが受け継ぐ相続地、あなたの神、主があなたに相続させる地で、先祖が初めに定めた隣人との地境を動かしてはならない(申19・14)。」ソロモンはこう言っています。「昔からの地境を移すな。それは先祖が定めたものだ(箴22・28)。」そうすることは軽い違反でしかないと考えることなどないようにと、わたしたちは罪人たちに宣告される神の呪いについて知っています。そのような者は、「『隣人の地境を移す者は呪われる。』民は皆、『アーメン』と言いなさい(申27・17)」とモーセを通して全能の神から呪われます。軽々しくそのようなことを行う者には呪いが宣告されます。土地に昔から定められている地境に手を加え、その所有者に自分の権利を押し付ける者は神の怒りを招くことになります。彼らは先人がかつて大変な苦労をもって踏み固めた昔からある地境を邪にも犯しており、そこに住んでいる人を記すはずの土地の所有者の記録をねじ曲げ、本来の所有者の名誉を汚し、父のない貧しい者や貧しい未亡人を苦しめています。このような強欲な者は、自分がその記録の作成者にとってどれほどの厄介の種になっているのかをわかっていません。そのような虚偽のある策略により、土地の所有をめぐってときに秩序を乱す暴動が、つまりは殺人という流血が起こります。そのなかではみなさんも有罪となったり、刑を求める側になったりとします。

神は正義を守り魔手を防がれる

 隣人の土地や財産をめぐってのこのような強欲な行いは全能の神が憎まれるところです。聖パウロは「このようなことで、きょうだいを踏みつけたり、欺いたりしてはなりません(一テサ4・6)」としています。神はあらゆる平等と正義の神であられ、そのような欺瞞や狡猾を律法において次のように禁じられています。「裁きにおいても、物差しや秤や升に関しても不正をしてはならない。正しい天秤、正しい重り、正しい升と正しい瓶を用いなさい(レビ19・35~36)。」ソロモンは「主がいとうのは量り石を使い分けること(箴20・22)」と言っています。また、聖パウロが言っていることを覚えておくべきです。神はあらゆる悪や不正に復讐されます(ロマ12・19)。わたしたちは日頃の教えにから、虚偽や策略によって得られるものがどれほどみ恵みから遠くあるかを知っています。わたしたちは教えの中で、全能の神が決して第三の相続者に、つまり本来はその父親のものではなかった者に財産を享受させないということを知っています。多くの場合そのようなものはその者が生きているうちに奪い取られるものです。神はそのような悪魔の助言によって得られる財産を守ろうとはなされません。そもそもその人に受け継がれるべき財産や所有物のすべてを神は守られ、暴力的な魔手を防がれます。ソロモンは「主は高ぶる者の家を引き抜き、やもめの地境を定めてくださる(箴15・25)」と言っています。ダビデは「正しき者の持つ僅かなものも、多くの悪しき者の富にまさる(詩37・16一六)」と言っています。

神はあらゆる悪や不正に復讐される

 善良なるみなさん、神のあらゆる復讐を受けるものであるとわかっていながら、財産や土地や家主の地位や地境の権利を不正に得て、それに固執するという誤った行いを避けるべきです。家や土地についてわたしたちはどう言えばいいのでしょうか。聖書には、神は怒りをもって人間の王国すべてを過ちや抑圧を行ったという理由から掘り起こし、不正な取り扱いを行い虚偽により過ちや富を得たという理由からそれらをひとつひとつ別のところに移されたとあります。ダニエルは「それは、いと高き方が人間の王国を支配し、ご自分が欲する者にそれを与え、人間のうちで最も低い者をその上に立てることを、生ける者たちが知るようになるためである(ダニ4・17)」と述べています。また貧しさや乏しさの、さらには死や飢えの理由とは何でしょうか。それはわたしたちが互いに為してしまっている過ちに復讐するべくしてある、神の怒りの徴のほかの何かであるというでしょうか。神は預言者ハガイを通してこう言われます。「たとえ種を多く蒔いたとしても、取り入れは少ない。食べても満足することなく、飲んでも酔うことがない。衣服を着ても暖まることなく、どれほど稼いでも穴の空いた袋に金を入れるようなものだ(ハガ1・7)。」「あなたがたは多くの収穫を期待したが、それは僅かであった。あなたがたが家へ持ち帰ると、私はそれを吹き飛ばした。それはなぜなのか。万軍の主の仰せ(同1・9)。」

