私の体、私の血(第二説教集15章1部試訳) #159
原題:An Homily of the Worthy Receiving and reverent esteeming of the Sacrament of the Body and Blood of Christ. (キリストの肉と血の聖奠を恭しく受けることについての説教)
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(13分01秒付近まで):
キリストを記念する聖餐
善きキリスト教徒よ、救い主キリストの人類に対する大いなる愛は、死と受難による贖いや救いという深いみ恵みの中だけでなく、愛をもってそうなされたこと自体に見ることができます。その慈悲深さはいつの世も記念されてわたしたちの記憶の中に持たれるべきで、そうすることによってわたしたちがキリストの願われるところから外れることはなくなります。子を深く思う親は子に高価な物品や衣食を授けてそれで満足することなどなく、むしろそういうものを必要に応じて控え目に与えるようにします。これと同じく救い主もまた、むろん父の恩寵はあらゆる善性と永遠の命の泉であるとはいえ、わたしたちの罪を贖って父の恩寵を得るだけで十分とはなされませんでした。極めて慈悲深くも、父の恩寵がわたしたちの利益や恩典となってもたらされる道を用意なされました。その道においての主の貴い死を記憶するために定められた祝祭がありますが、これは信仰深い人々によって正しく為されているものの、一部の者にとってはあまり大切なものではないように見えています。毒された本性によって恩寵に煩雑さを見てしまうそのような者たちの弱さを補うだけでなく、安らぎや喜びをもってその者たちの内にある人間性を強めて慰め、勤勉な務めと信心深い行いを持つことでその者たちに贖い主への感謝を向けさせなければなりません。大昔に神は人々を救い出すという驚くほど大きな恩寵を示されましたが、これは過越の食事という儀式をもって記憶に留められています(出12・14)。愛すべき救い主は受難の中で示された大いなるご慈悲を、聖餐という形で覚えるように定められています(マタ26・26~28)。
聖餐に求められる三つの事柄
そこにわたしたちひとりひとりはよそ者でなく客人として、ただ見る者でなく食する者として臨みます。これは誰かに食べさせてもらうのではなく、また誰かが貪り食べてしまい自分が飢えて死んでしまうということなく、自分で取った肉で生きるためです(一コリ11・21)。キリストはわたしたちに「これを取り、互いに分けて飲みなさい(ルカ22・17)」と言って戒められています。また「取って食べなさい。これは私の体である(マタ26・26)。」「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である(同26・28)」と約束を確かにされています。わたしたちは必然的にこの食卓に集う者となり、他人がそうするのをただ見るだけの者とはなりません。肉体に与えられた薬が間違って使われてみ恵みを受けるどころか自身を傷つけ、きちんと受け取られれば魂に安らぎをもたらすはずの薬がむしろ大いなる痛みとなってしまわないように、わたしたちはいつもその食卓に恭しく丁寧に向かわねばなりません。聖パウロは「主の体をわきまえないで食べて飲む者は、自分に対する裁きを食べて飲むことになる(一コリ11・29)」と言っています。聖餐に与るわたしたちが「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか(マタ22・12)」と言われないように、わたしたちは信仰をもって聖パウロの言葉に従うべきです。「人は自分を吟味したうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです(一コリ11・28)。」大きな神秘である主の食卓に集う者には三つの事柄が求められることを知らなければなりません。第一にはこの神秘を正しく健全にとらえることであり、第二には確かな信仰をもってその場に集うことであり、第三には命の新しさや純粋さをもって聖奠に与るということです。
聖餐を正しく執り行うべし
第一にわたしたちがしっかりと知らなければならないのが、聖餐は救い主が食されたように、またそう執り行うようにとなされたとおりに食され執り行われなければならないということです。聖なる使徒たちもそうしましたし、初期教会の教父たちも多くはそうしていました。かの聖アンブロシウスは次のように述べています。「主に与えられたのではないのにその神秘を祝う者は主のみ心に適っていない。与えるべき方から与えられていないのにそれを悪用しているのであるから、そのような者は敬虔であるはずもない。記念すればいけにえが聖餐となるのではなく、会食を行えば私的な会食が聖餐となるのでもない。この二つのうち片方だけを持てばよいというのでもなく、聖餐を死者に対して行うことによって生ける果実を失うことがあってはならないということに我々は気付かなければならない。」同じ事柄について、聖キプリアヌスが「一番の始まりによく従おう。主の教えによく従い、主ご自身が為されて、使徒たちが確かにした記念のとおりに執り行おう」と述べたことも覚えておくべきです。このような警告や推奨をよく聞けば、始まりのとおりであるものが価値あるものとして受け取られるべきであり、また聖餐それ自体を正しく理解するべきであるとわかります。これについて無知であると聖餐で目の前にある大いなるみ恵みや恩寵を正しく受け取ることができず、十分にそれに与ることができません。せいぜいこれを軽く考えることから見当違いな非難をするに至るだけで、やがて完全な破滅を招くことになるとたやすく予想されます。
