新しい命を得て新しい人を着る(1)(第二説教集14章試訳1) #156
原題:An Homily of the Resurrection of our Saviour Jesus Christ, for Easter-Day. (救い主イエスキリストの復活についての説教、イースターのために)
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(10分56秒付近まで):
復活の教理は錠前であり鍵である
いつの世も聖俗の別にかかわらず、人は偉大さや秀悦さを感じることで、ますます話に耳を傾けるようになるものです。したがって善きキリスト教徒よ、神と救い主キリストに愛される人々よ、この特別な時季でのこれからの話にみなさんが極めて熱心に耳を傾けるであろうことをわたしは疑いません。主イエスの復活こそがキリスト教信仰における偉大にして極めて健やかな教理であると言えます。復活の教理は極めて大きく、また極めて重みがある大切なものですので、弟子たちがそれを心から確信するために、キリストは死から生へとよみがえられたのち四十日にわたってこの地上におられました。キリストは「ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ(使1・3)」たと聖ルカは『使徒言行録』の第一章ではっきりと述べています。栄えを向けられるキリストは人となり、やがて他の人々の教師となる弟子たちにこの教理を十分かつ極めて確固に教えて説くことをお考えになりました。これはキリストが天なる父のみもとに昇りそこで輝かしい大勝利の栄光を受け取られる前のことであり、わたしたちの宗教の土台となっています。間違いなく、復活の教理はわたしたちの良心にとって極めて健やかなものであり、キリスト教のあらゆる教えや信仰のまさに錠前であり鍵となるものです。
キリストの復活がなかったら
使徒である聖パウロはこう述べました。「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であり(一コリ15・14)、」「あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお罪の中にいることになります(同15・17)。」キリストの復活がなかったらさらに、キリストが復活しなかったのなら「キリストにあって眠りに就いた人々も滅んでしまったわけです。この世にあって、キリストに単なる望みをかけているだけなら、私たちは、すべての人の中で最も哀れな者となります(同15・18~19)」と言っています。さらには「しかし今や、キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂となられました(同15・20)」とも残しています。そうです、もしキリストが復活なされなかったら、天に昇られたことも、天からわたしたちに聖霊を与えられたことも、天なる父の右に座しておられてかの預言者が「海から海まで(詩72・8)」支配すると言っているように天と地を統べられることもありません。この世の後に生ける者と死せる者とを裁かれ、善なる者に褒賞をお与えになり、悪を行う者には罰を下されるということもありません。
復活は四十日にわたって確かにされた
これらはすべて堅く確信して信仰に結びつけられるものですので、救い主はご自身が弟子たちの前で肉体として存在しないでしまうことをお望みにはなりませんでした。救い主はご自身で死を征服され真に再び生へとよみがえったことを、四十日を費やして荘厳にして極めて力強い主張と徴によって弟子たちに明らかになされました。聖ルカはキリストが「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた(ルカ24・27)」と言っています。明瞭かつ力強く、キリストは実際に多くの人の前で何度もご自身の姿を現すことによって復活を確かなものになされました。
復活はどのように確かめられたか
まずキリストは天使を墓に送り、この天使が女たちに墓が空であることを見せたのですが、そこには埋葬のための亜麻布がそこに残っているだけでした(マタ28・5~6)。この徴によってこの女たちはキリストが復活なされたことを知り、広くこれを伝えました。次にイエスご自身はマグダラのマリアのところに現れられ(ヨハ20・16~18)、その後に他の女のところにも、またペトロのところにも、さらにはエマオに行こうとしていた二人の弟子のもとに現れられました(ルカ24・13~16)。キリストは他の弟子たちのところにもお出でになりましたが、弟子たちは「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけて(ヨハ20・19)」いました。これとは別のときに、キリストはティベリアス湖畔でペトロやトマスなど弟子たちが釣りをしているところにも現れられました(同21・3~4)。キリストはガラリアの山で五百人を超える兄弟たちにみ姿を現されました(マタ28・16、一コリ15・5~6)。そこはキリストが天使をして「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる(マコ16・7)」と定められたところでした。「次いで、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒に現れ(一コリ15・7)、」天に上げられました(使1・9)。このように、キリストは復活の後に多くのところでご自身を現され、復活の教理を確かなものとされました。キリストはあるところではご自身の手や足や脇腹をお見せになり、人々にそこを触れるように言ってご自身が亡霊ではないことを確かめさせられました。またあるところでは人々とともに食事もしましたが、そこでは神の永遠のみ国についてお話をなされ、ご自身の復活が真であることを確かめさせられました。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる」』(ルカ24・45~47)。」
キリストの死は死と地獄を滅ぼした
善きキリスト教徒よ、これがキリストご自身によって、目に見える徴によって、あらゆる時にあらゆる場所で証しされたものであると覚えるにあたり、わたしたちにどれほど信仰が求められることでしょうか。救い主はわたしたちの平安のために復活の教理を広めようと努められました。わたしたちはこの教理を自身の平安のために受け入れるべきです。キリストはご自身のために死を持たれたのでも、ましてご自身のために復活なされたのでもありません。聖パウロは「イエスは、私たちの過ちのために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられた(ロマ4・25、一コリ15・3~5)」と述べています。キリストの死によって罪も呪いも消し去られ、その両方の贖いがなされました。キリストの死は死を滅ぼし、悪魔を打ち負かし、死の力を支配下に置いて、あらゆる劫罰を伴う地獄を滅ぼしました。死はキリストの勝利に吞み込まれ、地獄は永遠に消し去られました。