神はむやみに欲しがる者を罰する

ああ、むやみに欲しがる者や何でも持ちたがる者や、地境を越えて他人の土地に入りたがる者に向けられる神の怒りに思いを馳せましょう。強欲にも隣人の土地に鋤を入れて種を蒔く者もいますが、貪欲にも人がいま歩いている道にまで鋤が入られているのは嘆かわしいことです。そのような道は大昔から善良な民が広げて大きくしてきていて、時には隣人たちがゆったりと歩くために、時には収穫の時期に貧しい隣人たちの家畜を安全に小屋に連れて行くためにあるところです。また、恥ずかしくも一部の強欲な者が飽くことなく酷い行いをするのも目にされています。そもそも自分たちの土地であったのに、祖先がキリスト教徒の亡骸を埋葬すべく棺を運ぶためにと広くて立派な道にして残っているところがあります。長きにわたるなかで、専らそのためにあるその道で、どれほど人々が涙を流したことでしょう。そうであるのに今では、耳をすませてよく聞けば、亡骸が遠く離れた通りで運ばれているのがわかる程度となっているか、そうでなければ、そのための道として残っているとしても、狭すぎて人が並んで歩くことができなくなってしまっています。

道を誤る者を愛をもって諭すべし

 善良なるみなさん、このような奇妙な浸食が見られています。こういったことがいまこの巡回に際してよく考えられるべきです。欲をもって何でも自分のものにして町に害を為し貧しい人々を傷つける者が、諭されて愛をもって変えられるべきです。定められている法律において、街道はみなさんが歩くためにあるとされており、みなさんは日々どこを歩くべきかを知っています。危険で騒がしい道を正すことは慈悲をもった善い行いです。それによって、みなさんの貧しい隣人が愚かで知恵のない獣のようになって悪の深みに陥ることはなくなり、売買をきちんと行えないと貧しい行商人が訴えることもなくなります。もしみなさんが自分の穀物や家畜が増えるようにと、また季節はずれの霧や大風から、あるいは雹や嵐から守られるようにと、全能の神に祈りを聞いていただきたく思うのなら、実直さと正しさを愛し、慈しみと愛を求めるべきです。神はそういうものをわたしたちにお求めになります。全能の神はイスラエルの人々が法律を作ることをよしとされました。それは特に穀物を刈り入れる際に、また葡萄やオリーブを収穫する際に土地の持ち主がそれらをかき集めることのないようにとし(申24・19~21)、むしろ貧しい人々のために穀物の穂を残すようにとするものでした(レビ19・9)。ここで神が言われているのは、貧しい人々を憐れみ、施しを求める人々を安らげ、慈悲と思いやりを示すようにということです(一コリ9・9~10)。種を蒔く人に種を、飢える人にパンを与えられる方はみなさんの土地にやがて雨を降らせられ、「麦打ち場は麦で満ち、搾り場は新しいぶどう酒と新しいオリーブ油で溢れ(ヨエ2・24)」ます。言い換えますと、復活によって善に報われる方は、貧しい人や求める人に慈しみを持って向けられるあらゆる行いに報われます。ソロモンはこう言っています。「慈しみとまことがあなたを捨てることはない。それらを首に結び、心の板に記しておけ。あなたは神と人の前に、好意と良い成果を得る(箴3・3~4)。」

まとめと結びの祈り

 かくしてみなさんは自身の富をもって、また自身の第一の果実をもって神を讃えるべきです。そうすればみなさんは麦打ち場を麦で満たし、搾り場を新しいぶどう酒で溢れさせることができます。神は偏見なく正しさを持たれ、何も望まない人に対して天国の扉を開くと約束なされました。神はみなさんの果実を貪る強欲な青虫を取り除かれます。神はみなさんに平穏と平静を授けられ、みなさんのための蓄えがあるところで集まるようにとされます。そこでみなさんはひとりひとり、外敵が入ってくる恐れを持たずに神のぶどうの木の下に穏やかに座ることになります。神はみなさんに食べ物のみならず、果実の美味しさを楽しむための胃袋と健全な食欲を授けてくださり、みなさんはすべてにおいて満足を持つことができます。終わりに、神はこのかりそめの生においてあらゆる豊かさをもってみなさんを祝福され、この次にある天の国においてもあらゆる祝福をみなさんに授けられます。それは救い主の功績を通してのものです。キリストに、父と聖霊とともに、すべての誉れがとこしえにありますように。アーメン。



今回は第二説教集第17章第4部「麦打ち場を麦で満たせ」の試訳でした。これで第17章を終わります。次回から第18章に入ります。最後までお読みいただきありがとうございました。

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