聖餐は霊的な食事である
聖餐について無知であると、怠慢であるゆえに神からの災厄が降りかかり、軽蔑するゆえに永遠の破滅がもたらされます。そうならないようにするために、かの賢者の「支配者と宴席に着くとき、自分の前にあるものをよく見極めよ(箴23・1)」という言葉に従いましょう。ましてや王の王である方との食卓にあるのですから、魂にとってのどのような珍味が供されているのかをよく見て知る必要があります。しかし何が目の前に供されようと、五感や腹を満たして堕落することがあってはなりません(同23・6~7)。目の前にある地上の被造物を見るのではなく、内なる人間性に不滅と命を与えるものとして、信仰によってとらえることのできる天のみ恵みを思うべきです。聖クリュソストモスが言うように、この食卓は騒々しく鳴くかけすのためにあるのではなく、屍があるところを避ける鷲のためにあります。わたしたちが主の食卓に正しい理解をもって集わなければ、ご自身の民に対して過越の儀式のありようだけでなくその起源と目的を子孫に説くようにとなされている神のみ心に人間が思いを致せるようになることはありえません。もっと深い理解がいま自分に求められていると思うことによって、無知のままでは聖餐の果実やみ恵みに与ることはできないと気付くことができます。
信仰をもって聖餐に集うべし
第二のことに進みましょう。聖パウロはコリントの信徒たちが主を冒瀆していることを非難して、晩餐それ自体とその意味するところの両方について無知であることによって過ちが犯されていると断じ(一コリ11・20)、「主の体をわきまえないで食べて飲む者は、自分に対する裁きを食べて飲むことになるのです(同11・29)」と述べています。わたしたちは神のみ恵みによってこの使徒の警告に思いを致し、コリントの信徒たちが持った恐ろしい例を見なければなりません。わたしたちは無礼で不敬虔な無知をもって主の食卓に着くことのないようにして、キリストの教会が長い年月にわたって持ってきた苦しみを深く思うべきではないでしょうか。神の宗教を貶め無知を引き起こした原因は何でしょうか。このおぞましい偶像崇拝と無知の原因は何でしょうか。物言わぬ大多数の人々の無知の原因は何でしょうか。今日みられている愛と慈悲の欠如を引き起こしているこの無知の原因は何でしょうか。聖餐の何たるかをしっかりと理解しましょう。そうすれば神への崇敬が崩れることもなく、偶像崇拝をしたり人々が押し黙ってしまったりといった憎むべき悪の原因となるものもなくなり、わたしたちは安息に近づくことになります。わたしたちは聖餐についての正しい知識がすべての人に求められていて、聖餐の教理の難しいところについて議論することなど考える必要がなくなります。聖餐には何の余計な儀式もなく、何の無価値で不実な徴もないということをしっかりと知っていなければなりません(使2・46~47、マタ26・26)。聖餐のパンとぶどう酒が、キリストの死とその記念が、また主の肉と血の拝領が素晴らしい合一のなかにあります。この合一はわたしたちとキリストを結びつける聖霊のはたらきによって、信仰深い人々の魂において持たれる信仰を通してあります。この合一によってその人々は魂が永遠の命を得るだけではなく肉体が不滅のものへと復活することへの強い確信を持つことになると聖書の中に書かれています(一コリ11・23~26)。
信仰なしには恵みに与れない
四肢と頭との、つまり真の信徒とキリストとの間でのこの結実や合一を正しく理解することについては、古い時代の教父たちもよくこれを理解していて当時の人々に説いていたことでした。彼らは聖餐を死に対する不滅の軟膏や王の防腐剤であるとか、神々しい聖体拝領であるとか、救い主の甘美な珍味や永遠の健康への契約であるとかと呼ぶことを躊躇していませんでした。信仰の擁護や復活の希望であるとか、不滅の食事や健康のみ恵みであるとか、永遠の命のための温室であるとかと呼ぶことも躊躇していませんでした。このような呼び名はすべて、そもそも聖書にある言葉や信仰深い人々の言葉でした。自身の心に「ああ、この言葉はなんとわたしたちの心にこのような神秘に与るように願わせ、このパンを望ませ、いつもこのぶどう酒を飲みたいと強く思わせているのか」と語りかけることによって、わたしたちは天なる祝祭である聖餐に結びつけられます。地に存在するこの世のものに結びつけられるのではなく、いつも確固として信仰によって岩に付き、そこで永遠の救いという甘味を吸うことができます。要するに信仰深い人であるほど、神のご慈悲にあふれる恩寵を確かにみることができ、キリストによる救いが約束されていて、罪の赦しが為されることを目で見て耳で聞いて知ります。そうして人々は良心の平安や信仰の深まりと、希望への確信や兄弟愛の拡大を、その他あまたの神のみ恵みとともに感じることができます。盲目や無知という深く暗い湖に溺れている人々はそのような美味に達することができません。ああ愛する者たちよ、神のみ言葉という生ける水で自身を洗い流しましょう。それによってみなさんはこの高貴な晩餐における霊的な食事と、それによってもたらされる幸福な信仰と果実を受け取ることができます。