死よ、お前の勝利と棘はどこにある
この勝利を疑うのなら、キリストの栄えある復活が示していることを見ればよいでしょう。死は自身の力や支配の下にキリストを置いておくことができず、キリストは復活なされました。キリストのみ力が優っておられたことは言うまでもありません。死が征服されたのですから、それに従う罪もともに滅びることになります。死も罪も消え去るということは、死の力をもって罪を造り出し地獄を統べる悪魔の専横も潰えることになります。そもそもキリストの大いなるみ力が死や罪に劣るなどあり得ませんが、キリストはご自身の死によって勝利を得られ、その勝利を極めて栄えある復活によって証しされました。これはわたしたちの罪のために死を受けられ、わたしたちの義のために復活なされたということです。わたしたちは真の信仰によってキリストの成員となっているのですから、なぜ預言者ホセアや使徒である聖パウロとともに喜んでこう言わないのでしょうか。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の棘はどこにあるのか(一コリ15・55、ホセ13・14)。」「私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださる神に、感謝しましょう(一コリ15・57)。」
復活は永遠の命と義をもたらした
キリストの復活というこの力強い勝利は、例えばサムソンが獅子を引き裂いて殺した際に、その口から甘い蜜が出てきたり(士14・8)、ダビデが獅子の口から羊を取り戻したときやあの巨大なゴリアトを倒したときに、自身の姿をむき出しにしたり(サム上17・35、49)、ヨナが鯨の口に呑み込まれても再び陸地に立ったりとして(ヨナ2・1、11)、旧約聖書に出てくる多くの人物によって前もって暗示されているだけではありません。旧約聖書の預言者たちによってはっきりと語られ、新約聖書の使徒たちによって確かなものにされています。聖パウロは「こうして、神はもろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストにあって彼らを勝利の更新に従えて、公然とさらしものになさいました(コロ2・15)」と書き残しています。ここにわたしたちが信じるべき神の大いなるみ力があります。キリストは死によってわたしたちにこの勝利をもたらされましたし、復活によってわたしたちに永遠の命と義を贖われました。わたしたちはキリストの死によって罪から救われただけではなく、復活によって義を与えられました。わたしたちは死から救われただけではなく、キリストが死からよみがえられて天の国の門を開かれたことにより永遠の命に至ることになりました。聖ペトロは主イエスの父なる神の無辺の慈悲に感謝を述べています。「神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、消えることのないものを受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています(一ペト1・3~5)。」
復活は囚われの人々を解放した
キリストの復活はわたしたちに命と義をもたらしました。キリストは死と地獄に降りられ、わたしたちによい希望を与えようとされ、そのみ力によって実際にそうなされました。キリストは罪の身代金をお支払いになりましたが、それをわたしたちへの貸しとはなされませんでした。キリストは悪魔とその圧政を打ち砕いて堂々と勝利され、そのもとに囚われていた人々を解放され、その人々をご自身とともに天の国の民にうちに数えられました(エフェ2・5~6)。キリストは悪魔がわたしたちを支配することを終わらせられ、わたしたちの心を統べるための聖霊をもたらすために再び天に昇られ、わたしたちに全き義をお与えになりました(同4・8)。まさにダビデが「まことは地から芽生え、義は天から目を注ぐ(詩85・12)」と歌うとおりです。神の約束の真はこの世の人々に示されました。永遠の真実である神のみ子が地から天に昇られ、聖霊の真の義が天から注がれ、全世界に極めて自由な贈り物が与えられました。かくしてキリストの慈悲と真によって、栄えと誉れが天なる神に向けられ(同48・11)、天から平和が善にして信仰深い人間へと与えられました(ルカ2・14)。またダビデは「慈しみとまことは出会い、義と平和が口づけする(詩85・11)」と残してもいます。
復活の真を疑ってはならない
もし自身にもたらされる大いなる富と喜びを疑うのなら、ああ人間たちよ、すべての真を自身の良心において確かにするために、永遠の真である救い主キリストを受け入れたことに思いを新たにするべきです。キリストを受け入れるとは、真の信仰と悔い改めをもってキリストを受け入れることです。言い換えれば、キリストに悔い改めのための永遠の寄託をし、キリストを自身の救済のための担保として受け入れるということです。一度は亡くなられたキリストの体と、みなさんの罪の赦しのために流されたキリストの血をみなさんは受け入れました。キリストが共に住まわれ、み恵みを授けられ、敵に立ち向かうためにみなさんを強くされました。慰めとなる父と子と聖霊を持つためにみなさんはキリストの体を受け入れました。永遠の義を与えてくださり、永遠の祝福を確かにされ、魂を永遠に生かしてくださるキリストの体をみなさんは受け入れました。聖パウロは、真の信仰によってみなさんが罪の死から恵みの命へと向かわされ、肉体の永遠の死から解放されてキリストとともに永遠の栄えある命に至るという希望の上にみなさんの天の国籍があって(フィリ3・20)、みなさんの心が望むものがあると言っています。これがあまりに大きく高すぎるからといって、この真を疑ってはなりません。
理解できないと諦めてはならない
みなさんにとってどれほど理解できないものに思えても、小さな理解を積み重ねていくことでみ心に適います。キリストの復活というこの大いなる神秘を受け入れるための信仰を持つことができるように神に祈りましょう。信仰によってみなさんは神には何事も不可能ではないということを確かに信じることができます(ルカ18・27)。キリストの聖なるみ言葉と聖奠にのみ信仰を向けましょう。悔い改めることによってみなさんは信仰を明らかにし、神の律法にならい心から服従しようとしてみなさんの真の信仰を示すことができます。聖パウロが次のように言っていることに自身をあてはめてみましょう。「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ形に変えてくださるのです(フィリ3・20~21)。
今回は第二説教集第14章「新しい命を得て新しい人を着る」の試訳1でした。次回は試訳2をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。
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