キリストの死はこの世の贖いである
これをよく踏まえれば、みなさんはキリストの死がこの世界すべての贖いであり、罪の赦しであり、父なる神との和解であるということを確かめることができるだけではありません。キリストが十字架につけられ、余りあるほどの犠牲となられたことでみなさんの罪が完全に洗い流され、キリストのほかに救い主も贖い主も仲保者も弁護人も執り成し役もいないと知って確固たる信仰を持つことができます。かの使徒のように、キリストが「私を愛し、私のためにご自身を献げられた(ガラ2・20)」と言うことができます。そうしてみなさんはキリストのみ言葉における約束に、またキリストの功績にしっかりと結びつけられます。もはやみなさんは他の誰の助けも、他の誰の犠牲や奉献も、他のいけにえとなる祭司も、人間の手によって作られたどのようなものをも必要とはしません。信仰こそがあらゆる聖なる儀式において不可欠のものであり、聖パウロの「信仰がなければ、神に喜ばれることができません(ヘブ11・6)」という言葉にあるように、自身を確かなものにすることができます。多くのイスラエルの民が荒野に放たれたとき、モーセもアロンもピネハスもマナを食べましたが(出16・15)、聖アウグスティヌスが言うように、彼らは目に見える食事ではなく霊的な食事をしていました。彼らは霊的に空腹になり、霊的に食し、霊的に満腹となっていました。
信仰をもって霊的に食するべし
目に見える肉は胃の中に入って消化されない限り目に見える人間の栄養とはならず、その肉体において健やかでよいものとなることはありません。これと同じく、霊において肉にあたるものが魂や心に受け取られない限り内的な人間性の栄養とはならず、その人の信仰にとって健やかでよいものとなることはありません。聖キプリアヌスが言うように、わたしたちには歯を研ぐ必要などなく、むしろ素直な信仰心をもってパンを裂く必要があります。わたしたちが聖餐において求める肉は霊的なものであり、魂の栄養であって天にあるものの映しであり地にあるものとは違います。不可視のものであり目に見える肉的なものではなく、霊に属するものであって肉に属するものではありません。信仰を持たなくてもわたしたちが聖餐において食べたり飲んだりすることを楽しむことができて、そうして結実となると考えるのは、卑しい肉的な食事を夢想して自身を地にある食物や被造物と結びつけるものでしかありません。ニケア公会議では、わたしたちは信仰によって心を神に向けるべきであり、この下劣な地にある物事を離れ、義の太陽が輝くところに信仰を求めるべきであるとされています。信仰に篤い教父であるエメサのエウセビオスの言葉に耳を傾けましょう。「ああ、汝らこの食卓にあって強欲な者たちよ、汝らは祭司の聖体拝領にあって霊的な食に満たされるとき、信仰をもって神の聖なる肉体と血を見上げ、畏敬をもって驚き、心でそれに触れ、心の手でそれを受け取り、内的な人間性をもってそれを食するのである。」
まとめと結びの短い祈り
愛すべき者たちよ、聖餐の食卓に集い、神の約束を信頼しないという不信仰の根をすべて抜き取り、キリストの身体の生ける成員となりましょう。不信心で信仰心のない者たちが高貴な肉体を与ることはありません。一方で信仰深い人々は命を得て自らをキリストに向け、あたかもキリストの中に入るように一体となります。オリーブの実に、また真のぶどうの木の枝になる果実になりましょう。キリストの神秘体の成員となり、福音をよく受け入れてキリスト・イエスのご慈悲に与るという信仰を持ち、神がわたしたちの心を清めてくださることについて揺らぎなく堅固でありましょう。キリストの聖餐にあってわたしたちが受け取るのは目に見える聖奠だけでなく、霊的なものでもあります。形としてのみあるものではなく真なるものであり、陰ではなく実体としてあるものであり、死に至るものではなく命に至るものであり、破滅にではなく救いに通じるものです。そういったものを神は救い主の功績によって与えてくださっています。神にすべての誉れと栄えがとこしえにありますように。アーメン。
今回は第二説教集第15章第1部「私の体、私の血」の試訳でした。次回は第2部になります。まずは解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。
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